二十六話 歌姫リーリヤ
「ノーラ、どうやら僕はもうダメだ。君にはつくづく迷惑を掛けるけど、面倒でない範囲でうちのじいさまとカミロを気にかけてやってくれると嬉しいよ」
「シャルル、大丈夫よ。大丈夫。私の目を見て? 息を吸って、吐いて…」
「すううううう、すううううう、う……」
「ねえシャルル、吐かないと駄目よ」
控え室の二人は相変わらずの調子だ。
詩乃たちが去り、いよいよ気が紛れなくなったか、開演を間近にして追い詰められたか。部屋の片隅、角の小さなスペースにうずくまり丸まっている。
言動はもはや遺言に等しい。顔にはもう血の気がまるで通わなくなって、その顔色は髪と似た灰色にさえ見える。
しかしノーラも慣れたもので、呼吸の仕方を忘れて過呼吸になりかけているシャルル、その口元へとすぐに紙袋をあてがっている。きっといつものことなのだろう。
ハンカチを取り出し、シャルルの額に滲む脂汗を優しく拭う。
詩乃や兵馬たちは青年のそんな様子にすっかり呆れてしまっていたが、ノーラは甲斐甲斐しく世話を焼くこの時間を愛していた。
「大丈夫よ、シャルル。あなたは天才。私は誰よりあなたの凄さを知ってる」
「……ノーラ。君の目を見てると、少しだけ落ち着く。……いつもごめん。ありがとう」
「ええ、いいの。私はあなたの隣にいたい。それだけでいいから」
その時、控え室の扉が唐突に開かれた。
大勢の足音、その先陣を切って現れたスタッフが大声を張り上げる。
「リーリヤ様入ります!」
大勢の人々を引き連れ、その中心に存在の異彩を放ちながら現れたのは歌姫リーリヤ。
少し前に詩乃たちがすれ違った、シャルルの共演相手だ。
現れるなり、淑やかに礼を一つ。
「皆様、今日はよろしくお願いしますわ」
歌姫の名は伊達ではない。
畏まった口調で上品に、それでいて軽やかな挨拶を一つ。
ただそれだけで、涼やかな聖鈴の音色が耳を撫でたような感覚が居合わせた人々を包み込む。
声質という絶対的な才能。それは天からのギフト。
“宮廷歌手”
彼女が現人神である教皇エフラインに認められた、聖恩のディーヴァであることは誰の耳にも明らかだった。
「……あれがリーリヤか。確かに、良い声だ」
怯えきっていたシャルルまでも顔を上げている。目線を奪われ、その存在感に気を取られている。
音楽に携わる同業者としての感覚で彼女を高く評価している。似た職ではあるが、直に会うのはこれが初めてなのだ。
「そうね……」とノーラ。
彼女の姉であるカタリナはリーリヤの大ファンであり、そんな姉妹の関係は極めて良好。
であれば必然、ノーラも彼女の歌を聴く機会が多くなる。空で歌える曲もある。
ただ姉とは違い、それほどファンと言うわけでもない。上手い。良い歌、だとは思うのだが、聴くと何故か胸の奥がざわざわと波立つのだ。
(どうしてかは全然わからないのだけれど……)
そんな微妙な感情のままにリーリヤを見ていると、視線がこちらへと向けられた。
リーリヤの目はノーラを滑り、隣のシャルルで止まる。
「あら。あなたが宮廷音楽家のシャルル・アルベールさんでよろしいでしょうか?」
「……ああ。今日はよろしく頼みます」
共演者の前ともなれば、流石に震えてばかりはいられない。仮にもプロなのだ。
おぼつかない脚でどうにか立ち、リーリヤへと目線を合わせた。向けられる微笑にぎこちない笑みを返す。
「ところで……体調が優れないようですけれど、大丈夫ですの?」
必死に体裁を取り繕っているが、リーリヤはすぐにそれを見抜いたらしい。さもありなん、膝はふらふらと揺れている。
しかしそれをバカにするでもなく、あくまで上品に小首を傾げて尋ね、媚びを感じさせない程度、少しの上目遣いでシャルルの顔色を窺う。
「大丈夫です。お気遣いなく」
答えたのはシャルルではなくノーラだ。合間に入り込み、歌姫の言葉を遮るようにして返事を返した。
あらゆる女性が恋敵に見える、そんな悪癖を持つノーラにとっては宮廷歌手だろうと警戒すべき相手。決して近寄らせまいと視線を尖らせる。
だがリーリヤは敵意にも余裕。笑みだけで返し、スタッフたちへと穏やかに声を掛ける。
「私、本番前は静かに集中を高めたい性格なのです。大部屋ではなく個室はありませんか?」
その要求は周囲に嫌味を感じさせない。
彼女の待遇がこんな大部屋であるべきでない。ここに留まるべきでない格上、大物であると、誰もが既に認識していた。
「すぐに準備しますので!」
「ありがとう。それと、シャルルさん。ここが落ち着かなければ、共演のご縁もあることですし、ご一緒の部屋へいかが?」
「はあ!!?」
その申し出を聞き、ノーラは当然キレる!
途端、その視線は刃の輝きを。牙獣の雰囲気を纏い、リーリヤへ眼光を飛ばす!
だが、歌姫は慌てない。
「もちろん、お連れ様もご一緒に」
「……私も、ですか?」
予想外の誘いを受け、ノーラは感情の矛を収める。
恋敵ではない? 親切心からの言葉なのかもしれない?
測りかねるノーラの隣、シャルルは冴えない表情のままに小さく頷く。
「そうだな……お誘いに甘えようか、ノーラ。静かな方が落ち着くかもしれない」
「私は、シャルルが行くなら行くわ」
「決まりですね。それでは、個室へと移動しましょう?」
軽くポンと手を打ち鳴らし、リーリヤは二人をするすると先導していく。
やがて係員に通されたのは小さな個室。普段は監督室のようで、歌姫の要求で急ぎ準備されたと見える。
部屋へと入り、扉を閉め、室内には三人だけ。
リーリヤは鍵を掛け、そして……瞬時、歌姫は勝気な眼光へと豹変する!
「言っとくけど。今日の“主役”はこの私だから!」
「は……え、なんだって?」
シャルルは思わず聞き返す。
淑やか、優艶、エレガンス。
そんな形容が相応しい印象だった歌姫リーリヤ。秘めやかな物腰には神秘性さえ見えていた。
それがお付きの人々がいなくなった途端、ガラリと態度を変えている!
椅子にドカリと背を預け、傍のテーブルに行儀悪く両脚を乗せる。猫を被っていたのだ。
眉を吊り上げて表情は不遜。シャルルとノーラを睥睨し、「理解が遅いのね」とわざとらしい溜息を一つ吐いた。
「いい? もう一度言うわよ。アンタ、今日は目立つのを控えなさい」
「……待ってくれ、言っている意味が今一つわからない」
「シャルルに控えなさいって、それはどういう意味ですか」
リーリヤは二人からの問いを聞き流しつつ、置いてあった楽屋菓子の包みを荒々しく破いて口へ放り込む。
あられのような米菓子を、奥歯でバリンボリンと盛大に噛み砕く様子には雅の欠片もない。
「この私とアンタが同格として扱われてるけど……失ッッッ礼、極まりないわ。今日! ブリリアントに輝く主役はこの私! リーリヤ様よ!」
「な、なんだ、この女……」
優雅? とんでもない。取り繕っていただけだ。
この歌姫の本性は気品を持ち合わせない目立ちたがり!
舞台に上がれば全ての耳目、あらゆるスポットライトは自分へと集められるべきであり、“全ての人間は私を好きなはず”と心底から考えている自己中心主義の極み!
これにはシャルルも呆れ返る。
「げ、下品な女め……!」
シャルルはがさつな女性が嫌いだ。
ノーラと長らく良い関係を築けているのは、彼女が支える立場を良しとする、淑やかな性格なのが大きい。
それがこの女はどうだ? 表情、言動、物の食べ方に至るまで、まるで劣悪!
本性を包み隠している点もマイナス! マイナス100点だ!
「教皇猊下の面前での演奏だぞ! 自分が目立つのが最優先とでも言いたげな態度……恥を知れ!」
「恥ぃ~? ハッ、クソザコ音楽家に言われたくないわね」
「く、クソザコだと!?」
「部屋の隅でガタガタ怯えて女の子に慰めてもらって。繊細ぶってアーティスト気取り?」
「何を……!」
「そんな雑魚メンタルでよく宮廷音楽家を名乗れてるモンね~? はー信じられない。ゴミねゴミ!」
見下して切り捨てて一笑。
髪飾りを指で弄り、浮かべる表情は自らが世界の中心だと信じきっている類の優越。
歌姫リーリヤ、純然と性格が悪い!!
「なんて女だ……お前はエフライン様の前で歌うのに相応しくない!」
「言っとくけど、私は歌に対してはマジよ。猊下に捧ぐ、とびきりの歌を全国民に突き付けてやるわ。少なくとも、アンタみたいにブルってる奴よりは相応しいと思うけど?」
睨み合う二人。お互いの間には敵意しかない。
共演を前にこんな状態で大丈夫なのだろうか。いや、それよりも心配しなければならないことが一つ。
途中からノーラが一言も喋っていない。敵と見なせばすぐに噛み付く、狂犬めいた本性のノーラが。
それはつまり、リーリヤを既に排除の対象と見なしているということ。
手には重みのある置き時計が握られていて、それは鈍器には十分だ!
頭に血が上った彼女に理屈は通じない。そんなことをすれば大騒ぎになるが、関係なし。理性のブレーキは破損済み!
「シャルルの敵!!!」
「あ、やめるんだノーラ!」
わかりやすく一声、接近!
頭上高く時計を振り上げ、あくまで傲岸な歌姫リーリヤへと振り下ろす!
それでも、宮廷歌手は動じない。
尊大に三日月を描く形の良い唇、それがおもむろに開かれる。
「ラ……ララ……」と奏でられるハミング。
歌詞はなくとも、その音は情感に満ち溢れている。
「……ッ、ぐ…!?」
調べは美しさの中に凶兆を孕んで、そして濃密な魔力が込められている。
呻いたのはノーラ。音は耳へと滑り込み、骨身へ浸透。
まるで血中へ重黒なコールタールを流し込んだかのように、彼女の全身へ猛烈な負荷が掛かる。
リーリヤの歌は魔術としての側面も有しているのだ。
重力が数倍に高まったのではないかと錯誤するほどの猛烈な効果に、ノーラは鋭い眼光を保ったまま膝を屈している。
「フフン、どうしたの? 転んだりして」
「この、女ァ!!」
嘲笑するリーリヤ、睨み上げるノーラ。
敵意が爆ぜて燃え上がり、怒気に空気が揺らぐ……そんな錯覚。
すっかり対立構造を形成してしまった二人を前に、シャルルは酷く困った様子でノーラを助け起こした。
「大丈夫かい。あの、ノーラ。すぐに殴りかかる癖だけはどうかと」
「安心して。この女は私が絶対に……!」
「ハッ。震え、止まってんじゃない。アルベール」
悪辣な笑みと共に、リーリヤからの指摘で気付く。
暴言を浴び、眼前で喧嘩。気を取られているうちに、本番への恐怖心が消え失せていた。
今の状況を思い出した瞬間に恐怖心がぶり返すということもなし。
一度意識が他へ向いたことで、腹が据わったのかもしれない。
シャルルはリーリヤへと目を向ける。もしかして、気を紛らわすために意図的に?
「もう一度言うわ、主役は私。けどヘマをされても困るのよね。共演する以上、ベストは尽くしなさいよ」
「………わかったよ」
主役云々はともかく、ベストを尽くすべきなのは事実だ。
この女に言われるのは癪だが、渋々ながらシャルルは頷き返す。
ふと、リーリヤはノーラへ目を向けた。
「その男、アンタが甘やかすせいでダメになってんじゃないの」
「……ッ!!」
続く息苦しさに言い返せないまま、ノーラは床からリーリヤを見上げている。
いや、言い返せなかったのは体の不自由ばかりではない。
毅然を取り戻したシャルルを前に、責任を自問している。
「私は……!」
「おっと、始まったみたいね」
ノーラの抗弁を断ち切るように、遠く、会場から巨大な歓声が湧き上がる。
地鳴りのような歓声。床や壁を通して、シャルルたちへも人々の期待と熱が伝わってくる。
ついに式典が幕を開けたのだ。




