★二十二話 眠れぬ前夜と明くる朝
夜が訪れ、詩乃らの滞在するアルベール家にも就寝の時間が訪れていた。
ゲオルグは老人らしく早寝だ。夕食を終えた頃には早々に寝室へ引き上げる。カミロは電池が切れるように椅子で眠りこけていて、兵馬が億劫げに寝室へと運んでいく。
詩乃とプリムラも今日は疲れたようで、あくびを連発しながら自室へと足を向けていった。
居間には夜型人間のシャルルだけが残っている。
干した貝ヒモをアテに、透明感のある蒸留酒でチビチビと口元を湿らせている。まるで若さの感じられない、しみったれた印象の飲み方だ。
そこへコツコツと足音。カミロを寝かせた兵馬が降りてきたのだ。
「や、お疲れ」
軽く手を上げ、彼はシャルルの差し向かいへと腰を下ろした。
「なんだ。飲むかい」
シャルルはふらつく手付きで空のコップを向かいへ滑らせ、手酌で注ごうとする。が、兵馬はそれを断った。
「いや、あまり好きじゃなくてさ」
そう言うと、冷蔵庫から勝手に取り出してきた大瓶の牛乳をコップへ注いだ。
それから茶色の紙袋をガササと開けると、ポテトチップスが平たく広げられた。
市中のマーケットで売られている揚げたてはセントメリアの名物で、兵馬はどうやら昼のうちに買っていたらしい。
さすがにすっかり冷めてはいるが、それでも良質な油と芋を使って揚げられたそれはなかなか美味しそうに見える。
「シャルル、君も食べたら」
「そう言うなら遠慮なく」
パリリと食感。冷めていてもそれなりのクリスピー感が残っている。
口に含めば程よい塩気が口に広がり良い塩梅だ。グイと、舌の上の油分をアルコールで流し込む。
「くぅっ、たまには酒に油物もいいなぁ」
「オヤジ臭いな、君」
呆れ顔を浮かべつつ、兵馬は芋を口に運んでは牛乳を飲む。
晩酌の隣で、こちらはまるで三時のおやつ。
「そういうそっちは随分とガキ臭い夜食だな。ポテチに牛乳? 食べ盛りの子供じゃあるまいし」
まるでカミロだと揶揄めいて呟き、シャルルはハハと軽く笑う。
兵馬はそれを意に介さず、断りなしにシャルルのつまみの干し貝を口へ放り込んだ。
「別に、酒も飲めないわけじゃないけどね。美味いと思ったことがない」
「ふぅん。リュイスみたいに下戸ってわけじゃないのか」
「あと、わりと酔いやすい。余計なことを言いがちでね。控えてる」
「なんだ、酒に飲まれるタイプか。ハハハ! 貧弱貧弱!」
高らかに嘲笑いつつ、シャルルは空けたコップへ酒を注ぎ直して一息に煽った。
度数の高い酒をガブガブと、アルコールのペースはいつにも増して速い。
アルベール家に居座って数日、彼の酒量は日に日に増えていっているように見える。
そしてその感覚は誤りではない。事実、普段なら半月は持つはずの大瓶が五日ほどで空になりかけていた。
シャルル・アルベールはひどく繊細な青年だ。普通に生きていてはすぐ心のバランスを崩してしまう。
往々に、夜の闇と静けさは人間の精神にマイナスをもたらすもの。精神薄弱のシャルルにはその傾向がなおさら顕著だ。
自らの音楽家としての未来に不安を抱き、才能がないのではと恐れを抱き、両親と死別した寂しさを思い起こしては頭を抱える。
紛らわすための酒に溺れ、しかしアルコールの悪影響か、時折強まる胸の動悸はさらに心配を募らせる、そんな悪循環。鬱々とした気性をしている。
そして今は盛大な国事の前。自分の演奏が国民の耳目に晒される機会を明後日に控え、ガラスのメンタルは重圧にひび割れていた。
寝ようにもまるで眠れず、やっていられず酒を飲む。
酒浸り、アルコール中毒と人は責めるが、市井に蔓延る薬物に手を出さないだけマシだと考えている。
シャルルに限らず、音楽家と言うのは心に負担を抱える職業だ。同業者には薬に救いを求める者も少なくない。
シャルル自身は刹那的な生き方の中にせめてもの主義として、薬には手を出さないと固く誓っていた。
さておき、たまには酒の肴に会話もいいだろう。シャルルは兵馬へと疑問を投げる。
「兵馬、君はどうして大道芸人に拘る? 率直に言って、見込みないよ。将来性ゼロだ」
「ひ、酷いな、藪から棒に。もっと言い方があるだろ……」
「いやいや、酷いのは君の芸さ。宮廷には“宮廷道化師”って連中もいる。教皇猊下お抱えのピエロだけど、彼らのジャグリングに比べれば君のはドブ沼みたいなもんだ。ハッハハ!」
「嫌な酔い方をするなぁ、君」
酒の入らない素面ならそれなりに気遣いのできる常識人のシャルルなのだが、それが彼の本質かと言えばそうではなく、少なからず抑圧された姿なのだろう。
酒気が深まるにつれ、振り子が真逆に揺れるように、辛辣な物言いが顔を覗かせる。
ただ、それはあくまで口を開けばの話。一人で飲ませていればダウナーに酔い潰れているだけで害はないのだが。
ともかく、酔っ払いの台詞をいちいち間に受けるほど兵馬は繊細な性格をしていない。
顔をしかめつつ、適当な相槌で嘲笑をやり過ごしながら芋を口に運ぶ。と、シャルルが問いを重ねた。
「で、なんでだい。芸をやる理由」
「……」
“何故”に対する答えを、兵馬は脳内で整理する。
そして少しの間を置き、口を開いた。
「別に、大道芸でなきゃいけないわけでもないんだ。ただ、まだやったことがないことだったから」
「よくわからないな。答えになってない」
「……暇潰しさ。みんなそうしてる。そういうものなんだよ。僕らは」
「僕ら、って。詩乃とプリムラの二人を含めてか」
「いや、二人のことじゃない。“僕ら”は……」
はっと、兵馬が口を噤んだ。
何故こんなことを口走ってしまったのだろう。テーブルの上に伏せてあったコップに牛乳を注いだが、置かれていた位置には水滴が残っている。
「シャルル。このコップ、まさか……」
「ああ、さっき飲んだ時のやつだったかな。でも乾いてるだろ?」
「……勘弁してくれ。汚いな」
どうやら、微量のアルコールに当てられたらしい。
ほんの数滴に過ぎないはずだが、度数の高い酒は兵馬の思考をぐらつかせた。余計なことを喋ってしまった。
「で、“僕ら”ってのは?」
「……忘れてくれ」
「おい、オチを付ける気もなしか。いくら酒の場たって、それは流石に酷いぜクソ芸人。サービス精神ってもんが足りないね、だから万年ポンコツなんだよ。大体な、酒を断るところからダメだ。芸人ってのはだなぁ……」
クダを巻き始めたシャルルから目を逸らし、兵馬は時計に目を向けた。
日付は変わっている。一時を過ぎ、二時に迫ろうとしている。
昼間、宮殿に出向いての諸々で詩乃たちが疲れ切っていたが、それは兵馬も同じこと。
そのせいで余計にアルコールが巡ったのかもしれない。
「お開きにしよう」と告げると瓶に直接口を付け、底に残った牛乳を食道へ流し込む。
それから、シャルルへと目を向けた。底冷えのする鋭い目を。
「勝手に話しておいて悪いけど、さっきの話は忘れてくれ、シャルル。お互いのためにね」
「……おおっと、えらく真剣な目をするじゃないか。剣でも抜くか? クソ芸人」
泥酔がはたと醒めるほどに、兵馬の目は暗く冷たい。
底の見えない洞穴のような空虚を感じさせて、シャルルは思わず喉を鳴らした。
……が、すぐに表情を砕けさせ、音楽家の青年は指揮でもするかのようにひらひらと手を泳がせる。
「安心しろよ。どうせ朝には全部忘れてる。忘れたいから、馬鹿みたいに酒を飲むんだ。何もかも、何もかもね」
「……ああ、安心したよ。お休み、シャルル」
背越しにヒラヒラと手を振り、兵馬は歯磨きをするべく洗面所へと去っていった。
シャルルはテーブルに一人、釈然としない感情だけが胸中に残されている。
ここ数日、シャルルは兵馬という青年に違和感を抱き続けている。
優れた術師である祖父の血か、音楽家の感性からか、シャルルは幼い頃から勘が鋭い。その感覚が、彼の中に得体の知れない何かを感じ取っているのだ。
「……胡散臭いヤツだ」
呟くが、今のシャルルは単なる酔いどれ。研ぎ澄まされた思考など望むべくもなく、去っていく兵馬の背を見送りながら、ゆっくりと机へと顔面を突っ伏す。
意識が泥へ沈みかけ、まずいと一念発起。このまま寝るのは流石に風邪を引く。
無理やりに体を起こし、ソファーへと倒れこんで毛布を被る。酒に火照った体が柔らかな布に包まれ、すぐに微睡みが訪れる。
(……嘘じゃない。飲んでる時の会話なんて、覚えてた試しがない、んだ……)
そして明かりが消え、アルベール家の一日が終わりを告げた。
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絹のような陽光。
上質なカーテン越し、春の朝日は心地よく柔らかに、“神”の寝室を暖めていく。
「……朝か」
午前七時。
目覚ましに頼ることもなく、ユーライヤの国主たる少年、エフライン14世がベッドから身を起こした。
艶めいた黒髪、くしゃりとウェーブのかかった質感は寝癖ではなく生来のもの。歳に見合わず高い理知を感じさせる眼差し。
髪色と表情を除けば、少年教皇エフラインの容姿は不気味なほどにカミロと瓜二つだ。
しかし、その境遇は天地ほどに違う。
貧民街で気ままに生きるカミロは好きなに起き、好きに遊び、好きに食べて眠っている。同年代の友人に恵まれない不幸こそあれど、自由には事欠かない生活だ。
対し、エフライン。彼が身を起こすと、その気配を室外で窺っていた侍女たちがすぐさま扉をノックする。
「お目覚めになられましたか」
「ああ、起きているよ」
扉が開く。“起床の儀”の時間だ。
大勢の侍女たちが部屋へと入る。
エフラインが床に降り立つやいなや、恭しく両腕が抱えられて寝間着が脱がされる。
湯に浸された布で顔や体の寝汗を拭かれ、髪を整えられ、歯を磨かれ、正装である法衣を着せられ、ただ立っているだけで朝の支度が全て完了する。腕に力を込める必要さえない。
同時に、貴族の子女から選び出された親衛隊が室内へと入る。
部屋や窓、テラスなどに異変がないかの点検が済まされる。
続けて医師が数名。国で屈指の名医たちだ。
顔色、舌の色、体温、脈拍。仔細の確認が行われ、少年の体調に変化がないか、綿密なチェックが行われる。
まさに至れり尽くせり。だが不自由だ。
少年は寝覚めの微睡みの、二度寝の幸福を知らない。
わずかな時間を経て、エフラインは広間の食卓へと足を運ぶ。
お付きの従者たちが背後にずらりと立ち並ぶ中、トースト、サラダ、スープに果物。
成長期の少年に必要な栄養を考慮されつつも、朝は存外に質素だ。
「いつも同じメニューでつまらないな」
気まぐれに傍の侍女へと声を掛けてみるも、誰もがおざなりの答えしか返さない。
主権者である教皇に取り入ることができないよう、個人の考えを言ってはならないと教育を受けているのだ。
「……全く、つまらない」
もう一度呟く。
朝食だけに向けた言葉ではない。自身を取り巻く全てに対しての言葉だ。
黙したまま彫像のように佇む家来たちは不愉快でさえある。
スープ皿の底にスプーンが触れ、カチャリと音を立てたところで朝食を打ち切るべく口を拭った。
トーストを二齧り、スープを三口、サラダを少々。
それで終わり。少食に周囲が色めき立つ。
体調が優れないのですか? 医師を呼べ!
お口に合いませんでしたか? シェフを呼べ!
食が進まない日くらい誰にでもあるだろう。それがこの大騒ぎ、馬鹿げている。
ますます不興を深め、腹いせのようにトーストの残り半分を口へと押し込んだ。
「猊下! いけません! 喉に詰まらせてしまいます!」
「咀嚼を! しっかり咀嚼なさってください!」
「ああ、窒息されては大変だ……! 水を! 誰か水を!」
「くだらない。僕は物心の付かぬ乳飲み子か?」
寄り集った医師に従者たちを押し退け、エフラインは食卓を立つ。
「アルメルを呼べ」
“六聖”が一人、アルメル。
彼女は大貴族ブロムダール家の出という立場から、六聖でありながら親衛隊の筆頭でもある。
まるで区別の付かない没個性的な家臣たちの中で、少年は唯一アルメルのことだけは気に入っている。何故なら。
「お呼びですか猊下!」
「来たか」
スタスタと機敏に軍靴を鳴らしながら、やたらに凛とした表情でアルメルが現れる。
呼べばいつでもすぐに来る。呼びつける側なので移動の様子を知らないが、走っているのだろうか?
微かに息が上がっているので、きっとそうなのだろう。
と、ふと。アルメルは食卓を目にしてキリリと目元を鋭くする。
「猊下! 野菜を残しているではありませんか!」
「あらかた食べてあるだろう」
「キュウリが残っています!」
「アレは栄養がない。だから食べる必要がない」
わけ知り顔で述べるエフライン。王であるべく日々英才教育を受けている彼は、年齢よりよほど賢しい。
だが、アルメルはそれを良しとしない!
「こらっ!」
「痛っ!?」
ゴツンと、アルメルのげんこつが少年の頭を小突いた。
途端、とんでもないことだと周囲から悲鳴が上がる!
宗教国家であるユーライヤ教皇国においては、教皇の座にある者が現人神だ。つまりアルメルは神の頭を殴ったのだ!!
なのだが、当のアルメルは知ったことかとどこ吹く風。
「栄養価うんぬんではありません! 好き嫌いをする者が優れた国主たりえるかという話をしているのです!」
「ぐ、別にこれぐらい」
「言い訳をするのも良くありません!」
「……いいだろう。食せばいいのだな」
渋々、エフラインはキュウリを口へと運ぶ。
屁理屈をこねたが実際のところ、彼はこの野菜の青臭い風味が嫌いなのだ。
シャリと咀嚼し、嚥下し、口を開けてアルメルを見上げる。
「見ろ。これで良いか」
「うむ、天晴れです! エフライン様!」
にっこりと微笑むアルメル。良くも悪くも裏表のない、腹芸のこなせないタイプ。
ブロムダール家は代々謀略に長けた一族なのだが、きっとその才は議員の兄に譲ったのだろう。
だからこそ、エフラインは彼女へと信頼を寄せて重用している。
「アルメル、今日は共に観覧するぞ」
「は。元より警護は私の予定ですので」
多少ゴツンと頭を小突かれようが、息の詰まる無個性な臣下たちよりよほど良い。
今日は国を挙げて行われる法要の日。
だが、亡き父への弔いよりも盛大に催される様々な出し物にエフラインの興味は向いている。
彼の中に、戦と職務に追われていた前王の記憶は薄い。
決して口にはしないが、彼にとっての父はいつの間にかいなくなっていた人間でしかないのだ。
幼くして芸術を愛するエフラインにとっては、宮廷歌手リーリヤと宮廷音楽家シャルルの初めての共演の方がよほどの関心事。
幸いにして快晴。窓の陽光へ目を向け、少年教皇はどこか儚げに笑みを浮かべ、そして小さく呟いた。
「うん、今日は楽しみだ」




