三十二話 黒霧の急襲
「……で、どうしてこんなことに」
高速で空を飛ぶ飛空艇、その広々とした下部甲板に、人影がぽつりと三つ。
吹きすさぶ高空の風に帽子を飛ばされないよう片手で押さえ、呆然の詩乃。
脇ではプリムラがしゃがみ、顔色も真っ青に怯えた様子。ぶるぶると小刻みに肩を震わせている。
「し、しし、ししししの詩乃詩乃、私たち、ゆ、ゆゆゆ」
「……なに、プリムラ。はっきり喋ってよ」
「ゆ! 誘拐犯になっちゃったよぉおおお!!!??」
「……はぁぁぁぁ」
認識したくない現実を前に、深く長く溜息一つ。
たまたま客席で隣り合わせた、なんだか悪そうな男リオ。
騒動の間隙にグラウンドへ飛び出したその背を兵馬の気まぐれで追い、シャルルが撃たれたのを目にし、あの歌姫リーリヤを誘拐しようとしているのを見て何事かと驚いていたら、あれよあれよと成り行きで飛空艇の上。遥か高空の雲間へと。
青空には白雲、眩い陽光。
流線型の船体には甲板を防護する魔力障壁が纏わされていて、それでも緩和しきれない上空の寒気と烈風が身に冷たい。
そう、全ては兵馬の気まぐれだ。一体全体どういうつもりなのだろう。
兵馬は感情を読み取れない表情で、リオがリーリヤを連れて入っていった船内への扉を見つめている。
行動の意図を詩乃たちへ説明するでもなく、最近解消されつつあった疑心の火が二人の内心に再燃する。
信用しすぎていた。行動権をすっかり委ねてしまっていた。
とりあえず敵ではない、とは思うのだが、未だにこの青年の本性ははっきりと掴めていないのが実情なのだ。
兵馬樹、この青年のおかげで教皇エフラインのお気に入りである宮廷歌手リーリヤの誘拐犯。
それも数日止めてもらった恩義のあるシャルルの婚約者を掻っ攫った形だ。
いや、実際には横で傍観していて飛空艇に飛び乗っただけなのだが、傍目にはきっと共犯の類だと見えているはず。
シャルルの婚約という話も今ひとつピンと来ていないが、軍のお偉い人が言うんだから事実のはず。
諸々の意図を込めて、詩乃は珍しく感情を露わに、兵馬へと鋭い視線を飛ばす。
「ああもう、めちゃくちゃ。ありえない。兵馬、どういうつもりなの」
「ん? うん、まあね」
「ちゃんと答えなよ」
「色々とあるのさ」
打てど響かず、兵馬は気もそぞろといった様子。
あまり気に留めていなかったが、思い返せばさっきからずっと彼の様子が変だ。
いつから……そう、控え室を出てリーリヤとすれ違ってから。
ライラ、だとか、妙な名前を口にしていたが、それが関係しているのだろうか。
「ねえ! はっきりしてってば!」とプリムラが騒ぎ立てていて、兵馬はそれを受け流している。
正直、兵馬が旅に同行していることに不快感はない。同行者の一員としてはすっかり馴染んでいる。
それは人見知りをする詩乃としては珍しいことで、色々と肩肘を張らない彼の姿勢は友人と呼べるものだ。
暗殺者に狙われる身に腕の立つ護衛という実際的な部分だけでなく、まあプリムラとの二人旅よりも多少楽しいかなという程度には兵馬を認識している。
そう、プリムラの言う通りだ。だからこそ今、兵馬の旅の目的をはっきりさせておくべきだと詩乃は考える。
これまで彼が大義名分として掲げていた“大道芸で身を立てる”という目的。
それには聖都に留まりシャルルの協力を得るのは 重要だったはずで、しかし兵馬はリーリヤの誘拐の片棒を担ぐことを優先した。
つまり、“ライラ”という名前は“大道芸”よりも兵馬にとって優先される事項だということだ。
『ねえ兵馬、ライラって誰なの。兵馬の旅の本当の目的は何?』
そう尋ねようとした。
だが船内から続く扉が勢いよく開かれ、誘拐の主犯であるリオ・ブラックモアが盛大に現れた。
「なんで乗ってきたのかイマイチわかんねえが、まあお互いこうなっちまったもんは仕方がねえ。ようこそ共犯者諸君! 我が飛空艇『オフィーリア』へ!」
両手を広げ、カラカラと大笑してみせる。
やたらに上機嫌。誘拐が首尾よく成功したことにすっかり気を良くしているようで、細かい事情を問い詰めるつもりもないらしい。
「はっは、どうだよ空の旅は」
「肌寒いね。リーリヤは中に?」
「んん、おう」
鷹揚に頷き、リオは雲海へと目を向ける。
「そう焦らず景色を楽しめよ」
「僕らも中に入れてもらえないか」
「ふぅん、中にね」
兵馬の要求に、リオは値踏むように眼を細める。
詩乃やプリムラにはほぼ無関心。男の警戒心の大半は兵馬へ向けられている。しかし、すぐにそれも緩んだ。
飛空士リオは数々の修羅場をくぐり抜けてきた経験と嗅覚を頼りに、今の兵馬には敵意がないと判断する。
右手の銃口を明後日の方向へ逸らし、気取った仕草で三人を船内への扉へと誘う。
「ああ、構わねえ。どうぞ中へ。軽食とドリンクで乾杯と行こうぜ」
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リオ・ブラックモアの飛空艇“オフィーリア号”、その内装は至って豪奢だ。
床にはやたらにふかふかとした赤絨毯が敷き詰められていて、備え付けられた椅子テーブルや機材の数々は曇り一つなく磨き上げられている。
バーカウンターにビリヤード台、壁際にはダーツマシンと、ポーカーテーブルらしいものまで配してあり、なんだかカジノみたいな雰囲気だな、と詩乃は胡散臭げに眉を曲げた。
一目見ての心証を端的に言うなら“チャラくて軽薄”。
そんな詩乃の悪印象を視線で察しつつ、それでいて気にした様子はなく、リオは悠々の表情でカーペットを歩いていく。
と、奥から響いてきたのは怒気に満ちた罵声!
「ちょっと! こんなショボい物をこの私に! このリーリヤに食べさせようっての!?」
「いや、このチョコそこそこの高級品……」
「そこそこじゃなくて、最ッ、高ッ、級! の品を持ってきなさいってのよ! この宮廷歌手リーリヤ様をもてなそうってんならね!」
「な、なんだこいつ……」
詩乃とプリムラは思わず顔を見合わせる。それが誘拐の被害者リーリヤの声なのは明らかで、しかしまるで怯えた様子は見られない。
それどころか一人で喧々とがなりたてている。リオはやれやれと肩を竦め、口端へフランクな笑みを浮かべてみせた。
「随分と怒鳴ってるみたいだけど」
「大したタマだぜ 、あの歌姫様は」
兵馬に軽く答え、リオはフロア奥の大扉を押し開ける。
そこはVIPルームとでも呼ぶべき煌びやかな内装で、黒革張りのいかにも高価なソファのど真ん中にはリーリヤの姿。
眼前のテーブルに脚を投げ出し、女王ばりに昂然と鎮座している。
その前にはリオと同じくフライトジャケットを着た青年が。
ただ彼の表情はリオとは違って善人然としていて、盆に載せた菓子を差し出す様子はまるで高慢なリーリヤへと付き従う下僕のよう。投げつけられるわがままに辟易し、すっかり困りきった表情でいる。
「ようエドガー、お客様が三名追加だ」
「え、誰だいそいつら。今回の仕事はリーリヤの誘拐だけって …」
「ちょっと、リーリヤ“様”でしょう!」
「り、リーリヤ様の誘拐だけだろ?」
「成り行きでな」
「僕は兵馬樹。そっちが佐倉詩乃、こっちがプリムラ。よろしく」
会話の隙間を縫い、兵馬はするりと自己紹介を入れ込んだ。
飛行士エドガーは少し慌てた様子で立ち上がり、差し出された手を握り返す。
「自分はエドガー・ディール。この船の操縦を……あ、今は自動操縦だけどね。ええと、乗っているって事は、協力者ってことでいいのかな」
「ええ、構いませんよ」
「そうか! よろしくな!」
とりあえずの合点を得たようで、エドガーは相変わらずの善人顔で三人へと好意的な笑 みを向けてきた。
兵馬はそれに笑って返すが、詩乃やプリムラは依然として兵馬の行動に振り回されているまま。勝手に協力者だなんて名乗られても困る。
それでも今は仕方なし、「よろしく」と飛行士の青年と軽い挨拶を交わす。
そこへガツン! テーブルへとグラスの底を叩き付ける硬音。鳴らしたのは怒り顔のリーリヤだ。
「なぁるほどなるほど。つまり、アンタたち五人がこのリーリヤ様を誘拐した犯人グループ。処刑確実の国賊連中ってワケね」
缶入りの“そこそこ”高級なチョコレートを鷲掴み、数個口へと放り込み、惜しげもなくムシャリと飲み込んで睨みを利かせてくる。
眼から火花が散っていると錯視するほど、あるいは牙を剥いて唸る獣めいて、敵意に満ち満ちた表情をしている。
態度はともかく誘拐の被害者なのだから怒り心頭は無理もなし。
プリムラは太眉を困らせ、慌てた様子で両手を前にぶんぶんと振る。
「やや、あのー、私たちは違くて……」
「茶!!」
「ひいっ」
自分と詩乃はこの一件と無関係。プリムラはそう主張しようとしたのだが、怒声に掻き消されてしまう。
エドガーが甲斐甲斐しく紅茶を注ぎ足し、それをぐい飲みした歌姫は問いを投げる。
「で、目的は。この私の美貌に目が眩んだ?」
「言ってるだろうが、ガキ臭い女に興味はねえんだよ」
「あァ? ブン殴る わよ」
リオの返しに眼光へ鬼気。握り拳を固めていて、口だけではなく本当に殴りかかる雰囲気でいる。
(り、リーリヤってこういう性格だったんだ)
意外性に面食らっているのは詩乃。
宮廷歌手の歌姫リーリヤといえば当代きっての人気歌手で、街中で彼女の歌を耳にしない日はない。
先の式典では民謡を朗々と美しく歌い上げたが、普段は耳触りの良い軽やかな曲、流行歌に類するような曲も数多く歌っている。
儀礼や式典、堅い場面のみの歌手ではない。彼女の歌声はユーライヤ国民の日常生活に根付いているのだ。
もちろん詩乃も彼女の歌は数えきれないほど耳にしていて、テレビや雑誌で見かける“淑やかなリーリヤ”が彼女の実像だと考えていた。
それがまさかの、誘拐犯へと殴りかからんばかりの荒々しい性格! 出された食べ物を安物と断じつつ鷲掴みにむさぼる高慢な態度!
(イメージと違う……)と、ぼんやり驚きに目を見張っていた。
「じゃあ何。身代金? そう簡単には行かないわよ。アンタら全員、軍に殺されて終わりかもね!」
「ふぅん、気の強い女だな」
啖呵を切るリーリヤを見て感心げに頷き一つ、ニヤリと意味深長な笑みを浮かべてリオは口を開く。
「依頼主は身代金でもない。そうだな、簡単に言えば…あんたを匿うのが目的だ」
「はぁ? 匿うって誰から」
「ユーライヤ軍。いや、もっと言えば国からだな」
「アンタ、意味わかんないんだけど。国から匿う? 頭の病気?」
リーリヤは鼻で笑う。大袈裟に両手を広げ、嘲りいっぱいにリオを小馬鹿にしてみせる。
「はーヤダヤダ。リーリヤちゃんの生涯はコジらせたファンの誇大妄想に付き合わされて、しまいに殺されてジ・エンドなパターン? 泣けるわね」
「依頼主はテオドール・ブロムダール。証文も印もある」
「……ブロムダール?」
その名を受け、途端リーリヤの表情が真剣味を帯びる。 大貴族ブロムダール家、詩乃たちにとっても馴染みのある名前だ。
先日に詩乃たちを捕らえて取り調べた六聖アルメル・ブロムダールはそのブロムダール家の子女。その兄にして極度のシスコン、青年議員にして当主、彼がそのテオドールだ。
あの変態的なアルメルの兄が、リオ・ブラックモアへとリーリヤの誘拐を依頼した人物?
陰謀めいた展開に突然彼の名前が出てきたところで、鼻息荒くアルメルの腹部へと頬ずりをしていた鮮烈な姿しか思い浮かばない。
怪訝がる詩乃とプリムラだが、しかしリオは至って真面目な表情だ。
「おいリオ、それ話して良かったのか? 彼らの前で」
「気にすんなエドガー。そいつ、兵馬は “知ってる側”だ」
「な、まさか……」
「僕にはお構いなく」
片手をヒラリ、そう言ってのける兵馬が何かを知っているのは既にあからさまで、この会話が落ち着いたら本気で問い詰めてやろうと詩乃は睨みつける。
歌姫はブロムダール家の名を聞き、神妙に考え込む表情へと一変している。
リオの言葉に信憑性を見たのか、ひし形のチョコを口へ運んで咀嚼。飲み込み、未だ胡乱がりつつも語気を緩める。
「ま、いいや。いきなり結婚とか言われてワケわかんなかったってのはあるし」
「……? えっと、シャルルとの結婚って話は知らなかったんですか」
人見知りながらにおずおずと問いかけた詩乃へ、リーリヤは憮然とした顔で頷いてみせた。
「あの男、シャルルだっけ。会ったのは今日が初めてだし、ああいうタイプは全ッッ然! 趣味じゃないし! くっつかなくて済むのはせいせいするわー」
「へえ……」
興味なし。となればノーラの喜びそうな話だな、と詩乃は思う。
まあそれはともかく、あの元帥は、そしてユーライヤ国は何が目的でリーリヤとシャルルを結婚させようとしたのだろうか。
祝賀ムードを高めるため? エフライン14世の治世における平和の象徴として? それにしては、当日まで面識もないままにとは随分と雑な話。どうにも納得がいかない。
(国から匿う……その事と関係あるのか な)
推測に頭を巡らせ、一度思考と状況を整理すべく息を吸いこむ。
(……、なんだか、変な匂いが)
あまりに静かで穏やかで、まるで気付いていなかった。
だが、既に敵の侵攻は始まっている。 リオ、そして兵馬がそれに気付いたのは詩乃とほぼ同時。いつの間にか視界が薄墨の如き黒霧に染められている。
これは一体? 詩乃の疑問に答えたのはリオの大声だった。
「火薬だ!! 身を隠せ!!」
チ、と掠る音、散る火花。――着火!!
たちまち拡がる爆炎が視界を埋める。轟音、震動、瞬時にして船室は紅蓮に染め上げられた!!
船外に人影。強風の中には鋭利な眼差しが光る。口元を黒布で覆った彼は国軍最高戦力“六聖”、“黒霧のシャラフ”。
「排除を開始する」




