七十四話 竜炎、そして
この世界に“ドラゴン”は存在しない。
街外の自然に跋扈する“モンスター”たちはあくまで動物が魔素の過剰摂取で突然変異を起こしたものであり、例えば大狼、例えば怪鳥、あくまで動物の範疇を保ったままに凶暴化したものが大半だ。
聖都の式典を襲ったハイドラのようにトカゲが巨大に変異したドラゴンもどきのような生物はいるが、灼熱を吐き空を舞う竜、それは人々の想像の産物だ。
だが、魔術の礎はイメージ力。魔術とは非現実を現実へと変える力であり、アイネが詠唱と共に脳裏へと描いた確固たるイメージは人々が畏怖し、憧憬する幻想生物、ドラゴンの大火だった。
そして『竜淵の焔』のスペルに伴い鎌を振り下ろせば、その刃先はまさしく大顎に牙を剥く竜そのもの。
魔力が渦を巻き、そしてレーザーのように収束されたブレスが放たれ——地を穿つ猛炎!!!
「う、おおっ……!!!!」
アイネが大魔術を放つ気配を見て、メルツァーとルカはジェラルドから距離を開けていた。
アイネは魔術を使う際に味方を巻き込まないよう微細な制動をしているのだが、それでも最大規模の炎とあってはどうなるかわからない。
そんな考えから迅速に離れていたのだが、しかし。背後で閃熱が弾け、瞬間、距離を開けてなお凄まじい烈風がメルツァーとルカの背をわずかに浮かせている。
メルツァーは思わず驚嘆に呻いている!
どうにか路地の物陰へと飛び込んで風圧から逃れ、ルカはすぐさまジェラルドの方へと顔を向けた。
そして目にした光景は、あまりにも常軌を逸したレベルのものだった。
「爆炎が……いや、煙? 物凄い勢いで空に昇ってる」
ルカはその言葉に思い至らなかったが、それはいわゆるキノコ雲だ。
爆熱に拡大した空気が収縮を始め、爆心地へと猛烈に集まり上昇気流を成している。
この世界にはない物だが、アイネの生んだその爆炎は燃料気化爆弾が爆ぜた炎に近い。
14歳の少女アイネが生み出した爆風は、見渡せる範囲の街区全てを薙ぎ払って更地に変えるほどの暴力的な熱量を有していた。
竜術、それは火術師たちが目指す一つの極み。
自らをドラゴンめかせて放たれた炎は、人々が痛く空想上の竜のブレスと比肩してもまったく引けを取らないものだった。
加えて。
「うぐぐぐ……!! 熱も炎も、ちゃんとコントロールせんと……!!」
アイネはただ野放図に爆熱を解き放ったわけではない。
自身の才覚が生み出した膨大な熱エネルギーを細い両腕で押さえ込み、がくがくと全身を震わせながら辛うじて立っている。
全てを灰燼に帰してしまう劫火は、空間を熱に震わせ大気を鳴かせながらも一般人に犠牲を出していない。
同時に耐えられるだけの強固な魔素障壁を優秀な感知能力で見つけ出した全ての人々に張り巡らせ、さらには建物への延焼、溶融の被害を抑えている。
ルカとメルツァーも、本来ならば消し炭になっていただろう。
ルカは仲間の、チームを組むことの多い馴染みのアイネが秘めていた恐るべき才能、その本領を目の当たりにして、思わず息を飲んでいる。
「ううん。本当に天才なんだな、アイネは……」
つまるところ、アイネの魔力がその威力を十全に発揮したのは三鬼剣、ジェラルド・ヘイズの立っていた場所からほんの3メートル四方の範囲だけ。
その空間は未だ新星のような熱に白く輝いていて、メルツァーはジェラルドの感覚を想像して身震いをする。
(影も残らない、というやつだな)
「わ、たし…………っ」
メルヘンな魔法使いよろしく、ジェラルドの攻撃を躱すためにふわふわと空中に漂っていたアイネが気を失った。
今の一撃を見て彼女の才能に異を唱えるものは国土のどこを探してもいないだろう。 しかし、あくまで小柄で華奢な少女なのだ。その身に宿せる魔素の量には限りがあって、今の大魔術と被害の防止に使った魔力は明らかに容量オーバー。
今にも気を失ってしまうだろうというのは目に見えていたので、ルカがそつなくその下へと移動していた。
ぐったりと落ちてきたアイネを衝撃を殺して抱きかかえ、年下の少女へと強く尊敬の眼差しを向けている。
「本当に凄いよ。アイネは」
「はあぁ……ありがと〜……」
力なく声を返して手をふらふらと振り、アイネは疲労も露わに首をがくりと垂らした。
ルカとメルツァーは顔を見合わせ、苦境を打破してくれたアルメル隊最年少の少女の寝顔を苦笑ながらに眺めている。
他の兵士は最も若くて20歳、そんな隊の一人だけ14歳のアイネが混ざっているのだから気苦労も多いだろう。
それでも頑張って見せてくれたアイネへ、メルツァーは自分の愛娘たちに向けるのと同じ優しい視線を向けていた。
そんな穏やかな緊張の弛緩は、ただ一声でいとも容易く破られる。
「手を上げろ……生意気な、はらわたの煮え繰り返る……! アルメル隊のクソども……!!」
「ジェラルド・ヘイズだと……なんで、どうやって免れたんだ……!」
恐るべきことにジェラルドは生きていた。ルカはもう一度、さっきとは違う気持ちで息を飲んだ。
ありえない。あのアイネの竜さ術を受けて、一体どんな手で生き延びたというのか。
“重戦車”だとかいうあだ名の通り、それほどに頑丈な体をしているとでも?
いや、違う。ジェラルドを生存させたのは戦場の経験。
最前線に常に身を置いていた彼が超火力に身を晒された経験が一度や二度ではない。
正体のわからない攻撃にも凄絶な爆発にも、ただ一つジェラルドが信頼している盾がある。
「いい盾だったぜえ、そこのガキがご丁寧にも雑魚どもに張り巡らせてくれてたおかげでなあ!!」
ようやく熱の揺らぎが消え失せた彼の足元には、なんと何人もの住民たちが積み重なっている。
アイネの術が炸裂する寸前、ジェラルドは持ち前の生存本能を発揮して姿の見えていた住人たちを魔力で吸い寄せた。
そして彼らを情け容赦なく積み重ね、アイネの作った障壁を逆利用して即席の塹壕を作り、その中へと身を隠していたのだ。
結果、爆風の中心に巻き込まれた人々はバリア越しでも強いダメージを受けて苦痛に呻いている。
もちろんジェラルドも大怪我は負っている。片腕は消し炭だ。だが、あまりにも悪い。
ルカは慄然と、ジェラルドの姿を睨みつける。
「まさか……なんて奴だ」
「勝てばいいんだよ、勝てばよ。そしてこの勝負……俺の勝ちだ」
ジェラルドは銃口を構え、地にうずくまっている住人たちへと突きつけた。
「動くな」と勝ち誇っている。このまま一般人を盾に、メルツァーら三人へと攻勢を仕掛けようというのだ。
(どうする、動けない……アイネはもう限界で意識がない。僕もメルツァーさんもこの状況を覆せる手は持っていない。だとして……!)
全滅。そんな言葉がルカの脳裏によぎった、瞬間!!
「な、これは……足元が浮いて?」
「行け、ルカ。アイネを連れて逃げろ」
「……!? メルツァーさんはどうするんです!」
「優先度の問題だ。隊にとって必要なのは私よりも……未来のあるお前たちだ!!」
ルカにそれ以上の抗議の間を与えず、メルツァーが仕込んでいた時限式の魔法陣から突風が噴き出した。
ルカ、それに抱えられたままのアイネは風に煽られて吹き飛ばされ、そしてメルツァーとジェラルドは一対一で睨み合う。
「あの若造たちは追って殺すが……まずはテメエだな。面倒を増やしやがって」
一般人が撃たれようが構わず戦う、そんな選択肢がなかったわけではない。
だが、アルメル隊は若き隊長アルメルのまっすぐさとひたむきさに感化された者ばかりだ。
だとして、一般人を見捨てる戦術はありえない。融通が利かないようだが、メルツァーは自分のとった選択に満足している。
(ルカとアイネは逃がせた。あとは……私がこの男に抗う。民間人を解放してみせる)
そう考えつつも、単身で立ち向かえる相手ではないと重々理解している。
ジェラルドの表情に燃えるような殺意が宿り……メルツァーは、胸のポケットに固い感触を思い出している。
愛娘の一人から手渡されたお守りだ。
「開けたくなったら開けてもいいからね」と言われていた。
そんなことをしている場合ではないのだが、ついその画用紙で作られた二つ折りのお守りを開いている。
そこには娘たちの字で文字が書かれていた。嫌われているとばかり思っていた、反抗期の上の娘の字も一緒にだ。
娘二人の連名で、綴られた言葉は「大好きなパパが無事に帰ってきますように」と。
目の前で吠えるジェラルド、振りかざされた炎拳。
受ければ体は粉々だろう。それでも恐怖よりも感動が凌駕している。メルツァーは感極まり、目から涙を流しながらメイスを握りしめた。
覚醒? いや、そんな歳ではない。ジェラルドの一撃を止める術はやはりないだろう。
「それでも俺は、決して諦めん……諦められるものか!!」
「死ねえええええ!!!!!」
————切。
流麗な筋が、Zの形にジェラルドへと疾る。
肩口から入り胸へ、腹へと返して腰へ。躊躇なく、そして美しく閃いた剣。
その主は流れる所作で刃に付着した血滴を払い、桜のようにジェラルドの血が舞う。
殺戮の巨漢ジェラルド、その最期はあっけなく、声すら漏れない一瞬だった。
そして彼女は激戦を経てきたらしい傷だらけの体で、しかし五体満足のままに、いつもの調子で声を発した。
「ご苦労、メルツァー」
「……アルメル、隊長……!!!」
助けられた。命を取り止めた……!
しかしメルツァーは優秀な軍人だ。深い安堵に浸るのはほんの一瞬、すぐさま作戦の状況へと思考を戻している。
傷だらけだが、アルメルが生きてここにいるということは。
「勝ったのですか、隊長!! ヴィクトル・セロフに!!」
息急き切って尋ねたメルツァー。
しかし、アルメルの顔は微妙な、不服げな表情を浮かべていて。
「………………負けてはいない」
とだけ、不貞腐れたように呟いた。
元帥ヴィクトルと六聖アルメル、その頂の決戦の趨勢が語られるためには、数十分の経緯を遡る必要があるだろう。




