八十四話 少年と招かれざる客
「ああ寒い。骨身に堪える寒さだ。この教会は客に茶も出さないのかね」
咳きを一つ、わざとらしく渋面を作り、ノーリは挑発的に片眉を上げてみせる。
彼は背が高い。肩幅も広い。
科学者らしからぬ威圧的な体格から160センチ台半ばのターシャと兵馬を見下ろしてくる。まるで実験動物を見るかのような目で。
「飲みたければそこのをどうぞ」
無愛想に、ターシャが指差したのは床に置かれたバケツ。
そこには掃除のためのモップが突っ込まれていて、薄茶けた色に濁った冷水が薄く張られている。つい今し方まで掃除中だったのだ。
辛辣な対応に、ノーリは洞穴に反響する風のような音で笑う。彼にその意図があるかはわからないが、嘲笑や侮蔑、そんな不快感を相手に与える響きだ。
「茶は諦めよう。だがせめて屋内には入れてくれんかね。この寒さだ、老体が軋む」
「……ドアを閉めればいい。でも、そのゾロゾロ連れてる部下は一人だけにしてくれる」
「ふむ、仕方ないね。204号、付いて来なさい」
ノーリの背後に並んだ男たちの中から一人が彼へと付き添った。
部下たちの見分けはまるで付かない。揃いの黒服に黒の中折れ帽を被り、そのつばで視線を隠している。
まるで人間味のない風貌、さらには204号と番号で呼ばれているその様子が、兵馬の目にはひどく不気味に映った。
対照的に、ドアを潜って部屋へと踏み入ってきたノーリは精気に満ちている。
おそらくは相当の老人だろうに、眼光はギラギラとしていて、ふしくれだった指は木の幹のように力強い。
そして扉が閉められてみれば、彼の体から強く香水の臭気が漂った。枯れたような齢にして未だ欲望は尽きず。
ターシャは本能的な嫌悪感を隠そうともせず、ボウガンの照準はぴたりと合わせたままでいる。
「さて、我々はどこに座ればいいのかね?」
「立ち話で。長居をされたら部屋中がコロン臭くなりそう」
「クク、ご挨拶だな」
そうしてノーリと護衛を玄関先に立たせたまま、ターシャは兵馬へと手早く耳打ちする。
「エルモ・ノーリ。裏の業界では有名な男で、倫理を母親の胎内に置き忘れてきたような奴だよ。まあ俗に言うマッドサイエンティストだね」
曰く、昔から色々な機関に雇われて後ろ暗い研究に手を染めている科学者だと。
しかし人格面の問題から、一つの組織に長くは留まれずに解雇と雇用を繰り返している男なのだという。
「技術力は群を抜いてるらしいけどね。裏でもすこぶる評判の悪いやつなの」
「おや、それは正しくないな。研究に価値を見出せなくなれば私の方から離れている。それだけのことだ」
自らを下げる言葉には即座の否定。鼻っ柱が強いようで、年齢なりの落ち着きや老成というものを欠片も感じさせない。
なるほど、確かに人格に問題のある男なのかもしれないと兵馬は考える。
と、老科学者が鼻息のかかるほどの距離で兵馬の顔を覗き込んできた。
「うっ……!?」
「だが今の研究は実に良い。素晴らしいものだ! 少年。君と出会ったあの日から歳月を経て、研究は飛躍的な進歩を遂げた。これは人類を次のステップへ進める偉業だ。そして君は私が見出した中でも十指に入る最上の素体! ぜひ協力を願いたいのだよ!」
肺の息を全て吐き出すような勢いでまくし立てられ、兵馬は思わず仰け反ってしまう。
気圧されて後ろに転びそうになったところを、ターシャが手を押し当てて支えた。
そして静かな怒気を隠そうともせずに口を開く。
「話にならない。この子は渡さないよ。今すぐに帰らなければ射つ」
「シスター・ターシャ。私は君と話をしに来たわけではない。こちらの少年と……いや、もう青年と呼ぶべきかな。彼と話をしに来たんだ」
「未成年だから。保護者が口を挟むのは当たり前でしょう」
「なるほど理はある。だがフェアではないな、ターシャ。君が彼の保護者ならば、知らせなくてはならないことがあるはずだが?」
さっと、ターシャの顔色が変わった。
狼狽に息を吸い、表情を青ざめさせている様子はいつも冷静な彼女には珍しいものだ。いや、珍しいどころか一緒に生活をするようになって初めて見る姿かもしれない。
興味と不安をかきたてられ、兵馬はノーリへと尋ねかける。
「知らせなくてはならないこと?」
「そう、君には知る権利がある。彼女は病を患っている。それも……クク、余命が一年と残されていない死病をね」
「な……!」
「……っ、デタラメだよ」
ターシャはすぐに否定を口にした。だがその反応を予見していたかのように、ノーリは一枚のカルテを兵馬へと提示する。
小難しい文面はまるで頭に入ってこなかったが、ターシャが複数の臓器に疾患を抱えているという事実、そしてノーリの言葉が嘘ではないという事実だけが、兵馬の目に強烈に焼き付いた。
「多弁を弄するよりよほど雄弁だろう。お望みならば差し上げよう」
「こ、れは……ターシャ? ターシャは、本当に……」
初めて得た家族、与えられた温もりと愛情。兵馬にとって何よりも大切で、今の彼の人格全てを象る礎と言っても過言ではないターシャの存在。
その生命が潰えようとしている事実は兵馬を自失させ、その視界を強烈に螺旋させた。
青年の見る光景からは現実味が失われ、ターシャが叫んでいる。
「ッッ……!! お前!!」
「204号」
怒りに叫び、ターシャがクロスボウの引き金を引いている。
合金製の板バネがバギュと特有の音を軋ませ、矢は老博士の首元へと迷いなく放たれた。
が、ノーリの横にいた男が横から手を伸ばしてそれを掴んだ!!
「この距離で……!?」
ごく至近だ、人の反射で捉えられる速度でもない。しかしそれを見事に手へと収めた“204号”は床板を荒く踏み砕き、弾けるような一歩でターシャの懐に滑り込む。
そして「フゥッ」と鋭く息を吐き、腹に猛然の肘鉄を当て込んだ。ターシャは鈍く呻き、思わず床へとうずくまっている。
「ッぐ……」
「死ね」
204号は無感情に一言吐き捨て、トドメを刺すべく高々と脚を上げる。ギロチンめいた踵落としの狙いがターシャの首へと定められ、そして!
「ターシャ!!」
「いや……大丈夫だよ」
204号の頭が、後ろからザクロのように弾けた。
血と脳症の飛沫を浴びながらもノーリは動じず、ただ不愉快げに崩れ落ちる男の死体を眺めている。
「身体能力で優っているからと侮ったな、204号」
「この場所で、私に勝てると思わない方がいい……」
この礼拝堂はターシャのホーム、あらゆる場所に仕込みがある。
うずくまった動きで床の仕込み糸を握り、引けば天井から吊り下げられたハンマーが弧を描く。204号の後頭部はそれにかち割られたのだ。
「“確殺”のターシャと呼ばれる腕は伊達ではないか。よくもまあ見事に実験体をおしゃかにしてくれたものだ」
そう口にしつつも、ノーリの口調は惜しさを感じさせない。
それどころか既に倒れた男への興味を失っていて、口元には歪な笑みが張り付いたままだ。
「しかし理解はできたろう。私が連れている残り六人、全員が今の男と並ぶ力量だ。争いはお互いのためにならん」
ターシャと兵馬、二人は共に動けずにいる。
家のドアが開かれ、黒服の男たちが今にも押し入って来ようとしているのだ。
それをノーリが横に伸ばした手で押し留めていて、その制止が決壊すれば彼らは鉄砲水のように室内へと雪崩れ込むだろう。
もちろん仕込みはまだある。だが全員を仕留められたとして、兵馬までを無事に守れる自信が今のターシャにはなかった。
(さっきの肘、深く打たれすぎた。腹が……)
「私の研究、“ニギア計画”は完成の手前にある。青年よ、あの夜に君が逃げたことはむしろ幸いだったかもしれない。最上の素体を研究段階で浪費せずに済んだのだからな」
悪辣の博士は手を伸ばす。
「私は悪魔ではない。人であり、科学者だ。故に、ただ選択肢を提示しよう、青年」
「選択肢……?」
「我が“ニギア計画”には潤沢な資金がある。設備がある。君がその身を私に提供すると言うのなら、シスター・ターシャの病を快癒させるためにあらゆる支援を提供しよう」
「っ……」
兵馬は唇を噛む。
保護者にして恩人、愛情を与えてくれた人、彼にとって唯一の寄る辺であるターシャは何物にも代え難い存在だ。
彼にとっての世界そのものと言ってもいい。それが喪われようとしている今、ノーリの言葉はあまりにも甘い。
そんな兵馬の逡巡を悟り、ターシャは鋭く声を掛ける。
「聞く価値はないよ。私は殺し屋、金ならある。けど治ってない。賢い君ならわかるよね」
「っ、治療の意味はない病気……」
ノーリが手を揺らす。兵馬の迷いを嘲るように。
「勘違いをされては困るね。言葉は正しく聞きたまえ。治療費とは言っていない。盤石の支援を、と言ったのだ」
「……教えてくれ、ノーリ博士。あなたはターシャに何ができる」
「治そう。その病を完璧に」
「……」
「ふざけないで!!」
叫んだのはターシャだ。
毅然と立ち上がり、ノーリの申し出を強い口調で突っぱねる。
そして一緒に生活を始めてから初めて、兵馬へと腕利きの殺し屋としての殺気を感じさせる目を向けた。
「私はそんなことは望んでない。こんな男の治療を受けるなんて冗談じゃない。君がどう考えようと、絶対にお断……っぐ、ぷ……!?」
ボタタと溢れ、床を染めた紅はターシャの口から漏れた鮮血だ。
よろけ、ターシャは大量の吐血を吐き散らしている。その顔には死相すら浮かんでいる。
柔軟に、強靭で、しなやかで、しかし曲がらずまっすぐに。
兵馬の知るそんな彼女とはあまりにも異なる姿に、胸を引き裂かれたような思いで兵馬は駆け寄っていた。
「ターシャ!? ターシャ!!」
「私、は……大丈夫だから。さっき食らったのが効いた、かな……」
「たかが肘打ちの一発で内臓が破けるほどヤワな鍛え方はしていないはずだ。それは君がよく知っているだろう? 青年よ」
病に身を蝕まれながらも、兵馬を心配させないようにひた隠しにしていた。
その病状を一撃のダメージで隠し切れなくなった、そういうことだろう、とノーリが語る。
ノーリという科学者は執着心の塊だ。
見出しながらも逃した素材のことを片時も忘れず、それが腕利きの殺し屋に保護されたという事実を知りながらも諦めずに時を待った。
徹底的にターシャの身辺を調査し、病気を知り、病状が進行するのを待って来訪したのだ。
「どこぞの地では果報は寝て待てと言うそうだよ、シスター・ターシャ。君の中に巣食う病巣はまさに私にとっての福音というわけだね」
「……この子に、手は出させない……っ」
「ターシャ、立っちゃ駄目だ! 体が……!」
「おや、その瞳に燃える色は母性かね。気の立った母は最も警戒すべき動物だが、しかし死病に気概では抗えまいよ」
鷲鼻を鳴らして嗤い、ノーリは一枚の名刺を懐から取り出した。
「さあどうするね? 今決めろとは言わんさ。連絡先を渡しておこう。この紙切れと彼女の病状、二つを見比べてにらめっこに悩むがいいよ」
それを兵馬の足元へと投げ、「急ぐことをお勧めするがね」と嫌らしく言い添える。
兵馬は迷うことなくそれを拾おうと手を伸ばし、ターシャが弱々しくも鋭い声でそれを制する。
「……それを拾うのは許さないよ」
だが、兵馬は落ち着いた表情で首を左右に振った。
「ターシャ。僕はもう、守られるだけの子供じゃない」
「……っ、だけど」
「もちろん、即決はしないよ。知ってるだろ、僕は慎重派だって」
「……」
「選択肢は手にしておく。それだけだよ」
兵馬は名刺を拾い上げ、ターシャはもうそれを制さない。そこまでを見届け、ノーリは身を翻して扉を出る。
先は見えているとばかり、醜悪な笑みを浮かべて老博士が去り……
その日を境に、一日、一日と、ターシャは目に見えて弱っていった。




