四十三話 不穏との再会
「あと二日と保たないんじゃないかい、このお嬢さん」
朝、兵馬にそっと耳打ちをしたのは宿の女将。
替えのリネンを運んできた時、顔色悪く寝息を立てている詩乃の表情を目にしての言葉だ。
曰く、「二件隣の家の息子が病死する少し前の顔色とそっくり」なのだと言う。
女将は朗らかに笑う恰幅のいい老女で、よそ者の、それも病人連れの兵馬たちが居座っていても嫌な顔一つしない好人物だ。
もちろん、料金は支払っている。だがそれも本来の価格より値引きを利かせてくれていて、旅路の病は大変だろうと何かと世話を焼いてくれている。
そんな人物だ、滅多な事では死ぬかもしれないなどとは言わないはず。
つまり今の詩乃は、長年この風土病を目にしてきた老女から見て死相を感じるほどに弱りきっているのだ。
「時間がない」
そうして兵馬は朝早くから、馬車を探すために村の中を駆けている。
払えるだけの金を払ってでも馬車便を雇う、それか馬車自体を借りる。
準備が出来次第、隣村を目指す。それだけのはずだった……のだが。
「どうなってんだ、こりゃ」
「どいつも泡吹いて倒れてんじゃねえか」
「まーた妙な病気か? 勘弁してくれよ」
村の中はざわめきに包まれている。村人たちが噂を交わしている。
昨夜までは健康だった村中の馬たちが、今朝になって全滅しているのだ!
(どうなってる? そう言いたいのはこっちの方だ)
兵馬は走る、村中を駆け回る。
まだ健康体の馬がいないか、血眼になって探し回る。
だが皆無! どこを見ても誰に聞いても、馬たちは一頭残さず白目を剥いて変死している。
明らかに異常な状況に、募る焦燥を飲み込むように深呼吸を一つ。
(シャングリラかもしれない。詩乃がこの村にいると連中が気付いたとして、始末するには絶好のポイントだ)
何しろ田舎、駐留軍はいない、人の目も少ない。
列車なんて便利なものが通っているはずもなく、外部との移動手段は馬だけ。
だとすれば、兵馬が彼らの立ち位置だとしてまず奪うのはやはり足、馬だろう。
ただし、外界と隔絶された村に大人数で来たのでは悪目立ちを免れない。
おそらく、村に潜入しているのは少人数のはずで……
ぴたりと、兵馬は立ち止まっている。
「見つけた」
思考を回し、集中を極限まで研ぎ澄ましていた。
故に、兵馬の目は二階の窓にわずかに見えた人影を見逃さなかった。
それは見覚えのある不健康な顔。
駅町エルタでシャングリラと交戦したあの時の、巨人とタッグを組んで怪笑を上げていた構成員。
「確か、フランツって名前だったっけ」
すぐに窓からの死角になる位置へ移り、息を潜めて様子を伺う。
姿が見えたのはほんの一瞬、今はカーテンが閉じられている。
だが見間違いではない、兵馬の視力は2.0以上。そしてエルタの町での戦いは未だ脳裏に鮮烈だ。
宿ではなく一般の家屋だ。
そこに上がり込んでいるのは家人を殺めての侵入か?
(いや、シャングリラの協力者は多い。あの家の住人がそうなのかもしれないな)
住民が知らせた可能性がある。
そうでなければこんな片田舎、兵馬たちの所在をそう簡単に知られるとも思えない。
さて、状況の筋は見えた。
騎士のルカ曰く、フランツというあの青年は麻薬の生産を担当し、薬物を使って戦っていたらしい。
毒などの扱いにも長けていると考えられる。
(馬を殺したのは彼かもしれないな)
だとして、どう動くべきか。
人の訪れることが少ない村だ、宿の数は少ない。
こちらの居場所は既にバレていると考えた方がいい。
きっと何かを仕掛けてくる準備をしているはずで、逃げるための足、馬は既に潰された。
しかし兵馬は動じずに、視線を尖らせ、息を深く沈めている。
(問題ないさ)
翻る赤布、手に刃渡りの長いナイフを出現させ、それを逆手に握って窓を見る。
毒物、薬物に精通したフランツならば、詩乃の病気への対応策を知っているかもしれない。
治すまでは至らずとも、緩和できる薬を持っているかもしれない。
(踏み込む。奴を捕らえて薬を出させる。手段は選ばない、痛めつけてでも……)
「白昼、騒ぎを起こすつもりかな?」
「……!!?」
はたと、背後から兵馬の肩を叩く手。
心臓が口から飛び出そうなほどに驚いた兵馬は、振り返りざまに拳を放っている。
とっさの一撃、しかし十分に体重は乗っていて、相手を昏倒させるに足りるだけの威力を有しているはずだった。が、余裕を持って受け止められる!
「危ない。いきなり殴りかかってくるとは感心できないな」
「な、く、ぐ、痛たたたた!!!」
兵馬の手よりも大きな手、長い指が鷲爪のように拳を掴んでいる。
捉える力はさながら万力、兵馬は狼狽に、思わず苦痛の声を漏らす。
右手を掴まれたなら左だ。逆手に持ったナイフに力を込め、相手の太ももへと一撃を! ……いや、踏みとどまる。
慌てて盲目的に攻撃をしてしまったが、ようやく相手の顔を認識できた。
長身に肩ほどまでの茶髪。眉目秀麗の口元には穏やかな、しかし含みのある笑みを浮かべる男性。
リュイスの兄、クロード・ルシエンテスだ。
「久しぶりだね、兵馬君」
「そ、そうですね。とりあえずその手を離し、痛ててて!?」
「ああ、失礼」
ようやく拳を手放されたが、どうにも残る痛みに顔をしかめる。
涼やかな顔に見合わず、やたらに力の強い男だ。
出会った駅のトイレにあった斬殺体を思い出し、兵馬は彼が腰に佩いている刀へと目を向ける。
彼はその目線にすぐ気付いたようで、小さく笑いを漏らして掌を上に向ける。
「そう警戒しなくてもいいだろう、一応は顔見知りなんだから」
「……ええ、そうですね」
兵馬はどうも、この男の纏っている雰囲気が得意でない。
隙がない。一挙手一投足に英気が満ちていて、何も考えずに背を見せれば抜き打ちに斬られそうな鋭さがある。
それでいて顔は微笑を湛えているので、余計にやり辛いのだ。
「クロードさんはどうしてここへ?」
「野暮用でね。それよりも君たち、先日のリーリヤ誘拐事件の犯行グループだそうじゃないか。それに、死んだと報道されていたようだが」
「ああ、それは……まあ、色々とあって」
本音を明かさないのはお互い様、上っ面の笑顔を貼り付けての会話を交わす。
と、クロードの横から人影。
もう一人? 警戒に身を固くする兵馬だが、その緊張はすぐに解れて驚きへと変わる。
「あら、兵馬じゃない。久しぶりねえ」
「……神崎?」
ゆるりとした着こなし、動きやすくアグレッシブにアレンジした和服に袖を通した女性が立っている。
背には大かばんを背負っていて、生業は商人だと一目でわかる。
神崎アンナ。
兵馬がクロードと出会ったあの駅で、詩乃たちへとサンドイッチを売りつけた女だ。
そんな彼女は兵馬とは顔見知り。いたずらっぽい笑みを浮かべてひらひらと手を振ってきていて、友好的な関係なのだろうか?
否。
兵馬は彼女の登場に顔を引きつらせていて、見たくないものを見たとばかりに鼻筋を歪めている。
「なんで君がいるんだ、神崎」
「別に、偶然よぉ。あなたと同じ旅の身、ばったり出くわす事くらいあるでしょう?」
「いいや、絶対に嘘だ。どうやって追ってきた? もう騙されないぞ! 君に売りつけられたインチキな品で何度痛い目を見たか!」
「何の話かしらねぇ」
わざとらしくシラを切る神崎に、兵馬は恨みを込めた視線を飛ばしている。
そんな二人の様子に小さく肩を竦め、クロードが横から口を挟む。
「おや、知り合いだったとはね」
「クロードさん、この女は悪徳商人だ。なんで一緒にいるのかは知らないけど、今ここで別れることをオススメしますよ」
「あらあら、ご挨拶ね」
「助言はありがたいが、今は利害が一致していてね。それより兵馬君。この村に留まっているのは潜伏かい?」
思わぬ遭遇にペースを乱されていた兵馬だが、クロードからの問いかけに気を取り直す。
こんなことをしている場合じゃない、詩乃を治療するために……
ふと、思い出す。クロードは自分を何だと名乗っていた? そう、流れの医者だと。
「クロードさん、頼みがある! 死にかけている子がいるんだ、頼む……助けてくれ!」
兵馬の剣幕に、クロードは軽く身を仰け反らしながらも興味深げに頷いた。
「構わないよ。案内してもらおうか」
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サノワ村、その全景を見晴らせる小高い丘には古城が聳えている。
城とは言っても、セントメリアの宮殿のような大規模なものではない。
地方貴族の大邸宅。それくらいの表現の方が、印象としては似つかわしいだろう。
その構造はベーシックだ。
外観にまず目立つのは見張り塔。
周囲はぐるりと城壁に囲まれているが、その高さはそれほどでもない。片田舎だけに、大きな戦乱に備える必要は薄かったのだろう。
覗き窓の付けられた堅牢な門をくぐり、城内へと入ればゴシック様式の造りが目に留まる。
庭園に回廊、うずまき型の階段。居館を横目に城の中へ。経年に古ぼけた床を踏みしめて、辿り着くのは謁見の間。
昔に住まっていた城主の趣味なのだろうか、謁見の間は礼拝堂の機能を兼ねている。
立派なしつらえの玉座、そこに座して左を見れば、厳かに飾られた祭壇が目に留まる。
その祭壇の上、マリオンの曲面に沿ってステンドグラスが張られている。
時刻は夕刻、オレンジの光がグラス越し、薄暗い城内を鮮やかに照らしている。
……玉座の前、人々が城主へと頭を垂れたであろう床。そこには血溜まりが広がっている。
飛び散った肉、無造作にへし折られた骨は人の大腿部の形状。
見回せば死体、死体、死体、死体。累々と打ち捨てられたそれらは恐怖に目を剥いていて、そして今、城内には絶叫が響き渡っている。
「う、ぐあ゛あああっ!? ギっ、痛い痛い痛い!!!!」
「ン~、ンフ~」
苦悶の叫びに混じるのは鼻歌。
早めのテンポで首を上下に、上機嫌にリズムを刻みながら、歌声の主は玉座の前にしゃがみこんでいる。
蹲踞を崩したような、ヤンキー座りとでも言えばいいのだろうか。
そんな姿勢で前かがみに、手先で何かをいじりまわしている。
人だ。
倒れた人の腹を掴み、粘土細工で遊ぶ子供のように千切っては捏ね回している。素手で!
哀れな犠牲者、男にはまだ息がある。
体は既に無残な有様。体のあちこちの肉を裂かれ、手足は曲げられた姿。
その状態で、なおも掴んでは力任せに捻ってを繰り返されている。
「……も、もう、殺してくれ……」
「ンッンン、フッフー」
耳にイヤホンを嵌め、大音量で音楽を聞いている。加害者は瀕死の懇願を聞いていない。
“扼殺魔”メリル。
詩乃を抹殺するため、フランツと共にシャングリラから送り込まれた刺客だ。
ショッキングピンクに染め上げた髪を左右の生え下がりで三つ編みにしていて、三白眼が爛々と揺れる。
広間に転がる無数の死体はサノワ村の自警団の人々。
行動に備えて邪魔を排除するため、誘き寄せ、皆殺しにした。
かつてささやかな栄華を誇った貴族の城は、さながら屠殺場の有様だ。
いや、殺されたばかりの死体たちは痙攣でまばらに蠢いていて、その光景は余計に地獄的と言えるかもしれない。
そして今は、最後に一人残った男を痛めつけて暇を潰している。
暗殺者として多くを殺し慣れている彼女は、どの部位をどれだけ損なえば人が絶命するかを知り尽くしている。
かと言って、それほど楽しんでいるわけでもない。音楽を聴くのと変わらない、単なる暇潰しだ。
「肉味噌みたい」
戯言と同時、男の口からは間欠泉のように血が溢れ出し、メリルはその首をぎにゅと括るように手折った。
「もういいや」
インスタントな昂揚もすっかり冷めて、たっぷりの血を頭から浴びたままに、汚された玉座へと腰掛ける。
床に飛散した血肉の残滓を靴先で蹴散らして、ッフフン、フン。
目を閉じてハミングを鳴らす。
しょせんはアマチュア、自警団の排除は必須ではない。どちらかと言えばお遊び。
彼女の出番はまだ後、フランツの後なのだ。
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日は森の彼方に沈み、サノワ村は宵の口を迎えている。
いつもなら村人たちは各々の家へと帰り、家族と食卓を囲む時刻。村の通りからは人気がすっかり失せる頃だ。
だが今夜は違う。村の中には松明を手にした人々が歩いていて、不審な人物がいないかと目を光らせている。
馬たちが全滅した。自警団が戻らない。
刺激の少ない僻地で安穏と生きている村人たちも、二つ続けば異様に感づく。
自警団を探すために人を送るべきか、しかし日も落ちた時刻、なんらかの原因があるとすれば二次被害を招くのではないか。
責任者が集い、話し合いが交わされている、その光景を見下ろす影が一つ。家屋、兵馬がフランツを目撃した家の屋根に立っている。
人影は、そのフランツだ。
フランツ・ハイネマンの顔は相変わらずの土気色、肺奥からの湿った咳を繰り返しながら村を眺め下ろしている。
「ジョフロワ熱か。面白い場所に落ちたものだね、あいつら」
兵馬が睨んだ通り、麻薬製造を担当する彼は病毒の類に造詣でが深い。
ジョフロワ熱に関する知識も持っていて、彼が今手にしているフラスコの中身はそのウイルスに作用する薬液。
ただし、もたらす作用は治癒ではない。
「僕の家族を傷付けた罪は重い。阿鼻叫喚の地獄の中で、ひたすらに苦しむがいいさ」
器を逆さに、撒き散らす。
垂らされた雫は風に乗り、すぐに揮発して宙へと溶ける。
定めた時刻、同じタイミング。村の随所でシャングリラに与する村人たちが、樽詰めにされた薬液の蓋を開けている。
黄土色の薬液は同じように空気へと混ざり、サノワ村の全域へと拡散していく。
薬液の香りは鼻へと鈍くまとわりつき、嗅いだ者に錆びた硬貨を思い出させる。やがて揮発したそれが、小さな村の全域を覆い尽くしていく。
フランツは掠れたような息を漏らした。咳か、笑い声なのかは判然としない。
「毒じゃない。兵馬樹、彼はガスマスクを持っている可能性があるからね。それよりも、よほど冴えた方法さ」
……シャングリラが、暗躍を始めている。




