★四十一話 凶行と僥倖
「ッ、か……っ!」
首、喉仏の少し上に斜めの亀裂。
そこからはとめどなく鮮血が溢れていて、シャルルは顔を歪めて後方にたたらを踏む。
その様を目に、得体の知れない殺人者は不気味な半笑いを浮かべる。
「おお~っと浅いかぁ? 微妙だな~。お前避けた?」
「なんだ、おまえっ……!」
皮と肉までが裂けている。だが、幸い傷は気道にまでは達していない。
とっさに一歩を引いた、その間合いがシャルルの命を紙一重で救っていた。
酒浸りの自堕落な生活習慣が身体能力を落としてこそいるが、カタリナが言うように戦いに関してのセンス自体は悪くない。
とはいえ、目の前の男が狂人めいた眼差しを向けてきている状況に変わりはない。
何で切られた、刃物か?
いや、指先が奇怪な形をしている。ギザギザと細い、例えるならば糸ノコのような。
男が再び腕を振るう!
「ほらほら次はどうだァ? 避けてみろよぉ!」
「くそっ……」
一体どういう理屈なのか、男の腕が伸びているように見える。
さらには幻惑的にしなる動き、続けざまに重なる理解不能の指斬。
手負いのままに必死に避けるシャルル、その背後のコンクリート壁が男の指で易々と抉られていく。そう、指で! ありえない!
(魔術を使ってる様子でもない! どうなってんだ、くそっ!)
「おっほ! うまく避ける!」
男の口角が吊り上がり、悪辣に三日月を描く。
間違いない、こいつは何人をも殺している。
王都に出没しているという連続通り魔。それがこの男だという確信!
「そぉら、まだ踊りな!」
「気違いめ……!」
嬲られるばかりではいられない。反撃を!
突然殺人犯に襲われるというこの状況で、シャルルは決して怯えていない。
それほど肝の座っているタイプというわけでもないのだが、ここ数日の不遇続きに苛立っていた。腹の底にストレスを溜め込んでいた。
その怒りの矛先を向けられる相手が、理不尽の象徴が目の前にいる。
「変に尖った顔をしやがって……どいつもこいつも! 俺に何の恨みがあるっていうんだ!」
男の動きに一瞬の隙を見出し、手にしていたカバンを力任せに振り回す!
「食らえ!!」
「おうっ!?」
反撃は想定外か、殺人鬼は避け損なう。そして男の細顎をカバンの角がしたたかに捉えた。
素人の一撃だが、苦し紛れの大振りで威力は乗っている。それが見事にカウンターとして決まった!
めしりと骨の砕ける感覚。「おごっ」と声にならない悲鳴を上げ、殺人鬼はゴロゴロと地面を転がっていく。そしてゴミ山の中へ!
「くそっ、今のうちに逃げないと……」
出血に目が霞む。
幸運にも反撃に成功したが、シャルルの傷は浅くない。
殺人鬼はゴミ山に頭から突っ込み、両足が天を向いている状態だ。
なんとも滑稽だが、立ち上がってくる前に離れるべきだ。一刻も早く人気のある場所へ……
そこへ、数人の足音が聞こえてきた。
「こっちから音がしたぞ」
「あんた、大丈夫か! 首から血が出て!」
「うん? あんた、シャルル・アルベール? こんなとこで何を……」
(助かった!)
裏通りは人気こそないが、大通りに面した飲食店の裏口が並んでいる。
物音を聞きつけ、店員たちが様子を見にやってきたのだ。
五人、六人、そこそこの人数だ。
体格の良い、シャルルよりもよほど腕の立ちそうな男性もいる。
ゴミ山に埋もれている殺人鬼にも気付いて、様子を伺おうと近付いていく。
……危険だ。
シャルルは痛む喉に顔をしかめながら、彼らへと声をかける。
「近付かない方がいい、俺はそいつにやられたんだ」
「え、なんだって?」
声が掠れていて聞き取れなかったらしく、彼らが振り向いた……その瞬間。
「お前やるなァ? おーアゴ痛い、アゴ痛え~!」
殺人鬼がむくりと立ち上がる。
しきりに痛がり顎を撫でながら、片手には鶏ガラらしい骨を握っている。
飲食店の残飯をゴミ袋から抜き取ったのだろうか?
わずかな肉片のこびりついたそれを口へと運び、ゴリ、ゴリと音を響かせ、骨ごと嚙み砕いている。
ゴミ山の中に埋もれていたそれは、あからさまな腐臭を放っているにも関わらずだ!
「なんだっ、アンタ……!」
「イカれてるのか?」
その様子に気圧され、ざわめく人々。
殺人鬼はうるさそうに顔をしかめ、ふと指を横に薙いだ。
「危ないっ!!」
叫び、シャルルはとっさに身を屈める。そして息を飲む。
殺人鬼のそばに寄っていた二人だけでなく、シャルルの近くにいた四人まで。
その距離およそ6メートル、まるで間合いなど関係なしに、店員たちの首が撥ね飛ばされたのだ!
「はいはァい、その他大勢お疲れさん」
「な、な、殺したのか……! 本当に!」
避けて尻餅を着いたまま、シャルルは立ち上がれずにいる。
倒れる犠牲者たち。溢れる血が地面を赤く染める。
初めて目にした殺人、眼前で繰り広げられた惨劇に、迫る死を明確に自覚してしまった。実感を得てしまったのだ。
「お前シャルルって名前なんだな。ようし、覚えた覚えた。避けて避けて、一発までくれてよ! 楽しいな? ハハハ!」
「う、うっ……!」
一歩、また一歩、上機嫌で歩み寄ってくる凶漢を目の前に、シャルルは逃げることができずにいる。
男の顔にはニヤニヤと軽薄な笑いが張り付いている。
その表情は六人を殺める前と後で、何一つ変化を見せていない。あまりに殺し慣れている。
三日月に歪む口。血色の悪い肌に唇の緋色が不気味で、底知れない殺意が滲んでいる。
心が恐怖で満たされる。
(殺される!)
「お、もう抵抗しねえの。なんだァ、まだまだ行けるだろ? ほらほら頑張れ頑張れ頑張れよ」
そう言いつつ、凶器と化した指を振り上げている。
そして一切の葛藤もなく、シャルルを殺めるべく腕を振り下ろした!
「っ……!」
迫る死の恐怖!
抗えないのも無理はない。優れた祖父の血を引いていようと、シャルルはあくまで一般人だ。
しかし、シャルルは目を瞑らない。
これはせめてもの抵抗だ。降って湧いた災厄に、せめて今際まで恨みを込めた目で睨みつけてやる……!
(畜生、地獄に落ちろ……!)
「おおっ、と?」
ドス! と、男の胸から勢いよく刃が飛び出した。
夕陽を照り返し、赤く煌めく白刃。それは国軍騎士に支給されているサーベルだ。
腕を振るおうとした姿勢のままに動きを止めた殺人鬼。その背後には……
「ごめんね、少し遅れた」
「かっ、カタリナぁ!!」
ついさっき別れたばかりの幼馴染、カタリナだ!
凶漢の背後から突き立てられた剣は的確に心臓を貫いていて、その一撃にはまるで躊躇がない。
リュイスの前で見せる思春期じみた表情や、シャルルやノーラの前で見せる“お姉さん”然とした表情、今の彼女はそのどちらとも違う。
片手で貫き、もう片手を添えて狙いを的確に。肋骨を通して穿ち、致命撃を確認した上でさらに捻る。
刃を回し、抉った心臓を完璧に潰す!
「痛え……?!」
「逮捕するつもりだったけれど、六人も殺したのなら話は別。死んでもらいます、今ここで」
冷淡な宣告と同時、空いた左手をシャルルへと向け、喉の傷へと治癒の魔術を放つ。
「応急手当だけど、我慢してね」
(血が止まった……)
呆気に取られて声の出ないシャルルをよそに、カタリナは殺人鬼の心臓から刃を引き抜く。
そして抜きざま、翻して首へと一閃!
剣撃鋭く、見事に首を両断している。
その鋭利さ故、首は乗ったままだ。だが確実に仕留めている。
殺人鬼に勝るとも劣らない躊躇いのなさ。敵を目の前にして恐れない精神力。
ザシャ隊所属、カタリナ・トルーマン。
剣術に留まらず、魔術をも高いレベルで使いこなす騎士だ。
身体能力でこそリュイスに劣れど、総合力では決して引けを取らない!
「すっ、凄い」
驚嘆を漏らしたシャルルへと優しく笑いかけ、刃を振るって血を払い、そして白布で拭う。
一連の所作は美しく馴染んでいて、その剣の腕が熟達したものであると素人目にも理解できる。
「一人で帰らせたけど、嫌な予感がして……それで、追いかけてきたの」
「そう、だったのか。助かったよカタリナ。本当に……」
「少し、遅かったけどね」
カタリナの目は首から上を無くした犠牲者たちに向けられている。
小さく歯噛みを一つ、無念を払うように首を振った。
諸々の後処理をしなければ。殺人鬼の死体も専門の魔術班の鑑識へと回して……動く影。
それはカタリナに心臓を抉られ、首を断たれたはずの。
「いやいやいやいや、なぁに一件落着感出してんだよ。おぉい?」
「えっ……」
「おっ、お前、なんで生きてるんだよ…!」
カタリナとシャルルは驚きに目を見張る。
赤黒い夕暮れの中、息絶えたはずの殺人鬼が幽鬼めいて立っている。
胸にはぽっかりと穴が開き、首は斬線に沿って、皮一枚だけを残して切り離されているにも関わらず!
「へ、へ」と薄ら笑いを浮かべ、そしてゆったりとカタリナを指差す。
「お前はカタリナ、と。シャルルにカタリナ。お前らの名前と素敵な顔、覚えたぜ」
「覚えなくていいです」
一言で切って捨てて軽やかに四歩、カタリナは瞬く間に距離を詰めている。
そして袈裟懸けに一刀、蘇った殺人鬼の肩口から腰へと鮮やかな斬撃を刻んでみせた!
……が、まるで効いた様子がない。
斬られた部位が黒いモヤのように変化し、硬質な剣をするりと透過してしまったのだ!
そして背後へ高々と跳躍、三階建ての屋上へひらりと乗ってみせた。これではカタリナの剣も届かない。
「面白いなァ、人間。でも今日はここまでにしとくわ」
ヘラヘラと両腕を広げ、煽るような笑みを浮かべている。
そんな挑発的な仕草にも動じず、カタリナは冷淡な瞳で観察を。
「最初の一突きでは血が出ていた。心臓が弱点なのか、不意打ちなら効くのか……わからないし、随分と丈夫みたいだけど。無敵ではない、のかな?」
「ほぉーう? よく見てんな、カタリナちゃん」
男は感心した風で、首をわざとらしく縦に振ってみせる。
「俺はベル。いいかぁ、ベルだ。この名をよぉく覚えておけよ? シャルル。お前は・絶ぇっ対に・俺が殺すからなァ」
「っ、どうしてだ! ほっといてくれよ!」
「理由なんていいだろ? いつの時代だって不幸に理由はないもんだ。まあアンラッキーアンラッキー。ハッハ」
ベルは勝手に納得した様子で頷いている。どうやらかなり自己完結型の性格らしい。
とにかく、シャルルにしてみれば冗談にもならない。
狂気の殺人鬼に四六時中怯えながら暮らす? そんなのはごめんだ!
恐怖に震えを隠せないシャルル。
その前へ一歩、カタリナが毅然と歩み出た。
「シャルルに手出しはさせません。殺人鬼ベル、ユーライヤ軍が必ずあなたを捕らえます」
「カタリナちゃんねえ、アンタもホント面白いな。ま、相手は別で用意してやるから、期待して待ってな」
そう告げると、ベルは夕闇の街へと姿を消した。
カタリナも深追いをするつもりはないようで、ひとまず一難が去ったことに小さく溜息を吐いた。
「……シャルル、災難だったね。本当に」
「……た、助かった?」
足に力が入らない。
腰が抜けて、ふらふらと地べたに座り込んでしまう。
今度こそ、どうにか助かったらしい。
それでもあのベルという殺人鬼が捕まるまでは常に怯えなければならないわけで、そんな暗い前途を想像するだけで重く息苦しい。
「なんでだよ……」
シャルルは泣きそうな声で、ぐったりと天を仰いだ。




