☆八十九話 新たな旅立ち
真昼のネバーランド。青空から照る日は晩春へと差し掛かり、日ごとに暖気を増しつつある。
そんな日差しに照らされた中で、詩乃は正面から兵馬の顔を眺めて問いかける。
「ねえ兵馬、なんかげっそりしてない」
「大丈夫だよ、はは……」
曖昧な笑みで返した兵馬。大丈夫とは言いつつも、その顔には明らかに疲労の陰りが残っている。
昨夜は温かい風呂に浸かり、広々としたベッドで寝た。
なのに疲れが根深く残っているのは、風呂場でマルゲリータからベタベタと触られまくったのが原因だ。
湯あたりで立てなくなった後、介抱ついでに全身を撫で回されたのは凄絶な体験だった。夢にマルゲリータがガッツリと出てきたほどだ。
身動きのままならない夢の中、やたらに艶のあるウェットな唇が力強く迫り……!!
(……本当に酷い夢だった)
容姿、人柄、密着度。
マルゲリータから得た諸々のインパクトをひっくるめて、兵馬はおずおずと口を開く。
「なんていうか、その……マルゲリータさんは強烈だね」
「濃いよね。私は慣れてるけど」
「ああ、夢に出てきたよ。うなされた」
「夢に。兵馬、もしかしてそっちの趣味があの」
訝しむような目をした詩乃へ、兵馬は反射的に「絶対に違うぞ!」と声を上げた。
その焦った様子がおかしかったのか、詩乃はくすりと口元を緩めて「冗談冗談」と呟く。
二人は向き合って座っている。都市全体が遊園地化しているネバーランドの中、遠景からも目立つランドマークである観覧車に乗っているのだ。
詩乃の左側ではプリムラがべったりと窓に張り付き、「うわぁぁ」と間延びした歓声を漏らしながら高所からの景色を楽しんでいる。
「見て見て、すっごいキレイだよ!」
「わ、本当だね。湖がきらきらしてる」
詩乃がプリムラと顔を並べて外に目を向けたので、兵馬もまた同じ方向へと視線をやる。
降る陽光は森林や平原、線路を走る鉄道をうららかに、鮮やかに彩っている。
詩乃が口にした通り、地平線に見える湖は微かに光を帯びていて、パノラマで望む雄大なユーライヤの大地はまるで一つの芸術だ。
「昨日の戦いが嘘みたいだな」
兵馬はぽつりと呟いている。
こうして安穏と遊具に揺られるに至った経緯は、ドニからの強い勧めだ。
「楽しいネバーランド! 素敵なネバーランド! 少しぐらい味わってくれてもいいだろう、兵馬?」
(まあ、遊具ごと爆破して葬るつもり……なんてこともないだろ)
パステルブルーの籠は遅々としたスピードで、ようやく周回軌道の頂点へと差し掛かったところ。
プリムラのようにはしゃぐタイプではないが、それでも高所からの景色には心が浮き立つものだ。
兵馬がぼんやりと窓を眺めていると、ひょいと彼の帽子が宙に浮いた。見れば、詩乃が片手で掴み上げている。
「なんだよ、帽子返してくれよ」
「返すけど、その前に……」
「……その、詩乃?」
兵馬は戸惑っている。向かいの席から少し腰を浮かし、詩乃が伸ばした手が自分の頭に乗っている。
金髪をさらさらと指で流しつつ、詩乃が頭を撫でてきているのだ。
唐突だ。揺れるかごの中で年下の少女に撫でられている状況の不可思議に面食らいつつ、兵馬はされるがままに抵抗はしない。
「なんで僕の頭を撫でてるんだ?」
「ふふ」
兵馬の問いに、詩乃は少し楽しげに。
「兵馬は撫でられたいって聞いたから、お礼」
「いや、それはプリムラが勝手に言っただけで……まあいいや。お礼って?」
「ここまで守ってくれたおかげでマルゲリータに会えたよ。兵馬、ありがとう」
詩乃は木漏れ日のような笑顔を浮かべた。
一緒に旅を始めた頃は仏頂面がベースの子だったのが、最近では随分と表情が柔らかくなった。
そんな中でもこれまでに一番の多幸感に満ちた笑みに、兵馬は少しだけ見惚れてしまう。
「やっぱり嬉しそうだけど、兵馬」
「い、いや……良かったよ、マルゲリータさんと再会できてさ。さあ、帽子返してくれよ」
「そう? もう少し撫でてもいいんだけどな。ふふっ、なんか上から目線で見れて楽しい」
「君が楽しいだけじゃないか! ほら、帽子を……うお、っと!?」
季節はまだ春、季節柄の強い風が時折吹く。
それが高所ともなれば余計に強く、観覧車のかごがぐらりと揺れた。
ちょうど兵馬が手を伸ばしたタイミングと重なっていた。帽子を取るべく前のめりに腰を浮かした、その瞬間に後ろから背を突かれるような振動。
つんのめるようにバランスを崩し、前へよろけた兵馬は何かに顔からぶつかった。
「……」
「……」
厚みはあまりない。しかしそれでも柔らかさと温もりが確実に感じられて、静かな呼吸に上下動している。
兵馬は狼狽している。彼が突っ込んだのは確かめるまでもなく詩乃の胸元で、この頬が触れている感覚は……違う、俺はそういうキャラじゃない!
「す、すまない! これは」
「このドスケベがあっ!!!」
「ぐっふ……!」
硬質で鋭いフックが兵馬の左頬を打ち抜いた。一撃を放ったのは詩乃ではなくプリムラだ。
最近ではすっかり兵馬への警戒心をなくしていたプリムラだが、この場面での一発は速かった。
牙を取り戻したような瞳、一撃のフォロースルーに肘を折り畳んだままで型を保ち、「シュッ」と拳闘家めいて息を鋭く吐いてもう一言。
「へい兵馬! ついに正体表したね!」
「いや事故でしょ」
ピシリと指を突きつけたプリムラに対して、詩乃はあくまで冷静だ。
いつもの調子で呟いて胸元のフリルを直しつつ、ブン殴られて椅子に伸びている兵馬へと帽子を被せ直して口を開く。
「ただ、気を付けてはほしいかな」
そう口にした詩乃の顔はほんの少し赤らんでいて、羞恥を含んだその表情に兵馬はまた意表を突かれる。
「……あ、ああ。本当にごめん」
「わざとじゃないからね、いいよ」
すんと息を吐いて頷き、詩乃は照れを隠すように頬杖をついて窓の外へと目を向けた。
マルゲリータと再会した昨日から、詩乃の表情が少しだけ豊かになった。
やはり親代わりの人間の生死が知れないのがずっと心に棘として引っかかっていたのだろう。
その心配が取れた今、詩乃の横顔には16歳という年齢なりの瑞々しさが垣間見える。と、言っても相当にクールかつシニカルな人格には変わりないのだが。
人間、見知った相手に違う一面が見えれば目を惹かれるものだ。
兵馬はそんな詩乃へとついつい目が向いている自分に気付き、拳でゴンと自分の額を叩いた。
(俺は……どうかしてるな。見守るだけだ。深入りしすぎるな。新人類の面倒に巻き込むわけにはいかないんだから)
やがて観覧車は下へと降り、マルゲリータと子供たち、それにわざとらしいほどの笑みを浮かべたドニが両手を広げて二人と一体を出迎えた。
長々と遊園地に留まるつもりはない。一刻も早くマルゲリータの旧知、ローズ将軍の元を目指すべきで、詩乃たちは駅で目的地へと向かう列車へと乗り込んだ。
「マルゲリータ、元気でね」
「大丈夫よ詩乃ちゃん、ここでの暮らし自体は悪くないから。そのうち帰れる日も来るわ」
詩乃とマルゲリータは車窓越しに手を握りあい、彼の目はそのまま兵馬へと向けられる。
「頼むわね、詩乃のこと」
「必ず守ります」
力強く言い切って、兵馬はドニたちへも目を向ける。
キラキラとした目でドニに従う孤児たちは、やがて彼の思想を成すための尖兵となるのだろう。
幼少の頃からドニの思想に沿った教育を受け、薫陶を受けた子供たちはパフォーマーや従業員の役割を完璧にこなす。
それは役割を暗殺者に転じたとしても同じことで、見送りの列に並んだアントンとエーヴァも同じ目をしている。
(追われなくなった。けれど、どこかで決着を付ける時が来るかもしれない。嫌な相手だよ、ドニ。本当に)
またおいで、またおいで、ドニ様のネバーランド。
ぼくらの夢の国、永遠のこどもの国。ドニ様はみんなのパパだから。
来た時と同じように朗々の歌声に見送られ、その中で一際悪目立ちしているアントンの調子外れな大声にプリムラが失笑し、そして列車は滑り出した。
向かう先は“城塞都市”ファルセル。国土北部の街並みに、二人と一体はそれぞれの思いを向けて……
「はぁい、駅弁はいかが?」
すとんと、黒っぽい着物姿の女がボックス席の隅へと勝手に腰を下ろしてきた。
詩乃とプリムラは「あっ」と驚いた表情で、兵馬は「うげっ」としかめ面を左に向ける。
「なんで君がここにいるんだ。神崎」
「旅商だもの。どこにいたって不思議はないでしょう?」
兵馬からの詰問をひらりとやり過ごし、神崎は詩乃たちへと商売人の目を向ける。
「ねえ二人とも、いい商品があるの。ベルツの騒ぎの中でくすねてきたんだけど……」
興味を示した詩乃たちと神崎が三人で話を始めたのを横目に、兵馬は溜息を一つ。
また厄介ごとが転がり込んできた、そんな予感に、抜けるような青空を見上げた。
「セントメリアに近寄るな……か」
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聖都セントメリア。
白塗りの白亜宮の深奥では、一人の少年が静かに玉座に佇んでいる。
紫黒の髪、緋色の瞳。
それは建国の英雄、エフライン1世と共通であり、ユーライヤ教皇国で最も尊く神性を表すとされている容姿だ。
エフライン・エル・ユーライヤ。
エフライン14世。
齢10にして多くの政敵にその座を狙われる少年教皇は、聡明にもその敵意の全てを把握し、理解している。
「神を殺そうと目論むか、ヴィクトル、アナスターシャ」
起ころうとしている騒動、その渦の中心点である少年は、空を見上げて静かに呟いた。
「いいだろう……殺してみせろ、人間よ。出来るものならな」




