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四十五話 血に濡れた牙

 身のこなしに長けた兵馬はもちろんのこと、旅慣れた神崎も健脚(けんきゃく)だ。

 二人は周囲に警戒を配りながら、風の音だけが吹き抜ける村を足早に駆けていく。

 

 一帯に立ち込める嫌な臭気は錆びついたような香り。二人は早期にそれに気付き、それぞれに取り出したマスクで口を覆っている。

 もちろん、防毒にまで耐えうる気密性の高い物だ。

 フランツの姿を村中に見た以上、毒が散布された可能性は十分にある。

 

 やはりその影響なのだろうか、宿から離れて五分進めど、人の気配は一切なし。

 よそに避難した可能性は? おそらくは不可能。馬は全滅し、森に囲まれたこの村が陸の孤島と化しているのは既知の通りだ。


「どうなってるんだ。すっかりゴーストタウンじゃないか……」

「うっふふ……ねえ、知ってるかしら。この村はオカルトファンの聖地だって」


 わざとらしく喉を揺らし、怪談めいた声色で語りかける神崎。脅かそうとしてきている。

 そんな彼女の稚気を鼻で笑い、兵馬は片眉を上げて呆れたように言い放つ。


「一週間はいたんだ、嫌でも聞かされるさ。ビビらせようとしたって無駄だぜ。実は君の方こそ怖いんじゃないのか」

「ふふ、地方貴族ジョフロワ家、彼らが獲物と見定めるのは……! っと。あら、人がいるじゃない」


 神崎は毒気を抜かれ、肩透かしを受けたとばかりに口を小さく開けている。

 彼女が指したその人影を、兵馬も目に留めている。


 ひた、ひたと。歩み出てきたのは見覚えのある壮年の男性で、確か掃除夫を務めていたはずだ。

 朝早くに村を歩けば必ず景気のいい挨拶を投げてくるので、兵馬は彼のことを記憶している。

 神崎もまた、今朝この村を訪れた時に彼から声を掛けられている。

 

 そんな掃除夫の男だが、しかし今は何やら足取りがおぼつかない。

 体調が悪いのだろうか。やはり毒が撒かれている?

 

 兵馬が内心に可能性を(おもんばか)っていると、その男性が呻きながら前のめりにつんのめる。

 とっさに前へと出たのは神崎。手を伸ばし、肩に当てて転ばないよう支えている。


「大丈夫かしら? 体調が優れないの?」


 様子を窺いながら、親切に声を掛ける神崎。兵馬は彼女を性悪だ、金にがめつい悪徳商人だとばかり見ているが、しかし基本的には優しい女性だ。

 ただ抜け目がないだけで、女性の身で旅をしているのだからそれくらいの心構えを持つのはむしろ当然と言えるだろう。

 問題はどちらかと言えば、何度も懲りずに金を巻き上げられる兵馬の方にある。


 そんな神崎が突然、「きゃあ!」と少女の悲鳴を上げた。

 

「う、ウ゛ウ゛」

「な、何をするの!」


 男は不明瞭に呻き、神崎の着物、その襟に指を掛けている。

 わりに豊かな胸元へと力を掛けられ、驚きと不快に神崎は顔を歪める。悲鳴こそ上げたが、そこで怯える性格なら旅をしていない。


「大丈夫か?」と声を掛けながら寄ってくる兵馬を待つことなく、セクハラめいた挙動の男を鋭く睨んで声を低める。


「ちょっと貴方、ふざけた真似はやめなさい。酔っているのなら……!」

「なっ!?」


 驚きに声を上げたのは兵馬だ。

 男は一回り小柄な神崎へと身をもたれさせて、彼女からは死角になる首筋に口を寄せている。


 開く口、犬歯には粘り気のある痰が絡んでニチャと糸を引く。

 神崎の鼻は、これまで村中に漂っていた異臭をさらに濃くしたものを嗅いでいる。錆のような……否、これは血の匂い。

 男の見開かれた目は血走って、目尻の粘膜にはほぐした綿、あるいは白い糸クズのような何かがまとわりついていて、その姿は生理的な嫌悪を誘うまさに怪物。


 男は大口を開き……!


「オ、ウ、オオ゛オオオオオ!!!」


 両腕を広げる!! その腕で神崎を抱きすくめようとしている!!

 変質者などではない。この男は何らかの異常に冒されて、神崎の首筋を食い破ろうとしているのだ!!


「逃げろ!! 神崎!!」

「……ッ、せあっ!!!」


 ぐりん。男の体が跳ね上げられて上弦に弧を描く。

 神崎は身を沈めていて、男は彼女の腰を支点に回転している。

 

 彼の血走った目がまともな世界を映していたかはわからないが、まさに呵成、神崎の投げは勢いよく凶漢を地面へと叩き付けていた。

「うっく」と息を漏らして、男は痙攣(けいれん)してからそのまま動かなくなる。

 接地の間際、神崎は相手の服を強く引いてバランスを崩したのだ。受け身を取らせなかった。


 袖釣り込み腰に近い動作、豪快に跳ね飛ばしての落下。痩身の神崎が繰りだした技の冴えに、兵馬は息を飲んでいる。


「な、投げたのか。いや、それはいいけど、首から叩きつけたら……」


 殺したのか? そう問おうとしたが、兵馬は思い留まる。

 

「はっ、はぁっ……はぁっ……!」


 ぶるぶると身を震わせている。迫った危機にとっさの動きで難を逃れたが、あくまで旅商、怪物的に変貌した男からの襲撃にすっかり怯えてしまっている。

 男は死んでしまったかもしれないが、正当防衛だ。仕方がない。

 それよりも今はと神崎に駆け寄って、目を泳がせている彼女の肩を揺する。


「なあ、大丈夫かい。そんなに震えて、らしくない」

「ひ、兵馬、私、噛まれてないわよねぇ……?」

「大丈夫、完璧な投げだった」


 兵馬の落ち着いた肯定に心地を得たか、こくこくと小さくうなずいて息を吸う。

 吐き出さないままにもう一度大きく吸い、溜めた息を破裂させるように大声で叫ぶ!!

 

「きゅ、吸血鬼ぃっっ!!!」


 鼓膜を破かれそうなその声に耳を塞ぎ、兵馬は眉をしかめている。

 結局のところ、神崎は怖がっていたのだ。

 怪談を楽しむような言動とゆるゆるとした態度で誤魔化していたが、実はホラー、オカルトの類が大の苦手。内心ではビクビクと怯えていたところに現われたのは狂気に憑かれた男。

 噛まれかけ、髄まで痺れるほどに沁みた恐怖に、ついに決壊した感情が今の悲鳴だった。


 ……這い出てくる。

 家屋の影から、家の扉から。大勢の村人が今の男と同じ形相へと変貌していて、口元から血を滴らせながら歩いてくる。


「ひっ、ひううう……!」


 情けない声で涙目、神崎は頭を抱えて村人たちの包囲を見渡している。

 不気味な光景には間違いないが、兵馬はわりに冷静だ。


「吸血鬼だなんて、そんな馬鹿な。何かの疫病とかじゃないのか? 神崎、触れられて何か気付いたことはない?」

「なっ、ないわよぉ! あ、体温が熱かったかも……?」


 村人たちは呻きながら迫ってきていて、どちらかと言えばヴァンパイアよりはゾンビめいている。

 落ち着いてよくよく見れば、口元を染めている血は口中の粘膜、特に歯茎からの出血だ。目から血を流している者もいる。

 

(出血熱、なのか? ジョフロワ熱とは別の?)


「オ゛オ゛」と叫びながら迫ってくる一人をいなし、赤布から取り出した長尺の鉄棍を回して膝を砕く。

 

 襲いかかってくる様子も、害意を持っているというよりは正気を失しているように見える。神崎の投げは不可抗力だったが、できるだけ殺めることなく事を済ませたい。

 

 もう一人、二人。交差軌道の突進に臆すことなく斜め前へと素早く五歩、手に掴まれないギリギリの立ち位置へと足を移している。

 さらなる殺到! オオ、グガ、グルルと唸りながら迫る人外の波を、動じず兵馬はすり抜ける。

 入れ違いのステップざま、腹を突き、脛を払い、袈裟がけに鎖骨を叩く。


 兵馬は杖術も収めている。

 棒と聞けばシンプルな武器だが、形状のシンプルさは閉所を除けば局面を選ばない。槍に薙刀、さらには剣に似た役割を兼ねられるのだ。

 カ、カンと乾いた音は撃音、さらに二人を昏倒させた兵馬は旋風めいて鉄棍を振り回し、へたり込んでいる神崎を立たせ、手を引き、駆け出す!

 

「こないでってぇぇぇぇ!!!」

「その声で寄ってくるじゃないか! 静かにしてくれ!」


 包囲はどうにか突破した。これ以上相手をしていてもキリがない、ここは逃げの一手に限る!


 一刻も早く馬車を確保して、宿に残した詩乃たちを迎えに行くのが優先。そう判断を下し、二人は森へと走路を向けた。




----------




「ふぅん、囲まれても苦にしないか」


 呟く人影は屋根の上、先刻は薬液を散布していたフランツだ。

 今、村人たちに起きている異変はもちろん彼の手によるもの。文字通りの高見の見物で、兵馬らと村人たちの戦いを眺めていた。


 森林の只中に佇む村、そんな立地が災いしてか、サノワの村は広範囲に魔素(マナ)が滞留している。

 それは動物をモンスターへと変貌させるマナ溜まりと同じもの。ただし濃度はひどく薄く、腕利きの魔術師でなければ気付けない程度。

 

 風土病、ジョフロワ熱の正体はそんな特殊な環境が起こすマナの過剰供給。そこに土地の菌が相まって、起きる結果が人体のオーバーヒート、発熱だ。

 何のことはない、マイナーな病ではあるが、医学書を漁れば調べられるものだ。


 しかし、フランツはそれを弄った。

 粘つくような黄土色をした薬液を空へと溶かし、村の全体へと行き渡らせて包み込んだ。ふわりと優しく、オムレツを作るように柔らかく。

 村の人々は皆、ジョフロワ熱の菌の保有者(キャリア)だ。フランツが撒いた液はその菌を活性化させるもの。

 

 結果、風土病は脳を蝕む出血熱、確たる殺傷力を備えた死病へと姿を変えている。

 

「笑えたなあ、あの神崎とかいう女。吸血鬼のはずがないだろ?」


 フランツはせせら笑う。

 

 伝承に残る一大オカルト、ジョフロワ一族が本物の吸血鬼だったのかはわからない。

 ただ一つ間違いないのは、兵馬らを襲った村人たちはただの哀れな病人に過ぎないということ。

 目元や口、粘膜からの出血。そして脳を冒されての錯乱が、犠牲者たちを吸血鬼めいて見せていたのだ。


 とはいえ、ここまでの効果は当のフランツにも予想外だった。

 口元から相変わらずの咳を零しながら、青白い顔を上機嫌に緩ませている。

 

(ジョフロワ熱、その菌の使い方は全て理解できた。レシピはここ、僕の脳内に。十万規模の都市を死滅させてやることだってできるだろうね)


 明るい前途に冥く薄笑みを浮かべ、そして彼は視線を回す。

 窓から漏れる明かりが村人たちを引き寄せている。そこは宿、詩乃たちが馬車を待つ宿だ。


 病毒の操作に長けたフランツは、村人たちの意識を自分へと向けない術を持っている。指示を出す手段すら有している。

 幽玄と両腕を垂らし、宿へと歩み寄っていく様はまるで自らも屍者であるかのように、そして“(パパ)”の名を讃美的に呟いた。


「全てはドニ様のために!」

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