八十七話 新人類《ニギア》
ネバーランド。テーマパーク化され、多くの人々が訪れる観光都市にも夜となれば静けさが訪れる。
旅行客たちは宿泊施設の立ち並ぶエリア、古城やツリーハウス、牢獄に海賊船と様々なモチーフごとの宿を好みに合わせて選び、趣向の凝らされた設備で楽しく一夜を過ごす。
だが、詩乃たちが宿泊しているのは従業員エリア。最初に訪れたドニの住居から、徒歩で三分と離れていない位置。
マルゲリータが暮らしている小綺麗なログハウスに、詩乃たちも手荷物を運び込んで腰を落ち着けていた。
未だ敵地とはいえ、ドニたちがここからさらに襲撃を掛けてくる理由はないように思える。殺すつもりならここまでに仕掛けられる場面はいくらでもあった。
ドニと旧知らしい兵馬も臨戦の姿勢を解いていて、それならと詩乃とプリムラも警戒を解いた。
親代わりのマルゲリータと旅の経緯を語らい、褒められて笑い、少しだけ涙を滲ませ、そして詩乃は疲れ果てて眠っている。
品の良いシルクのパジャマに着替え、歯を磨き、ソファーベッドに身を横たえ、そして目を閉じて電池が切れたように寝息を立て始めた。
プリムラもその横で肩を並べて目を閉じていて、そうしていればルックスは異なれどまるで姉妹だ。
ベルツでの戦いから休む間もなく続いた緊張から、ようやく訪れた一晩の休止。
安堵の寝息が寝屋へと静かに響く中、兵馬は浴場でたっぷりの湯に肩を浸している。
ゲイのマルゲリータと隣に並んで、もちろん裸で。
「あーん快感」
(……落ち着かない)
詩乃たちが先に風呂に入り、上がってすぐに寝たので兵馬は入れ違いに風呂へ。
湯船に身を浸したところで、ガラガラと扉を開いてマルゲリータがしっとりと手を振りながら乱入してきたのだ。
まあ、幸い湯船はかなり広い。ちょっとした公衆浴場ぐらいのサイズがあって、大人三人までならお互い気兼ねせずに湯に浸かれそうだ。
問題は、それだけの広さがありながらマルゲリータが兵馬と肩の触れ合いそうな位置に身を浸してきたという点なのだが。
(なんだ? なんでこんな距離感で入ってくる? マルゲリータさんは、なんというか、ゲイで……)
脳裏におぞましい想像がよぎるが、手柄杓でお湯をピシャリと顔に打ち付けてそれを打ち払う。
(いやいや、ない。何を恐れているんだ。マルゲリータさんは詩乃の育ての親だぞ、そんな妙な行動に出るはずが)
「アラァ、脱ぐと筋肉質で結構好み〜」
「うわあああっ!?」
二の腕にぺたりと指の腹を這わされて、兵馬は思わず跳ねるようにお湯から立ち上がっていた。
立てば下半身が露わになる。程よい高さに位置してしまった股間をマルゲリータに凝視され、「うっふ」という喜声に身の危険を感じつつ慌ててタオルで隠す。
「逃げなくたっていいじゃないのぉ、裸のおつきあいしましょうよ」
「ひっ! そ、その手の趣味じゃないんだ。申し訳ないけど少し離れてもらえないかな!」
「あ〜ら、ノンケなのね。脱いだら不夜城でもモテそうなのに、残念ぇん」
「不夜城? ああ、詩乃の実家のゲイバーだっけ。そこでモテても全然嬉しくないな……」
服を着ている時は胸がある。一応女性に見えないこともないマルゲリータだが、実はその胸は樹脂やらで作られた着脱式の偽乳だ。
脱いでしまてば存外に引き締まった体やら股間やらが見えるわけで、もうあからさまに男でしかない。
風呂場で裸の男に間近に迫られる、その恐怖感は如何ともしがたいものがある。相手の頬が朱に染まり、熱っぽい視線を送られればなおさらだ。
兵馬はすっかり縮みあがりつつ、お湯の暖かさと妙な気疲れに「はぁ」とため息を吐いた。
「なんで一緒に入らなきゃいけないんだ……風呂でゆっくり疲れを取りたかったのに」
「あーん嫌そうな顔しちゃダーメ。たまには男同士の話も大事よぉ?」
ふと、マルゲリータがごくごく世間話の調子で尋ねかける。
「あなた、ニギアよね?」
「……!」
霞む浴室、湯気越しに見えるマルゲリータの瞳はおどけた男色家から真実を穿つ記者のものへと変わっている。
不意を突かれ、兵馬はどう返すべきか見つけられずに言葉に詰まる。
沈黙の中に波だった水面の微かな水音だけが響き、やがて兵馬がゆっくりと口を開く。
「どこまで知っているんだ?」
「ドニもあなたと同じニギアだということ、あなたたちを新人類、それ以外の人々……私たちを旧人類と呼ぶということ」
兵馬の瞳が鋭さを増す。
「どうして、僕がニギアだと?」
「女のカンよ」
「……」
女じゃないでしょうと律儀にツッコミを入れたくなったが、やっぱり面倒なのでスルーする。
黙ったままの兵馬を見て、マルゲリータはそのまま言葉を続ける。
「存在を知ってしまえば判別は付くわ。世界に紛れたあなたたちニギアは、私たちと違うものを見ている」
「……」
「どこの町にもやたらと多い薬物中毒みたいな連中、あの中にニギアたちは紛れてるわよね?」
「そこまで知っているのか……」
「ドニがシャングリラとして麻薬を売り捌くのは組織の資金稼ぎ……だけじゃない。本当の目的はあからさまに様子のおかしいニギアたちを浮かせないための隠れ蓑」
兵馬は内心、驚きに舌を巻いている。
このマルゲリータという人物、ふざけているようでいてその実、ぱっと見の印象よりもとびきりに優秀な人物らしい。
秘匿された新人類の存在、一人の人間がここまで深く踏み込んでくるとは。
そんな兵馬の表情を流し目に伺いながら、マルゲリータはまた口を開く。
「まあ、その手のあからさまなのと違ってあなたやドニは上手く擬態しているけど……それでも見ていれば違いはわかる。少なくとも私にはね」
「……この風呂場にも盗聴器は付いてるはずだけど。ドニに聞かれてもいいのか?」
「あらあら、ナンセンスなことを言うのねえ。あなたにとって既知の情報を喋っただけで、ドニの不利益には繋がらないわ」
ひらりと手を動かし、「詩乃たちに聞せたらまずいけどねぇ」と付け足した。
なるほど、それで詩乃たちが寝静まった後に風呂場での会話を選んだということらしい。
マルゲリータは探る視線の深度をさらに増し、兵馬へと尋ねかける。
「新人類のあなたが旧人類の詩乃と関わっているのは気まぐれ? あなたたちにとって取るに足らない存在ではないの?」
「そんなことはない」
「育ててくれた親代わりの方と重ねているって話はさっきプリムラから聞いたわ。なら、多少の思い入れはあるのかもしれないわね」
「……」
「だけどね。どうにも、私はあなたのことを信用できないの」
もう長く湯に浸かっている。体は火照っているのだが、兵馬の視線は冷たく冴えていく。
「あなたの信用は関係ない。俺がいなければ詩乃はシャングリラに襲われて死んでいた」
「そうでしょうね。けれどドニはもう詩乃を襲わないわ」
「……それは」
「ここまで詩乃たちを護衛してくれたこと、感謝してる。その上で保護者として言わせてちょうだい。詩乃たちとはここで別れて」
「……」
「理由はあなたが新人類だから。十分でしょう?」
兵馬は言葉に詰まる。
マルゲリータの言葉が正鵠を射ていることは誰よりも兵馬が理解している。
このまま一緒にいれば、遅かれ早かれ詩乃たちをトラブルの渦中へと巻き込んでしまうだろう。
それだけでなく、兵馬にはやらなければならないことが別にある。
リオ・ブラックモアに保護されていた歌姫リーリヤが拐われ、おそらくは元帥ヴィクトルの手へと渡っている。
それは放置すれば世界を滅ぼす引き金となりかねない火種だ。どうにかしなくては。
だとすれば彼の言う通り、詩乃たちとはここで道を分かつべきだ。
そのことを頭で理解した上で、兵馬は口を開く。
「それでも、俺はまだ詩乃を見守っていたい」
心は理屈に従ってくれなかった。
それでも兵馬は自分の感情をありのままに受け入れ、素直な言葉をマルゲリータへとぶつける。
まっすぐな眼差しを受けて、詩乃の父であり母でもある人は兵馬を見据え……ばちんと強く、兵馬の肩を平手で打った。
「痛っ!?」
「あっは! 樹ちゃん、良い目するのねぇ!」
「な、っ……い、樹ちゃん?」
「なんだか意外〜。ニギアってみんなどこか目の奥が死んでるから、そんな瞳を見せてくるとは思わなかった」
そして兵馬の肩を力強く鷲掴みにする。
それは男の手。詩乃を守り育ててきた父親の手だ。
「……気持ちはわかったわ。道理を曲げても側にいたいってんなら、死ぬ気で守りなさい。詩乃を泣かせたら許さない」
「僕はあくまで護衛だ。その領分を踏み越える気はないし、護衛としての役目には全力を尽くすよ。死ぬ気でね」
「なぁにがあくまで護衛よ。そこは煮え切らないのねえ。メンズならメンズらしくビキっとしなさい!」
もう一度力強く、今度は後頭部を叩かれた。
と、兵馬の視界がくらりと回る。(まずい、のぼせた)と思うのと同時、前のめりにお湯へざぷんと顔から突っ伏してしまった。
お湯の熱にあてられて朦朧とする意識の中、マルゲリータの「あらやだ!」という声が遠くから聞こえてくる。
彼のたくましい腕で湯船から助け出され、浴室のタイル床へと寝かされて水をかけられる。
「大変大変! それにしても眼福ねえ〜!」
やけにテンションの上がったマルゲリータに介抱されつつ腹筋を撫でられ、全身をばっちりと凝視され。
戦いの疲れもあったのだろう。すっかりグロッキー状態の兵馬は「勘弁してくれ……」と呟くのがやっとだった。
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ネバーランドの夜空に兵馬の悲嘆が溶けた頃、事態は新たな局面を迎えている。
激戦の舞台となった工業都市ベルツから、セントメリアへと向けて一隻の飛空艇が夜天を駆けている。
ブリッジの全面窓から、前方を包んだ白霧を眺める男が一人いる。
獅子のたてがみのように立派な金髪と髭、万物を睥睨するかのような覇気に満ちた金眼。
国軍元帥、ヴィクトル・セロフだ。
その傍らには怜悧な瞳、ヴィクトル側に付いていると明言したクロード・ルシエンテスが佇んでいる。
人影はさらにもう一人。鋭い眼光に独特の雰囲気を有した長身の男が腕組みをして手すりに背中を預けている。
彼はロメオと名乗る、ユーライヤ屈指の傭兵だ。法外な報酬を要求するが、代わりにその仕事ぶりは盤石。
元帥ヴィクトルと枢機卿アナスターシャ、国で屈指の権力を持つ二人が結託しているのだから、その人脈を用いて連絡を取り、雇う費用を捻出する程度は容易い。
この傭兵ロメオこそが、歌姫リーリヤを企業連のビルから誘拐してみせた男なのだ。
「鍵は揃った。あとは時を待つだけだ」
そう呟いた元帥の下へ、黒髪を後ろで結わえた長身の女が一礼と共に現れた。
「閣下、お連れしました」
「ご苦労。下がれ」
「は」
彼女は元帥の副官だ。存在感はあくまで抑え、もう一度礼をして下がっていく。
彼女が連れてきたのはリーリヤだ。後ろ手に両手を縛られ、状況を飲み込めていない様子。
それでも勝気な表情を崩さずに、ヴィクトルを睨みつけている。
「拐われた花嫁の帰還、か」
悠と呟いたヴィクトルに、ついにリーリヤはその瞳に怒気を宿す。
宮廷歌手として淑女を装った仮面を外せば、どんな相手にでも強気で悪態を吐きまくるまさに烈女。それがリーリヤの本性だ。
「なによ、今度は元帥閣下さまがアタシを誘拐? はぁー人気者って辛いわね。ふざけんじゃないわよ!」
「歌姫リーリヤ、大人しくしていれば聖都セントメリアへと帰れる。然るのち、我々の計画へと協力を願いたい」
「……なんだっての? 誘拐から連れ戻したと思えば縛ったまま縄も解かずに、いきなり計画に協力しろって? するわけないでしょバァカ!!」
ヴィクトルが手を薙いだ。
打擲音が響き、縛られたままのリーリヤはブリッジの硬い床へと受け身も取れずに叩きつけられた。
その頬は腫れ上がり、形の良い鼻からは赤く血の筋が垂れている。
鼻血だ。そう、リーリヤはヴィクトルから頬を強く叩かれて床に転がったのだ。
「は、え……叩い……?」
「リーリヤ。貴様が協力的な姿勢を示さくとも、私は首を縦に振らせてみせよう。死ななければ良い。それだけのことだ」
ヴィクトルは手に歪な形状の金輪を手にする。
ちょうど頭がはまるほどの輪の内側には細かな棘が付いていて、おそらくは拷問器具の類だろうとリーリヤにも一目で伝わった。
それだけでない。よく見れば、ヴィクトルの傍らの台座には恐ろしげな道具がいくつも並べられている。
「……!? な、なんで? いや、嫌。私はなにも、ちょっと性格悪いかもしれないけど、何も悪いことしてない……」
「貴様の人格のような瑣末なことは問題ではない。是か否か、それだけだ」
「……どうして……?」
恐怖よりも驚きに襲われ、リーリヤの頭脳はまだ回転を留めている。
ただ、自分が命の危機にあるということだけは理解していて、丸く見開かれた瞳からははらはらと涙が零れて落ちる。
あの不遜な誘拐犯、リオ・ブラックモアは「国から匿うため」と目的を語っていた。
まるで実感はわかなかったが、こうして軍のトップから凶気を向けられてみて初めてわかる。
自分は今、命の危機にあるのだと。
(私は、私はただ歌が好きで。歌で目立ちたくて、拍手されたくて、それと、みんなを笑顔にしたくって……)
自己顕示欲の混じり気はあっても、リーリヤは心から歌うことを愛している。
わがままなところはあるが、自分が歌った時に人々の間に咲く笑顔の花を心から愛している。
だから宮廷歌手になった。それだけなのに。
「……こんなの、嫌……」
——爆音!!!!
飛空艇が揺れ、「何事だ」とヴィクトルが表情を微かにしかめた。
船を動かす操縦士たちが「侵入者です!」と声を上げ、モニターには船の後尾へと突入した一人乗りの小型機の姿が映し出される。
そして銃声と罵声、ブリッジ後部の扉が開き——
「畜生が……大見得きって任されといて、拐われましたで終わらせられるかよ」
「り、リオ……?」
「来たぜ、取り戻しによ」
現れたのはリオだ。
トレードマークのフライトジャケットに身を包み、大口径の銃を片手にひっさげて。
窮地に颯爽と、いや、荒々しく現れたその姿に、リーリヤは目尻に涙を溜めながら声をかける。
「あなた、まさか、私を助けに……」
「アァ!? テメェはおまけだ性悪女! 取り戻しに来たのはなぁ……俺の面子だ!!」
「こ、このクソ誘拐男……! 一瞬喜んだ私が馬鹿みたいじゃないの!!」
ちょっとときめいてしまった腹立たしさに、リーリヤが涙目のまま怒鳴っている。
その声と飛空艇のエンジン音を背景に、ヴィクトルへと突きつけられる大型銃。
遥か高空4000m、リオ・ブラックモアがプライドの咆哮を上げる。




