八十二話 少年が彼女と出会うまで
ドニは兵馬の過去を語る。
円滑に、まるで当事者であるかのように。
戦火に衰えた小国の片隅、“兵馬樹”は枯れた森の中を歩いていた。
聞こえるのは虫や鳥の鳴き声と、寒風が枝を揺らす音。それと、追ってくる大人たちの剣呑な足音と。
今とは違い、まだ背丈が130センチをわずかに越えたばかりの子供の頃。片足から血を流し、痛みに涙を堪えながら森の中を進んでいく。
「嫌だ、来ないで、死にたくない……誰か助けて……!」
少年は家庭を知らない。彼に親はいない。
そこは戦火を経た小国だったが、戦災孤児というわけではなく、物心ついた時には町の路地裏でボロ毛布にくるまる生活を送っていた。おそらくは捨て子だったのだろう。
くたびれた枯草色のコートを羽織り、キャスケット帽で表情を隠して日々をやり過ごす、そんな生活。
幸いなことに、彼の暮らしていた町は落ち着いた気風の土地だった。町人たちは少年を憐れみ、気まぐれにパンやコインを恵んでくれた。
ただ、彼を引き取って育てようという善意ある人までは現れなかった。戦火のあおりで町には似たような境遇の孤児が溢れていて、兵馬が特別というわけでもなくありふれた話だったのだ。
寒い土地だ。冬は恒常的に氷点下を記録する気候で、その寒気をカラン、カランと鳴る古びた鐘楼の音が震わせる。
少年は厚着をしてマフラーを巻き、使われなくなった地下の水道に潜り込んで寒気をやり過ごしていた。
それでも凍死していく子供たちは少なくなかったが、彼はそうはならずに生き延びていた。
(どうにでもなるさ、生きていくだけなら。駄目だったとして、冷たくなって目が覚めない。それだけだよ)
未来への希望を抱くわけでもなく、さりとて絶望するでもなく。
餓えかけた時だけは観光客を狙って少しばかりのスリを働きながら、少年は冷めた瞳でそう考えていた。
顔見知りの孤児たちが夜を越せずに冷たく路地に横たわる。そんな光景を見たのは一度や二度ではなく、死とは彼にとって日常と隣り合う一つの終着点、それだけの物だった。
しかし、状況は変わる。孤児狩りが始まったのだ。
孤児たちの間には横にゆるやかな繋がりがあった。互助会とでも呼ぶべきか、年上の子供たちの主導で食料を分け合ったり、情報を共有しあう、そんな横の助け合い。
派閥争いがあったり面倒なことも多かったので、兵馬はその繋がりからは一定の距離を置いていた。それでも情報だけは流れてくる。
夜な夜な、マスクで人相を隠した集団が身寄りのない子供たちをさらっていっていると。
臓器を売る、マニアに売りさばく、あるいは人体実験の材料だとか、様々な噂が孤児たちの間で交わされた。
真相はわからないが、確かなことは一つ。捕まればロクな目には合わないということ。
捕獲者たちは逃げようとすれば容赦なく暴力を振るってくる。手足をチョークのようにへし折ることさえ厭わない。そんな連中に捕まって、美味しい食事と暖かなベッドが待っていようはずもないのだ。
子供たちは警戒を強めた。それでも一人、また一人と消えていく。
そして例外はなく、地下の兵馬の下へも捕獲者たちは現れた。
「捕らえろ」
まことしやかに囁かれていた通り、現れた捕獲者たちは仰々しい防塵マスクで顔を覆っていた。大人数で、さらには白い作業服を揃いで身に付けていて、ひどく不吉な雰囲気を纏っている。
彼らの手にした投光器の強光に地下の暗闇が照らし出された。過去に水道として使われていたその空間は兵馬だけでなく10人以上の子供たちが寝床にしていて、捕獲者たちにとっては格好の狩場だったのだろう。
準備は万端とばかり、子供たちが微睡みから動き出すよりも早く大人たちが駆け寄ってくる。無慈悲に警棒を振り下ろし、悲鳴さえ上げさせずに昏倒させていく。その手際はあまりにも手馴れている。
そんな光景に唇を噛みながら、空間の片端で兵馬は息を殺していた。
(本当に来た……捕まってたまるか)
慎重な少年だった。捕獲者たちの噂を聞いて以来、外への抜け道になっているパイプ付近で眠るようにしていたのだ。
外からの寒気が流れ込んで深くは眠れない場所なのだが、それでも逃走を優先してこの場所を選んでいた。
他の子供たちが捕まっていく中、気取られないようゆっくりと身を滑らせ……
「あそこにもいるぞ、逃がすな!」
「……! くそっ!」
捕獲者たちの中の一人、リーダー格らしい痩身の男は目敏く兵馬を見逃さなかった。
もう気配を殺す意味はない。少年は急いでパイプへと体をねじ込んだ。
「なんだここは、狭い場所に入り込みやがって……!」
(大人には潜れないよ)
かつて使われていた配管は手狭で、子供一人でもコツを知らなければ途中でつっかえる。増してや成人男性となれば、肩を入れ込むことは不可能なスペースだ。
そして管の途中に破裂した跡があり、外へと抜けられる穴になっていることを兵馬は知っている。
(こんなこともあるかと思って、狭いパイプを潜り抜ける練習は前からしてたんだ。他の子たちは抜けられなくなるのを怖がって寄り付かなかったけど……)
「あのガキ、手も届かないところまで入りやがって……」
背後では迫ってきていた男がそうボヤいている。
どうやらひとまずの安全圏まで来たようだと、兵馬は少しだけ安堵しつつ身を器用によじらせて先へ、先へと進んでいく。
すると再び、背後から声が聞こえてきた。
「どうします、ノーリ博士」
「一匹ぐらい構わんよ。ああ、検体だけは採っておけ」
そんなやり取りの直後、兵馬の足に鋭い痛みが走った。
「っ、ぐ……!?」
狭くて振り向けないが、何かが足に刺さっているのがわかる。
ふくらはぎの辺りが痛みに痺れる。細い管だろうか? そして“それ”が有機的にびくりと蠢いたかと思うと、兵馬は思わず叫び声を上げていた。
「うっあ……!? 痛っ、痛い痛い!!!」
ずるりと肉や骨ごと足から抜かれたのではないか、そんな錯覚を抱くほどの強さで、兵馬の足から大量の血が抜き取られた。
痺れるような激痛は足から骨、骨から髄へと染み入って、そこから脳天へと突き抜ける。
数秒で採血を終え、その管は抜き取られた。
そして苦痛に喘ぐ兵馬の耳に聞こえてきたのは、“ノーリ博士”と呼ばれていた男の「適合者だ!!」という歓喜の叫びだった。
「逃がすな!! 必ず捕らえろ!!」
(捕まったら殺される……っ!)
兵馬は生存能力の高い子供だった。寒空の町を一人で生き抜いてきたほどに。
強引な採血による痛みは大人でもその場でのたうち回って失神するほどの激痛だ。しかし歯を食いしばってそれを堪え、足から血を流したままに配管の中を必死に這いずった。
「管を壊せば入れるだろう!」
「無理です、機材があればともかく……それに音が出る。町人に気取られますよ」
「ふうむ、役立たず共め。ならば頭を使いたまえ。大方、先が抜け道になっているのだろう。先回りして捕らえろ!」
「了解」
(急がないと……)
兵馬は全力で這った。やにわに騒がしくなった背後の声に震えながら、しばらくの間、必死で這い続けた。
そうして辿り着いたパイプの裂け目は町の郊外、使われなくなった取水塔の傍ら。手に切り傷を作りながら急いで這い出し、まだ追っ手が来ていないことを急いで確かめる。
「……足、血がこんなに……っ」
荒々しく刺され、抜かれた採血器具は、兵馬のふくらはぎに穴を穿ちつつ縦に裂け傷を作っていた。そこからは湧水のように、だくだくと赤い血が溢れてきている。
子供は大人に比べて出血性ショックに至るまでが早い。兵馬の視界はくらくらと、月明かりに照らされながら明滅を始めていた。
「いたか」
「まだだ」
「急げよ、博士は随分とあの子供にご執心だ!」
(もう来たのか……!)
冬場なのが幸いしたか、枯葉は鳴子のように追っ手の接近を少年へと知らせてくれた。
兵馬は落ち葉のない場所を、あるいは湿った葉の上を選んで歩き始める。足音を立てずに、少しでも離れなくては。
(だけど、どこに逃げれば……町に? でも奴らは町の方から追ってきてて、無理だ。森の方に逃げないと……)
少年は歩いていく。足を引きずり、痛みに涙を浮かべながら冬の森を歩いていく。
耳に届いた“ノーリ”だとかいう博士の声は奥底に不吉な狂乱を秘めていた。街角に佇み、多くの大人たちが行き交う姿を見てきた彼にはわかる。あれに捕まったらもうおしまいだと。
「見ろよ、地面に血の跡があるぜ」
「聞こえてるか、小僧。鬼ごっこはもう終わりだ。さっさと諦めろ」
もう、捕まるのは時間の問題だった。
追走者たちは血痕を見つけ、その足音を的確に兵馬の方へと近付けてきている。
失血に手が震える。目が霞む。寒い、寒い。足は痛みを通り越して感覚を失い、頭は痺れて思考が回らない。
迫る足音はついに少年の背中を目に捉え、手が無慈悲に伸ばされる。
誰にも頼らずに生きてきた少年は、その生涯で初めての言葉を漏らした。
「死にたくない……誰か助けて……!」
——ズドン!!!
鳴り響いた銃声が夜の森を揺らし、飛び立つ鳥たちが月光を遮った。
雲の落とした夜陰に紛れ……修道服を着た女性が猟銃を構え、兵馬を庇うように割って入った。
「子供相手に寄ってたかって。気に入らない……」
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“ドニ”は、ドミニク・エルベは語る口を留め、兵馬へと目を向ける。
語られている過去とは異なる今の兵馬は、ドニの語る言葉に一切の口を挟もうとしない。
それを確かめてから微笑を浮かべ、ドニは詩乃へと目を向けた。
「それがターシャ。修道女のターシャ。君に瓜二つの女性だよ、佐倉詩乃」
「私と、そっくりの……」
疑問点は多い。だが、それを尋ねるのは聴き終えた後だ。
ドニが再び口を開く。




