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四十七話 斬首

「ァガアッ!!」


 寝室に響いたのは老女の呻き。

 皮膚越しに犬歯を添わせ、今にも首を食い千切ろうとしていた宿の女将が衝撃によろけている。


 背を向け、ベッドに身を横たえていた詩乃がくるりと反転、耳を叩いて鼓膜を破いたのだ!


 窓の外から聞こえてくる喧騒は詩乃の目を覚まさせていた。目覚めの虚ろに身を起こせずにいた詩乃の、その背後に床の軋み。

 変調も露わな女将が漏らす異声にびっくりしながら、間一髪のタイミングでの反撃に成功していた。


 少女は大きくはない掌の中ほどを微かに凹ませて、それを横ざまに相手の耳へと叩き付けた。

 小さな空気の塊を耳腔へと押し込むイメージ。それは少し前、聖都セントメリアのアルベール家で暇に過ごしていた期間に気まぐれに兵馬から習っていた護身術だ。


(怖かった、怖かったけど頑張った……)


 目の血走った老婆は牙を剥きつつも、三半規管を壊してバランスを崩している。

 見れば、部屋の扉はこじ開けられた痕跡がある。蝶番(ちょうつがい)の金具が壊れて剥がれていて、女将は恰幅が良い。力任せにそれを成したのだとすれば、華奢な詩乃が力で勝てないのは明らか。

 やるなら今、相手が姿勢を立て直す前に。


「ごめんなさい!」と、枕元にあったクロードの医者鞄で側頭部をぶん殴る!


 殴打の衝撃に、中身、薬瓶だとか手術道具だとかが中で混ざってガチャと割れる音。人の鞄で申し訳ないが、とっさのことなので仕方なし。

 重さのある鞄は武器としての威力がそれなりにあって、女将は倒れてそのまま意識を失った。


 しばらく寝たきりだった体、突然の運動で頭がふらつく。それでも重く沈むような苦しさは消えていて、体から病魔が去ったことははっきりとわかる。

 緊張も相まって息を切らしながら、確かめるように小さく呟く。


「はあ、はあ……よし」


 一難を退けた。しかし……部屋の片隅には気配。


「やぁ、お見事だね佐倉詩乃」

「誰っ!」


 コホッ、カハ。

 忌まわしげな咳を漏らして、青白い顔をした男、フランツが詩乃へと一歩迫る。

 

「シャングリラの、エルタの町にいたやつ……!」

「覚えていてくれて光栄だなぁ。用件はわかるよね」

「来ないで」


 絹のパジャマ、白地の布を擦れさせ、詩乃は右手に見える自分の鞄へ走る。

 愛用の散弾銃で応じるべく持ち手へと手を掛けた、そこでフランツに手首を掴み上げられる。


「ハハ、させると思う?」

「っ、離して……!」

「いいとも。ほら!」


 勢いよく詩乃の手を引き、そのまま後ろの床へと引き倒した。

 薄めの体に沿う布、パジャマ姿の詩乃は普段の旅姿よりも小さく、頼りなさげに見える。

 それは格好の問題ではない。臥せっていた影響だけでもない。フランツは詩乃へと歩み寄り、尖った靴先で詩乃の腹を蹴り上げる。


「……っ」

「ッハァ、うずくまって芋虫みたいに、まったくブザマだね。いつも張り付いている人形、プリムラだっけ? あれがいなければ君を殺すことなんて造作もないのさ」


 いたぶるようにもう一度、二度とぶつけられる足。

 この男も病身の細身、決して力が強いわけではない。だが詩乃も今は病み上がり、殴り合いを演じられるような体力は残っておらず、瞳は屈せずとも立ち上がれない。

 

「そして兵馬、あの男も今はいない。怖いかい? 怖がれよ。パパがお前を殺すと決めた。それだけでお前の存在は、果てるほどに罪深いんだ」


 両手を広げて倒錯的に、恍惚とした表情で言い放つ。

 きっと“パパ”が死ねと言ったなら、この青年は喜んで死ぬのだろう。

 一点だけを疑いなく見つめ、迷いなき殉教者の眼差し。決して理解しあえないその色に、詩乃は慄然としながら唇を噛む。

 

 ふと、フランツが何かを思い出したように不機嫌に眉をしかめた。

  

「それにしてもチャンスなのに、どこにいるんだメリルの奴。……まあいい、僕が直々にパパの意思を成すだけだ」


 詩乃が女将を殴りつけた拍子に、医師鞄からはメスが転がり落ちている。

 フランツはそれをおもむろに拾い上げ、詩乃へと刃先を向けて目を見開く。興奮の面持ちで声を張り上げる!

 

「死ね。理想郷(シャングリラ)の名の下に!!」


 ……と、その昂揚を遮るように声が挟まれる。


「そのメスは私の物だ。返してはくれないかな」


 背後、入り口から聞こえてきた声。冷水を掛けるようなその響きに、フランツは上体だけで振り向く。

 そして詩乃も、また声の主へと目を向ける。

 

「パパ、か。興味深い」


 兵馬ではない。より低い成人男性の声。涼やかさと怜悧を合わせたような、どこか底冷えを覚えさせる声だ。

 

「あ、医者の人……」


 そこに立っていたのは医師クロード・ルシエンテス。

 詩乃は熱に浮かされた曖昧な記憶の中に、彼とプリムラが喋っていた光景を思い出す。

 確か、リュイスの兄だって兵馬が言ってたっけ。そんなことを詩乃が考えていると……フランツ・ハイネマンが青ざめている。


 血色の悪い手をわななかせながら、凍りついたような表情でクロードを指し示し、わめく。


「な、は? なんで、どうしてお前がここに」

「私がどこにいようと自由。ケチを付けられては不快だね」


 大股に三歩、反応を許さぬほどの滑らかな歩調でフランツの傍らへと歩み寄って薙ぎ。

 刃渡り二尺九寸(90cm足らず)、クロードが手にする長尺の刀はフランツの胴を通り過ぎている。

 

「あ……?」

「消えてもらおう、シャングリラ」


 横一文字に捌かれた腹部から、血と臓物がこぼれ落ちる。そうクロードは思っていたのだが、詩乃は知っている、フランツの不死性を。

 うじょると傷口の肉が(うごめ)いて膨れ、切断面を見る間に塞いでいる。

 

 そう、死なない! 沈着なクロードもこれには少し驚いたのか、眉の位置がわずかに上がっている。

 フランツはたたらを踏みつつ片手を掲げ、クロードを睨みながら大声を張り上げる。

  

「知っているぞ! お前が何者かを! 最も多くを殺め、挙句姿を(くら)ました! 元六聖(ベネデッタ)、“執行者”クルド!!」


 フランツが声高に言い放った言葉を、詩乃はすぐに理解できずに胸中で反芻する。


(元六聖、リュイスのお兄さんが? それと、クルド?)


「クルドか、懐かしい響きだ。当時は顔までを覆う鎧に身を包み、偽名を名乗っていたんだよ」


 詩乃の疑問を察してか、先んじてそう口にしたクロード。その表情に変わりはなく、言葉ほど過去を懐かしんでいるようには見えず感慨はなし。

 そして彼が見つめているのはただ一箇所。


「君は少し、お喋りが過ぎる」

「あ、待っ」


 相手が悪いと見たか、窓から逃げ出そうと重心を傾けたフランツ。

 しかし神速、クロードの刀は弧を描き、既にフランツを通過している。

 

 青白い首を刎ね飛ばしている!!

 

「…………っ!!」

 

 切り落とされた頭部はゴロゴロとボールのように、詩乃の足元でその動きを止めた。

 

 思わず悲鳴を上げそうになる詩乃、その肩をクロードが淡々と押しのける。

 そしてそれを一瞥(いちべつ)し、冷然と白刃の血を払う。

 

「再生能力か。なら首を落とす、心臓を抉る、脳を潰して内臓を潰す。可能性の高い順に試していくまでだ。さてフランツ君。君はどこまで耐えられる」


 抑揚少なくそう告げると、フランツの生首へと歩み寄る……が、動かない。反応しない。

 目を閉じたフランツを確認し、次に胴体へ。刀は下弦を二度滑り、腕と脚を切り離して反応を見る。

 

 体も頭に同じく、再生する様子を見せない。

 

「終わりか」


 そう呟くと、クロードは詩乃が寝ていたベッドのサイドテーブルに置かれた饅頭を手に取る。

 兵馬が村の店で買い、見舞いにと置いておいた名産品の吸血まんじゅうだ。

 その包みを丁寧に開くと、鮮血のように真っ赤な生地を口に運んだ。返り血で真っ赤に染まった手で。 

 

(こ、この人……)


 そんなクロードの行動に、詩乃は心底から引いている。

 人を斬り殺した直後、その場で食事を? それも血のように真っ赤な菓子を?


「君も食べなさい。栄養は取れる時に摂っておくべきだ」

「うわぁ……」


 箱からもう一つ、取り出したそれを手渡された。

 渡す前に手こそ清廉な白ハンカチで拭っていたが、そういう問題ではない。

 そもそも床にはフランツの血、それも人外化した体から漏れた緑色の体液で血溜まりができていて、とても何かを食べようという気が起きる環境ではないのだ。


「あっ詩乃! 起きたんだね! うう、無事でよかった……」



 上がってきたプリムラは、パジャマ姿で硬直している詩乃にひしと抱きつく。

 涙ぐんで鼻水を垂らし、ずびびと鳴らしながら詩乃の肩へと汁を付着させている。


 人形のくせに……そう思いながらも、詩乃は病身の自分をプリムラがどれだけ心配してくれたかを覚えている。

 口下手な性格に掛けるべき言葉が浮かばないが、代わりにたっぷりの感謝を込めて、人形少女の体をしっかりと抱き返した。


 伝わる気持ちに、ついつい詩乃の目にも涙が滲む。


 そこへ……クロードは一切の躊躇(ちゅうちょ)なく口を挟む。


「二人とも、もういいかな。部屋を出ようか」


(詩乃! 詩乃! この人やばいよ、本当に冷血!)

(このデリカシーとかない感じ、ある意味リュイスと似てるのかも)


 小声にヒソヒソと文句を言いつつ、クロードに伴われて部屋の外へ。

 詩乃がノックアウトした女将は壁際に倒れていて、呼吸はしているが動かない。

 プリムラは助けられないかとクロードに目を向けるが、ゆっくりと首を左右に振られてしまう。


「症状が進行している。正気に戻すのは不可能だよ」

「そんな……」


(……ごめんなさい。本当にありがとうございました)



 落胆し、涙を滲ませるプリムラの隣で詩乃は深々と頭を下げる。

 快く休ませてもらえなければ、自分はどうなっていたかわからない。


 パジャマから着替えている余裕はない。鞄にしまってあったコートを上から羽織り、むせ返るような血の匂いに満ちた部屋から歩み出る。

 聞けば、宿を囲んでいた村人たちはクロードとプリムラが一掃してくれたらしい。

 だが村の人口からすればまだまだ奇病に冒された人々は多くいるはずで、それが集まってこないようにと部屋の明かりを消す。

 そして息を潜め、窓から外の様子を窺う。が、今のところは安全が保たれているようだ。


 そんな折、クロードが先の部屋を振り返る。


「ああ、仕事鞄を忘れていた。取ってくるから待っていてくれ」


 そう告げて引き返す医師。

 その背を見送りながら、プリムラが口を開く。


「今ね、兵馬が馬車を取りに行ってるよ」

「そっか、兵馬が」


 詩乃は小さく頷いて、続く言葉は自然にこぼれた信頼の証。


「じゃあ……大丈夫だね」


 落ち着いた表情で呟いた詩乃。

 差し込む月明かりに照らされて、その横顔は清浄な美しさを湛えている。

 プリムラは目元を笑ませて頷いた。




----------




「るぅぅぅぅラァッハァ!!!!」

「う、ぐっ!!」


 夜陰の森。

 詩乃たちが見上げたのと同じ月が、木々の開けた場所を照らしている。

 ちょうど円形を描いたその場所は広さと形ともに、さながら古代の闘技場のような印象を見るものに与える。

 影に揺れる木々は観衆めいて、静けさは戦う二人の烈気を際立たせる。


 高らかに戦哮を上げたのはシャングリラの使徒メリル、苦悶によろめいたのは兵馬。


 開戦時に彼が持っていたハンマーは砕かれて、(かぎ)槍はへし曲げられ、折られた直剣と割れた盾が打ち捨てられている。

 それ以外にも無数の武器が破壊されていて、脇腹に蹴りを受けた兵馬が吹き飛ばされて草地を転げる!


「っ……!」

「ほらぁ来なよぉ! 次は何の武器!」


 言われるまでもない。

 顔についた泥を袖口で拭い、同時に赤布から素早く新たな武器を取り出している。


「なァにそれ! ジャラジャラって!」

(鎖鎌だよ)


 口には出さずヒントを与えず、知らなければ対処法のわかりにくい獲物だ。

 片手に短い柄の鎌を握り、その末端から伸びた鎖をもう片手で振り回す。

 先端には重い分銅。回せば回すほどに回転速度は加速の一途。

 そして遠心力を存分に活かし、体を捻り、踊るようなステップから分銅を放つ!!


 遠近を問わず、分銅での打擲に鎖での拘束や締め、寄れば鎌での斬撃までを手広くこなせるのが鎖鎌。

 やれることが多いだけに、にわかに扱えば言うことを聞かず、場合によっては分銅で自分を傷つけかねない諸刃の剣。

 だが兵馬は、この武器を思うままに操れるだけのスキルを持っている!


 放たれた分銅は鋭く疾く、狙うはメリルのピンク頭。兵馬と喋った時には外していたイヤホンを再び耳に嵌めて前屈み、最大音量に漏れるビートに体を小刻みに揺すっている。

 兵馬は頭上から、わずかに曲線を描きながらのほぼ最短軌道でそれを放った。


(人間の目は左右に比べて上下動への反応が弱い。この速度、軌道なら決まる。避けたとしても肩は砕ける!)


 経験則に基づいての判断だった。

 だがメリルの挙動は兵馬の予測を大幅に上回り、掴む!!


「まさか!」

「簡ッッッツ単にぃ!!!!」


 右手で受け、投擲の勢いに逆らわずに体を撚る。

 フィギュアスケーターもかくやの勢いで回転、そのまま力任せに鎖を引き寄せる。

 数メートルと長いそれを即座に手元に巻き取ってさらに引き、ビンと固く張った鋼鉄のラインはメリルと兵馬を綱引きの状態へと移行させる。

 決着は即時、兵馬の体は猛然と跳ね上げられて夜空を舞う!! そして滞空3秒、地面への強烈な叩き付けが土煙を巻き上げる!!


「見切れるんだよおッッッ!!!!」

「がっは!!!」


 激痛に思わず声が漏れる。直前に体勢を整えて背から落ち、辛うじて受け身は取っている。

 だが当然ダメージは免れず、肩と鎖骨に軋みを、左の広背筋に引きつったような痛みがある。空中での無理な体勢の立て直しに、軽度の肉離れを起こしてしまったのかもしれない。

 いつも被っているキャトルマンハットは地面へと落ちて、石片の掠めた頭部から金髪を伝って血が筋を垂らす。


「イージーモ~~~ド」

「この……」


 中指を立てて煽るメリル。わざとらしいほどにくっきりと母音の形で口を動かし、これでもかとばかりに嘲りを露わにしてみせる。

 痛みは動けなくなるほどではない。だが、兵馬の表情にいつもの余裕は皆無。

 強敵と相対したこの場面、体のわずかな違和感は敗北へと直結しかねない。


 金属製の武器を素手で折り、砕き、握り潰し、鎖越しに兵馬を宙へと引き飛ばす。

 メリルの強さの礎はその超常じみた怪力で、さらには分銅、神崎の銃弾を見切ってみせた動体視力、反射速度も極まっている。

 兵馬はそれを知らないが、彼女の異名は扼殺魔(ストラングラー)。五指を広げ、くびる。武器など不要、ただそれだけで十分なのだ。


 身体能力は並の範疇、大量の武器と技術を自らの戦力とする兵馬とは対極の存在。

 

 それを実感した上で、兵馬は赤布をひるがえす。

 白銀、幅広、左右に均整の取れた刃に、斜めに傾いた持ち手。飛空艇の一戦でシャラフを圧倒してみせた雷剣“オートクレール”がその姿を現した。


「強めので行かせてもらう。詩乃とプリムラが待ってるんでね」


 暗闇に微かな電弧が光り、戦いは深層へと加速する。

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