三十八話 魔術学院の昼下がり
聖都セントメリアの中枢、教皇エフラインの住まう大宮殿からそう遠くない位置。すっかり花を散らした桜並木の石畳を歩いていくと、歴史ある都の中でもとりわけ古い建造物が見えてくる。
灰色のレンガ積み、数本の塔や鐘楼が付随した、古城を思わせる外観。
入り口の巨大な門にはアンティークな装飾が施されていて、その前には時期を問わず常に見物人の姿が絶えない。
セントメリア観光における名所、見どころの一つとなっている建物だが、史跡ではなく現在も利用されている施設だ。
ガラン、ガラン……
鐘楼が壮麗に響き、ちらほらと揃いのローブ姿に学生鞄の若者が正門へと駆け込んでいく。
鐘の音は昼休みの終わりを告げている。そう、ここは学校なのだ。 ただし、普通の勉学に勤しむ場ではない。
制服のローブを纏った彼らの鞄に詰め込まれているのは魔術関連の教科書ばかり。
日常から軍務にまで幅広く重用されている魔術師たち。彼らを育成するための施設がここ、魔術学院!
国のあちらこちらに同じような施設はあるのだが、このセントメリア総合魔術学院はその中でも優れた人材だけが入学を許される、いわば最高のエリート養成機関だ。
魔術師のキャリアで最高峰とされる宮廷魔術師も、そのほとんどがこのセントメリア校の卒業生から輩出されている。
生徒の年齢層は十代半ばから二十代までと広い。
カリキュラムは生徒それぞれが自主選択する方式で、システムとしては高校でなく大学に近い。
そんな施設ではあるのだが、校風は自由で開放的。
校庭では麗らかな春日を浴びながら、午後に授業のコマを入れていない生徒たちがボール遊びに戯れの笑い声を上げている。
そんな光景を窓辺から眺め、一人の女性がコーヒーを啜りながら微笑を浮かべている。
理知的で美しく、それでいて柔らかさのある表情。子供たちを見守る表情から察するに、生徒という年齢ではない。
二十代半ば……いや、三十代前半だろうか?
落ち着いた雰囲気と若々しい美貌は年齢の線引きを曖昧にさせる。穏やかな目元と、緩やかなウェーブを描く長髪が印象的だ。
ここは学院の中の教授棟。
部屋の扉には“ジゼル・フルニエ”とネームプレート。彼女の名前だ。
様々な資料や実験器具が並べられた室内。彼女は白衣を羽織っていて、何か研究の最中だったようだ。
ぐぐ、とノビを一つ。
欠伸を噛み殺して目元を拭い、空になったマグカップを机に置いて、休憩中だからと外していたメガネをかけ直す。
「さて、そろそろ反応は出たかしら?」
多忙な彼女はわずかな休息の一時を終え、仕事へと戻るべく椅子を引いた。
……コンコンコン!
扉が軽やかにノックされ、「あら?」とジゼルは首を傾げる。来客の予定はないのだが……
「あれ、いないのかな? ジゼル先生~」
可愛らしい少女の呼びかけがドアの外から聞こえてきた。
その声にジゼルは思わず口元を綻ばせる。
「いるわよ。少し待っててね?」
「はーい!」と返事が。 来客を招き入れるべく、机に積み重なった資料などを手早く棚に収めていく。
……と、ジゼルは今しがた飲み終えたばかりのマグカップに目を留めた。
まだ底にインスタントコーヒーの残滓が残っているそれを手に取り、水の魔術でさらりと洗い流す。
そして窓を開けて換気をすると、部屋からはコーヒーの芳香が綺麗さっぱり消え去った。
よし。と腰に手を当て、ようやく部屋のドアを開ける。
「ふふ、お待たせ。ちょっと散らかってたから、ごめんなさいね?」
「ううん、全然大丈夫です!」
快活に頷く少女。
首の動きに合わせ、被っている奇妙な帽子の飾りがぽふりと揺れた。
ドアの前にいたのはアイネ。
天才の呼び声高い宮廷魔術師の少女、アイネ・ブルーレインだ。
先日の式典で炎の大魔術を披露して以来、より世間に名が知れ渡っている。
そんなアイネはにこにこと笑顔を浮かべながら、手にしたバスケットをジゼルへと差し出してきた。
「うちのアルメル隊長に美味しい紅茶の葉っぱを貰ったんです! ジゼル先生と一緒に飲もうと思って! あ、忙しくなかったらですけど……」
「あら、いいの? ふふっ、嬉しいわ」
アイネはこの学院の卒業生だ。それも学院が始まってからの長い歴史でも指折りの天才。
北部の片田舎から鳴り物入りで入学し、異例の飛び級に次ぐ飛び級を果たし、ほんの短期間でこの魔術学院を卒業していった逸話がある。
そんなアイネがここで過ごした間、担当の教授として接していたのが彼女、ジゼル・フルニエだった。
驚くほどのスピードで卒業していったアイネだが、田舎から出て親元を離れて寂しかったのだろう。やたらとジゼルに懐いてくれた。
もちろん教師としてそれは嬉しいこと。
アイネの職場がすぐ近くの宮殿ということもあって、卒業してからも茶飲み友達としての交流が続いている。
そこでふと、アイネが微妙な表情を浮かべた。
「微妙な時間だけど、先生はお茶大丈夫?」
アイネが言っているのはカフェインのこと。恩師がカフェインの影響を受けやすい体質なことを知っての心配だ。
ジゼルはコーヒーや紅茶の味や香りは好きなのだが、昼に一、二杯を飲んだだけで深夜まで目が冴えてしまう、そんな体質なのだ。
ジゼルは微笑む。
そんな心配をしてくれる元教え子が可愛くて仕方がない。
「大丈夫よ。今日はまだ飲んでないから」
「よかった!」
コーヒーの形跡を念入りに抹消したのはこのためだ。
たびたび訪ねてきてくれるアイネに気兼ねをさせず、一緒にティータイムを楽しむため。
戸棚からとっておきの茶菓子を取り出し、茶葉が開く華やいだ香りの中、二人は机を挟んで向かい合った。
「見てたわよ、この前のハイドラ退治。高名な魔術師たちに混ざって立派だったね」
「えっ、あ! ううん、私なんてまだ炎の魔術しか使えないですし、そんな立派だなんて! えへへ…」
手を小刻みに揺らして謙遜しつつも、恩師からの賞賛にアイネの口元がわかりやすくほころぶ。
その表情筋の緩みを目に、(これは相当、いろいろな人に褒められてるみたいね)とジゼルは察する。
と、なれば賞賛もほどほどに。少しばかり手綱を締めておくのも元先生としての役目だろう。
「でも。相変わらず炎しか使えないというのは聞き捨てならないわね?」
「あっ! それは言葉のアヤで! 風の魔術なら使えるようになったんです! ……少しだけ」
「どれくらい?」
「え、ええと……これくらい……」
そう言って、アイネは掌から風を起こしてみせる。
それはほんのそよ風ほど。うちわで一生懸命に扇ぐよりは弱い程度。
自分で情けなくなったのか、アイネはすっかり萎んだ表情で消沈している。
そんな様子がおかしくて愛らしく、ジゼルはついつい優しく教え子の頭を撫でた。
「ふふ、確かに。前よりは成長しているみたいね?」
「あ、はい……へへ、ちょっとだけですけど」
圧倒的、暴力的なまでの火のマナに対する才覚。
反してその他の属性魔術に関しては、アイネは劣等生の範疇だ。
偏りのある魔術師というのは珍しくない。というよりも魔術師の大半は得手不得手があるもの。……なのだが、アイネの偏りはあまりに極端。
天才性と不器用さが両立していて、学院の教師陣の中でも彼女の才能をどう位置付けるかが物議を醸したものだった。
結局はその火力を軍に高く評価され、早々と宮廷魔術師に抜擢されたのだが。
「私、ジゼル先生に褒めてもらえるのが一番うれしいです!」
チョコチャンク入り、厚みのあるクッキーを頬張りながら、アイネははにかんだ笑みを浮かべている。
基本的に優しく、時たま厳しく、大きな愛情を感じさせるジゼルの指導は生徒から人気が高い。慕ってくれる生徒は多い。
その中でも、こうして頻繁に訪ねてはストレートに好意を示してくれるアイネはジゼルにとっても特段思い入れの深い生徒だ。
さて、アイネとの会話となれば気になる生徒がもう一人。
「そうそう、ロネットは元気かしら?」
「うん! 相変わらず元気にひねくれてます!」
「ふふ、いつも通りみたいね」
異端の天才アイネ・ブルーレイン。
そんな彼女と同い年、同じく飛び級で入学してきていたのがロネット・フローリーだ。
10代半ばにしてあらゆる属性をオールラウンドに使いこなす秀才。非の打ち所がない優等生。
田舎出身、のんびり屋のアイネ。都会っ子で棘のある性格なロネット。あらゆる面で対照的な二人。
傍目にはどう見ても相性が悪そうなのだが、なんだかんだとウマが合うらしい。
(まったく、人間ってわからないものね)とジゼルは感慨を抱く。
二人ともがジゼルの教え子で、この二人が若くして異例の出世を果たしたことでジゼルの指導者としての評価も高まっている。
そんな少しばかりの大人の事情も含めて、あらゆる意味で気になる二人組なのだ。
「ええと、ロネットは軍のどこに勤めているんだったかしら……?」
「シャラフ隊です。なんかかなり大変みたいで、いっつも愚痴ってるよ。隊長の人使いが荒いー!とか」
「ふふっ、あの子らしいわ。……そういえば、そのシャラフさんからお仕事の依頼を受けてるのよ」
「へー、先生にシャラフ隊長が? なんの仕事?」
「ちょうど今、作業をしていたんだけどね」
そう言うと、ジゼルは部屋の片隅を指差した。机の上には顕微鏡に雑多なパーツを付け加え、サイズを二回りほど大きくしたような器具が置かれている。
魔術は往々にして科学を兼ねる。
ジゼル・フルニエは魔術学院で教鞭を取る魔術師であると同時に、国内有数の優れた科学者でもあるのだ。
「分析……?」
「そう。シャラフさんがどこかで採ってきた血らしいんだけど、成分の解析を……って」
「へー。わざわざ解析に回すなんて、よっぽどすごい怪物の血なんだね」
「それがね、人の血らしいのよ。今の魔術では説明のつかない技を使うって。布から武器を出すだとかなんとか」
「あっ、それって……」
アイネの脳裏にはシャングリラに対して共闘した大道芸人、兵馬樹の姿がすぐに浮かぶ。
詩乃にプリムラ、兵馬の三人組。あの日会場で誘拐犯と共に消えて、シャラフと交戦して死亡……と聞いている。
なんだか楽しい三人だった。ので、二度と会えないのかと悲しんでいたのだが、シャラフがわざわざ血の解析を依頼しているのを見るに、明確に仕留めたわけではないのでは?
そんな気がして少し嬉しくなる。
考えを巡らせるアイネの顔を優しく見つめ、ジゼルはゆっくりとカップを空にしてから口を開いた。
「軍内部でも魔術師部隊、ザシャ隊の方なら問題なく解析できると思うのだけど。きっと色々事情があるのね」
「シャラフ隊長とザシャ隊長かぁ……なんか、派閥とかあるみたいだし、ややこしいです。軍って」
「あら、アイネの口から“派閥”なんて言葉が出ると不思議ね」
「あっ馬鹿にして! これでも宮廷魔術師ですよー! ……一応!」
「ふふ、ごめんね?」
まったく! とほんのり憤慨気味、アイネが音を立てながら紅茶を啜る。
そこでボーン、ボーンと振り子時計が音を鳴らす。促されるように時刻に目をやり、そしてアイネは跳ね上がった。
「ぎゃあっ!? じ、時間見るの忘れてたぁ! ごめん先生、また来ます!」
アイネは慌ただしく荷物をまとめ、騒々しく椅子を立つ。
そして目を白黒とさせながら、駆け足で部屋を後にしようとする。
そんな教え子の背に、ジゼルはマイペースな声色で穏やかに一声を投げかけた。
「帰り道、気をつけてね」
「先生ってばー、宮廷魔術師だよ? 私、前よりもっと強いんだから!」
アイネは軽やかに笑い返しながら、へにゃりとした腕で力こぶを作るポーズを取ってみせる。
しかしジゼルの顔には少しの憂慮が浮かんでいる。ハイドラを退ける魔術師でも、決して安全とは限らないと知っている。
「最近、連続通り魔事件が起きているでしょう? 魔術師だってただの人。不意打ちを受ければそれまで」
「先生ってば心配性なんだから」
「一つだけ約束して? 見知らぬ人にあまり親切にしすぎては駄目。あなたはいい子だから……」
「んー、わかりました! 気をつけて帰ります!」
手を上げ、バイバイと振ってからアイネは飛び出していった。
慌ただしい事この上ないが、とびきりに素直な子だ。注意しておけばまず大丈夫だろう。
……連続通り魔。
小さく呟いて、両手を組み合わせて伸びを一つ。
「さあて、作業の続きを頑張らないとね」
可愛い教え子との会話は良い気分転換になった。
食器を片付け、白衣の襟を正して深呼吸。
ジゼルは再び研究機材の前へと腰を下ろすのだった。




