六十二話 兄弟の記憶
下方、隆起に巻き込まれず元のホテルがあった位置には、上よりも多くの人々が残されている。
一般人が樹の籠に護られているのは上と同様だが、多くの軍人たちが既に形勢を立て直して戦闘へと戻っている点が上との大きな差か。
ホテル・マクミランの内部は吹き抜けで上下の見通しが利いていたが、それでもあくまで狭い廊下での戦闘だった。
しかし今はそのホテルという箱が壊れ、瓦礫が積み重なってこそいるが地形は更地。地表は剥がれて中層を形成する鋼鉄のプレートが露出した無骨な様相、ビルギット隊とヴィクトル隊の間で銃火と剣戟が激しく交わされている。
その片隅、リュイスは剣を握って周囲を見渡しながら、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
「畜生っ、どこに消えやがった……兄貴!」
その魔術で大崩落を引き起こした彼の兄クロードは、倒壊の粉塵が晴れてみれば影も形もない。
もちろん倒れた建物に巻き込まれるような間の抜けた男ではない。崩れ落ちる瓦礫を把握し、その中をすり抜けながら悠々と姿を晦ましたのだろう。
遠く、戦場の逆端には詩乃とプリムラの姿が見える。プリムラの腕には喋る生首……あのフランツとかいう青年の首が持たれたままで、それを持ち歩いていたクロードへとリュイスの不信はいよいよ募る。
「なんなんだよ、あのサイコ野郎は! 昔からそうだ、何も説明せずに涼しい顔して物事を進めやがって!」
「死ね!」
「うっせえ!!!」
背後から迫ったヴィクトル隊の兵、振るわれた刃を剛剣で受ける。鍔迫り合いにさえ持ち込ませずに弾き上げ、姿勢を沈めてバネのように脇腹を流し斬った。
離れて二人、銃と触媒を構えた兵がリュイスを狙っている。すかさず斜めに腕を振るい、クイックモーションで鉄剣を投擲して銃持ちの胸に突き立てる。同時に腰にした拳銃を抜き放ち、詠唱を終えようとしている魔術兵の喉と肺を撃ち抜いた。
「最っ高にイラついてんだよ! 邪魔すんじゃねえ!」
リュイスの戦闘能力は精兵揃いのヴィクトル隊と比べても卓越している。恵まれた身体能力と野性的な勘、若さ故に思慮が浅いのは欠点だが、それが思い切りの良さに繋がっている面もある。
最初に切り倒した兵の手から正規装備の軍刀を奪い取り、二、三と振るって手に馴染ませる。さっきまでの安物の鉄剣とは違う、切れ味も頑強さも一定の水準を満たした安定の逸品だ。
戦える状態を整えて、しかしリュイスの心中は暗澹としたままに晴れぬまま。
「畜生……」
唇を噛み、眉根に深いシワを寄せている。
彼の沈痛を説明するには、兄との関係性を簡潔に綴っておく必要があるだろう。
リュイスは23歳、クロードは5つ上の28歳と年齢の離れた兄弟だ。
概して、男兄弟はライバル心に競いあって仲を違えることがある。しかし、ルシエンテス兄弟に限ってはそれはない。
歳が離れているおかげか、あるいはクロードが万事において優秀すぎたことも手伝ってか、リュイスはあくまで次男坊としての立場で気楽にのびのびと育ってきた。
リュイスは兄を慕っている。何をさせても完璧にこなす兄は彼にとって嫉妬の対象ではなく、「凄えだろ、うちの兄貴は!」と誇るべき存在だった。シンプルな性格をしているのだ。
クロードもまた兄貴兄貴と慕ってくる弟をそれなりに目に掛けていて、冷淡な面のある彼ながらに可愛がっていたのだろう。
リュイスが12歳の頃、近所に住んでいたシャルルや他の子たちと遊んでいたところを、一つ、二つ年上の少年たちと大喧嘩になった事があった。
相手は評判の悪い不良たちだ。それもリーダー格の少年アンリは親が権力者で、傍若無人に振る舞っていることで悪名高い人物だった。
それが手下をずらずらと引き連れて、人数差に押し切られて喧嘩はボロ負け。リュイスもシャルルもボコボコにされて、顔に青アザを作っての帰宅だった。
シャルルや他の子たちと並んで町医者の父に診てもらうと、リュイスの頬骨は折れてしまっていた。それを耳にした兄の目が氷のような光を湛えていたのをリュイスははっきりと覚えている。
その日の内だった。不良のリーダー格の少年、アンリが夕食を終えて部屋に戻ると、そこにはランプを片手にクロードが立っていた。
「やあ」
驚愕に叫ぼうとした少年の口を手早く塞ぐ。膝を蹴り折って音もなく床に横たえると、殴る、殴る、殴る殴る殴る。一切の躊躇なく、執拗に、徹底的に、リュイスが折られたのと同じ箇所を頬骨が落ち窪んで顔の形状が変わるまで殴りつける。
相手の少年が14歳、クロードは18歳の時の話である。しかし容赦という言葉は彼の辞書には存在しない。そうしてひとしきり殴り続け、内出血に真っ赤に染まった瞳を覗き込み、強く印象を残すように「おやすみ、アンリ君」と告げて部屋を出る。侵入経路の窓からではなく、邸内に通じる部屋の扉から!
当然、見知らぬ青年が部屋から出てくれば家人は驚く。部屋を覗けば血まみれのアンリが呻いている。
権力者であるアンリの父は怒号を上げて衛兵を呼ぼうとするが、その鼻先へとクロードは紙束を突き付けた。
「この件で口を噤むなら、貴方の不正の証拠をこの場で焼き捨てましょう」と。
紙に綴られているのは全て事実、役人であるアンリの父は政治家と通じて汚職に手を染めていた。大きな影響のある汚職ではなく、不正に私服を肥やしている程度のもの。しかし公表されれば失脚は免れない。
クロードの有無を言わせぬ態度にアンリの父は気圧され、ゆっくりと首を縦に振った。
「アンリ君の治療、ルシエンテス医院でならお安く引き受けますが」
書類を焼き捨てながらそう言ったクロードに、アンリの父はいよいよ顔を青ざめさせて首を横に振る。
そうして悠々と正門を潜り、クロードは帰宅の途に付いたのだった。
と、そんな経緯は闇に葬られたもの。リュイスも詳細は把握していない。
理解しているのは不良のアンリが大怪我を負い、「おやすみ」という言葉と夜を極端に恐れるようになり、ついには発狂してしまい、精神の療養のために一家で田舎へと去っていったという事実。
ただ、(クロードがやったんだろうな)という確信は抱いている。
やがてクロードが入軍し、ペイシェン戦線で破格の軍功を上げて六聖へと上り詰め、『同じ数だけ助ければいいんだろう?』とリュイスに問い、程なく姿を消してそれから二年。
兵馬たちの護送中にニアミスはしたが、その時は気まずさを感じて敢えて会おうとはしなかった。
それが偶然に戦場で再会した兄は、元気よく喋る生首を持ち歩いていた。
「わっけわかんねえんだよクソ兄貴!!! 畜生ッッ!!!」
強い混乱の中に、“自分の役割を果たせ”とクロードからの訓示が脳裏をよぎる。
今従うのはシャクだが正論だ。頭をブンと振りつつ、歯ぎしりを鳴らして意識を切り替える。
「……とにかく、ここを無事に切り抜けねえとな。事が終わったらもう一度会ってブン殴ってやる」
思索の途中にも敵は待ってくれない。新手が三人、取り囲むように連動しての三連撃。しかしリュイスはそれよりも疾い。
軍刀を翻して刹那、目にも留まらぬ速度の斬風で彼らを宙へと巻き上げた!
螺旋を描くように、烈々の回転斬は一人目の腰から三人目の肩へと駆け抜けている。切っ先からの血飛沫は赤く弧を成し、その中心のリュイスはさながら緋に染まった風車めいて。
戦いの中に滑らせた視線は、戦場の右方で空を穿った蒼火を見つけている。
「あれは……燻る凍星か!」
アイネが十八番としている火の魔術だ。遠くてはっきりとは視認できないが、誰かと激しく交戦を繰り広げているらしい。きっとルカとメルツァーも一緒にいるはず。
左方、詩乃とプリムラは戦場から離れるべく街に向けて駆け出している。どうやらその護衛にはビルギット隊の副官ミシェルが付いたようで、ならばきっと大丈夫だろう。
混迷とした状況の中に自分の役割を見出すとすれば、まずは仲間の救援だ。
「よっし……行くぞ!!」
「否」
「は?」
飄風。可視化された漆黒、魔素を帯びた閃剣が水平に薙がれている。
その主は藍色の服を着た人物、顔には奇妙な面を被っている。リュイスより頭一つ低い身長、しかし肉体が鋼のように鍛えられているのは服の上からでも理解できる。
左利きのようで、その斬撃のフォームは独特だ。さながら蝶が羽ばたくように、剣を持たない右手をも横に広げている。
外見情報を見て取るまでに一秒足らず、リュイスの感覚神経は異常なほどに加速している。それは臨死の際の超集中、既に刃の先端はリュイスの首へと触れかけていて……身を逸らす!!
「うっ、おおおおッッッ!!?」
「……!」
凄まじいまでの反射でブリッジの体勢へと移行し、皮を裂かれながらも辛うじての回避に成功している。
無理な体勢だ。首には寝違えたような痛みが走って不愉快ながら、意に介している暇はない。そのまま後方へと飛び退いて間合いを開け、剣を正眼に構えて叫ぶ!
「てっめえ!! いきなり何しやがる!!」
「ふぅん、やるじゃないか。今のを避けるとは」
「妙な仮面しやがって……」
「そりゃあもちろん粛清部隊だからね。素顔が割れては何かと不便なんだよ」
「粛清だと?」
見た目に反し、存外に軽い口調で喋る男だ。半円形の鍔をした剣は長めで、柄の末端には飾り紐が付けてある。
だがそんな特徴よりも、“粛清部隊”という名乗りがリュイスの意識を引き付けている。
「三鬼剣、イルハ・ユルヤナだ。異名は“殺人剣”なんて、もう少し捻りが欲しいんだがね」
「はっ、上等だ! 仲間のところにはお前を行かせねえ」
「このホテル跡とは別の場所でもう三人殺ったけどね。あれはアルメル隊の別動隊だったか」
「んだと、クソ野郎……!」
一触即発、リュイスは構えを沈めて飛びかかるタイミングを測っている。イルハと名乗った三鬼剣は軽薄な態度ながらに隙は皆無。リュイスの初動を待ち構えている状況だ。
しかし忘れてはならない。ホテル・マクミランの戦線は複数勢力入り乱れる乱戦! 鋭と、汎用の鉄剣が二人の横で構えられる。
「元帥の腹心である三鬼剣。アルメル隊の有力株。共に、我々にとって邪魔となる可能性の高い存在だ」
リュイスとイルハ、両者ともに構えを崩さないままに横目を向ける。
声の主は黒の長髪、詩乃たちを付け狙う怜悧な眼光。シャングリラの中で抜きん出た実力者の剣士、アントンだ。
「今絡んでくんじゃねえよ、面倒臭え……!」
「いやいや、斬る人数が二人に増えただけ。何も変わりゃしないさ」
「排除する。ドニ様の栄光のために」
騎士リュイス、三鬼剣イルハ、暗殺者アントン。
俊才を誇る剣士たち三者が三つ巴、それぞれの剣技を交錯させていく。




