三十五話 “オートクレール”
“黒霧のシャラフ”
六聖という肩書きとは別に持つもう一つの異名。その由来が今、兵馬の目の前の光景にある。
(黒い……これは、粉か?)
兵馬の間合いからわずかに外。シャラフは左手に隙なく曲剣を構えたまま、右掌で何かを磨り潰している。
砕けた粒子が微風に舞い上がり、たちまち辺りが黒色の薄煙に包まれていく。
何かを仕掛けようとしているのは明白なのだが、殺気漂う眼差しは兵馬に迂闊な踏み込みを許さない。
毒である可能性を踏まえて呼吸を止める。
(さっき船室を吹き飛ばした火薬か? いや、自分も至近距離にいる状況で着火はできないはず。なら毒?)
「………」
(来る!)
上体を意図的に揺らし、ブレさせながらの独特の歩法。幻惑的な動きからの近接に兵馬は備える。
(この攻撃、刃は陽動。本命はもう片腕だ)
突き出される黒刀に刃を合わせ、横へと軽く弾く。
続けざまに繰り出されるのは鉄をも穿つ貫手! 『蛇毒』と名する、シャラフが誇る決殺の秘技だ。
対して兵馬、右手にはさっきと同じくサーベルが握られたまま。呼吸を留め……集中からの超反応。ト、タと左に二歩ステップ、身を斜めにそれをやり過ごす。
(見切った!)
そして踏み込み、片手で逆袈裟にシャラフの脚を跳ね切った! ……はずが、苦悶を漏らしたのは兵馬の方だ。
「ッ、ぐ……!?」
「……まずは一太刀」
「ああ? どうなってやがる」
少し後方、戦いを見ているリオが呻いて首を傾げる。
彼の目は二人が斬り結ぶ瞬間をはっきりと見ていた。 シャラフが踏み込み、兵馬が応じる。
わずかに退くことで間合いをずらした兵馬の対応は完璧で、黒刀の切っ先が届くよりも速くサーベルが振り抜かれた、そう見えていた。
だが、そこでシャラフが消えた!
薄墨の煙中に、異名通りの“黒霧”と化して霧消したのだ。リオが自身の目を疑った直後、剣傷が兵馬の左腕へと刻まれた。そして後背……切り抜け、シャラフが悠と立っている。
「おいマジかよ、すり抜けやがっただと?」
兵馬の剣を間近にしてそれを受けず、かつ背後へと回り込んでいる。まさにリオの言う通り、すり抜けたような状況だ。
そしてシャラフは振り向いて揺動。脱力に曲剣を垂らし、いつでも突撃へと移行できる構えを取っている。
「おい兵馬、毒は大丈夫か!」
「ううん……左腕が痺れるね。あまり良くないみたいだ」
リオからの声掛けに、兵馬は眉根を下げて左腕を振る。
刀傷から毒が侵入、麻痺が腕へと回っているらしく、言葉通りにその動きは鈍い。
そして、その様はシャラフの狙い通り。
(致死毒ではない。尋問の必要があるからな。だが、それなりの神経毒だ)
(……やばいぞ、左腕がまるで上がらない。六聖シャラフ、やっぱり強いな)
右手の刀で陽動、本命は動物毒を仕込んだ左手の突き。かと思わせてからが真骨頂。不可視に刻まれる鋭斬こそがシャラフの本命だ。
シャラフは両利きだ。右へ左へ、しきりに持ち替えての剣閃は兵馬の目を慣れさせない。
さらにぶつけられる黒刃、今までとは変わって直線的な打ち込みを受ける。密着距離での鍔競り合い、兵馬は「ぐうッ!」と声を漏らす。
シャラフの右手、五指は兵馬の傷口を深く、容赦なく抉っている。
霧のような回避、特異な戦技の数々。
その戦闘術は無形、既存の流派ではなく独自で作り上げた物と言われている。彼自身の弁ではない。未知の武術を目にし、周囲がそう称えるのだ。
だが、兵馬はその技を知っている。剣を払って距離を離し、相対する紫眼を見据えて静かに語りかける。
「北の国境を越えた先、君の戦い方はサルネシア王国の武術だ」
「…………」
「何っ、サルネシアだぁ!?」
「ああ、それも直系の王族だけが用いる特殊な技だね」
リアクションを示したのはリオ。
シャラフは肯定も否定も示さず、ただ黙して兵馬に注視している。
構わず、兵馬は言葉を続ける。
「この黒い粉はさっきの火薬とは別物。幻覚作用のある花の種子を砕いて撒いて、そこに魔力を練り込むことで相手の感覚を歪曲、操作する。仕組みはそんな感じだろ?」
「貴様……?」
ポーカーフェイス極まるシャラフだが、兵馬の言葉には一瞬の動揺を隠せなかった。
瞳に狼狽が浮かび、それは兵馬に自身の推測が正しいと確信させる。
「秘密主義のサルネシア。その王族がどうしてユーライヤ軍にいるのか。理由が気にはなるけど、聞いたって教えてはくれないか」
「……いや、答えても構わない。そちらが質問に応じれば、だが」
「へえ、質問って?」
「貴様の戦いには違和感しかない。文献でしか見かけないような古典めいた技術までを磐石に使いこなしている。貴様は何者だ?」
二人の視線は瞳孔の奥深く、それぞれの真意を窺う。
「それは最近よく聞かれるけど、何の変哲もない大道芸人としか答えようがないね」
「質問を変えよう。貴様、一体何歳だ?」
「19歳」
嘘だ。
即答だった。しかし商人の目聡さか、リオは瞬時にそれが嘘だと見抜く。
一点の澱みもないすかさずの返答。それは取り繕うための答えをあらかじめ用意している人間の“間”だった。
「さあ、僕は答えた。そっちの番だ。過去話でも聞かせてくれよ」
兵馬は飄々とした様子で嘯くが、シャラフは表情を動かさないまま。そして首をゆっくりと横に振る。
「貴様は嘘を付いている。そう判断した上で、一つ教えよう。この刀の毒は一時間も経てば貴様を死に至らしめる」
「……それは困るな」
「だが、ここに解毒剤がある。貴様が投降するなら与えよう」
降伏の勧告を受け、しかし兵馬は肩を竦めてそれを拒む。
剣を握ったままの右手を上下させ、
「いや、いらないよ。これは死ぬ毒じゃない。経験上わかるんだ」
「ならば、これ以上の無駄口に益はない」
兵馬の推測は是か否か、シャラフに答えを示す必要はない。ただ重要なのは、敵対者に退く意思がないという一点だ。
水平。黒の曲剣は構えられ、六聖は再び戦闘の姿勢へと移る。
兵馬は兵馬で答えが返ってくるとは思っていなかったようで、左手をしきりに動かしている。
会話の間に腕の痺れが弱まるのを狙っているのだが、しかし痺れは残ったまま。むしろ傷口の熱と鈍痛が増している。
特殊工作部隊を率いるシャラフが用いる毒は上質。
そう易々と効果が薄れるはずもなく、兵馬の目論見は無駄に終わっていた。
それだけではない。刻一刻、呼吸が苦しくなってきていることに兵馬は気付いている。
単に疲労で息が上がってきたのとは違う、喉から肺にかけてを徐々に圧されているような。
「『海毒』。窒息毒だ」
「さっきの魔術か……」
「回り切ればさながら海中、陸にいながら溺れ死ぬ。尤も、貴様の吸った量では死には至らないがな」
わざわざ説明をしてくれているのは、毒が回りきるまでの時間稼ぎだろう。
理解した上で、それでもすぐには動けない。酸素不足に脳が停滞、視界と意識が霞んでいる。
(六聖、やっぱり甘くない)
左腕は腫れ上がっている。
肘を刃が撫でた程度の傷だったのが、毒が回って二の腕までが紫色に膨れている。膨れた肉はシャツの袖に詰まり、関節の動きを硬く阻害している。
兵馬はそれが時間の経過で和らぐ毒だと知っている。だが、この戦闘中の自然治癒には期待しない方がいいだろう。解毒剤を盗み取るというのも現実的ではない。
状況は相手の完全有利。こちらには毒の時間制限付き。
呼吸が途切れれば勝ち目は消える。ならば取るべき手は一つ。
「急ぎで決めるしかない。“あれ”を使う!」
兵馬は右手に赤布を。
無際限に武器を生成してみせるそれをひらりと手元にはためかせ、新たな武器を取り出そうと瞳を輝かせる。が、向き合うシャラフが無策にそれを許すはずもない。決着を焦るのは想定済みだ。
(赤布を翻す瞬間、それが貴様の隙だ、兵馬樹!)
服の袖に仕込んでいた鏢、小型の手裏剣めいた刃を手元に滑らせると、胸元を目掛けて投擲を……
「させるかクソが! こっちも棒立ちじゃあねえんだよ!」
「何……」
リオのショットガンが火を噴いた!
腰溜めの姿勢から二発、三発と放たれた弾丸が迫る。シャラフは黒霧めいてそれを透過。が、投げの動作を潰される!
その隙に、兵馬の手元へは一振りの刃が現れていた。
色合いは見事な白銀。
幅広で左右に均整の取れた刃をしていて、分類としてはブロードソードだろう。
ただし、柄が歪だ。
刃の片側へと斜めに傾いていて、かつ緩やかな曲線を描いている。
そして鍔には奇妙な金具が付随していて、シャラフはその剣に目を奪われる。
「何だ、それは」
「そこそこお気に入りの武器でね。オートクレール、とかいう銘なんだけどさ」
「やっちまえ兵馬!」
左は毒に動かないまま。
だが片手で扱える剣だ。だらりと片腕を垂らしたまま、兵馬は身を翻して斬撃を仕掛ける!
切先が空を裂く。
銀光が閃き、刃の軌道が弧を描く。
右手、彼曰くの“オートクレール”に滲む剣気は他の武器とは明らかに異。構えた黒刀へと銀刃が衝突、漂う霧の中に火花が散る!
兵馬の戦技はシャラフの隙を的確に抉る。散布した薬物と幻覚を利用した回避を許さない。
(この男……)
否、シャラフは隙と言えるような隙は見せていない。
新たな武器に警戒を抱き、意識の無駄を極限まで減らし、万全の迎撃姿勢を取っていた。
しかし兵馬はシャラフの生理現象、まばたきの一瞬に動く。わずか0コンマの間隙、目を開けば眼前に剣閃!
左右からの薙ぎ、袈裟懸け、突いたままに反転して水平の斬撃。
片腕が機能していない事を微塵も感じさせない挙動、猛然の連続斬がシャラフへと放たれる!
(受ける)
「このまま押し切る!」
オートクレールの特異な形状、斜めに傾いた柄は重量バランスが悪いはずなのだが、兵馬は逆にその癖を利用して腕の振りに緩急を付けている。
反応速度よりも速く。イメージよりも遅れて。切りつつ駆け抜けて反転、即座のバックスタブ。
そこに鋭い蹴りを交えて縦横無尽、変幻自在。シャラフに黒粉を用いての幻覚操作の暇を与えない!
重ねられていく斬撃の中、シャラフはオートクレールの正体に考察を深めていく。
(……腕が痺れている)
剣戟による衝撃、そこからの痺れではない。内筋に響く、ビン! と引き攣るような芯のある鈍痛、その蓄積。
六聖として、そして幼い頃から積み重ねてきた戦いと痛みの記憶が、それは“感電”であるとシャラフに答えを提示する。
(なるほど、微弱な雷を帯びた剣か)
切れ味だけでなく、受けても微弱なダメージが積み重なる剣。 それは実に厄介な代物で、理解できても対処が困難だ。
距離を置いて遠距離攻撃を仕掛けるのが最善。が、ひとたび守勢に回ってしまえば蓄積する痺れに動きが鈍る。受けのテンポが遅れれば、必然巻き込まれる相手のペース。猛攻の中から抜け出せない!
そして真横一文字の強斬!!!
「受けてみろ!!」
「貴、様……ッ!」
黒刀を縦に、刃が十字交差してシャラフはたたらを踏む。
熾烈な打ち込み、辛うじてそれを受けた!
だが同時に、シャラフは初めて明確な形で体勢を崩されている。
斬られる! 狼狽に後歩するも、兵馬も挙動に一拍を挟んでいる。魔人めいた連斬にも流石に限界が来たのだろう。
「ふうぅ……っ、!」
(息切れか!)
またとない好機。シャラフは後歩のままにステップを踏み、刃圏から素早く離脱する。
鏢を始め、彼の全身には暗器の類が仕込まれている。近接ではほぼ五分でも、離れてしまえば有利を取れる。
瞬時の判断から、兵馬の体勢が整わない間に攻撃姿勢へ。眼球、喉首、心臓に鳩尾に、手元の刃で十分に殺せるだろう。
尋問は他の面子にすればいい。この男はここで始末する。
「そのまま死ね」
「兵馬っ! 危ない!!」
詩乃の声が響き渡った。兵馬に遅れて船内を駆け、ようやく追いついてきたのだ。
背後にはプリムラと、ついでにエドガーの姿も見えている。
兵馬の危機に、珍しく大声を張り上げた。そんな詩乃と視線を交わし、兵馬は口元を笑ませてみせる。
「ところが。この武器はここからが本領なのさ!」
銀刃の鍔に付随した金具、それを兵馬は指で弾く。と、広刃の剣が中心線で縦に、真二つに割れた!
分割された刃は青白く輝いている。分かれた刃の間、頑強な拵えの鍔からは筒状のパーツが伸びている。
兵馬は斜めに傾いた柄をおもむろに掴んだまま、剣先をシャラフへと持ち上げた。 そして眼光は……照準を合わせている!
「馬鹿な、銃だと!」
「ご明……察ッ!!」
鍔に付随したトリガーを引く!
二つの刃に流れる電流が作用しあい、生じた力が超速度の弾丸を射出する!




