☆十九話 ブロムダール兄妹
所は変わり、宮殿内。
詩乃は兵馬とプリムラを引き連れ、アルメルから情報を聞き出すべくズカズカと歩を進めていた。
手錠をされて連行された先日は萎縮しつつのおっかなびっくりだったが、今日ははその様子が嘘のようだ。
「図太いね、君は」と呆れ気味の兵馬。詩乃はそれを褒め言葉と受けたようで、ふふんと軽く鼻を鳴らし、自らのこめかみに指を当てる。
「ココだよ、ココ」
頭は使いよう、とでも言いたいらしい。表情こそ若干の苛立ちを誘うが、実際に知恵は働かせている。宮殿を強気に歩けるのには理由がある。
シャルルらの祖父ゲオルグが元宮廷魔術師であることに目を付け、小包みの運搬を請け負う代わりに宮中へと入れるよう一筆を添えてもらっていたのだ。
それを門番に見せた途端にフリーパス。通常は立ち入れない騎士たちの区画へ入り込むことに成功していた。
「宮廷魔術師って偉いんだねー」
プリムラがぽわんと気の抜けた表情で口にする。詩乃も首を縦に相槌を。
先日の少女アイネの姿を思い出している。
帽子が少しばかり奇抜な以外は普通な少女に見えたのだが、思わぬところでその大物ぶりを思い知らされていた。
「給料いいんだろうな」
兵馬がぽつりと漏らした一言には、相変わらずの金欠ぶりが如実に表れている。
年下の少女の懐事情を羨む青年。情けない光景に、詩乃は思わず半目を向けている。
と、噂をすれば、長い廊下の向かいからアイネが歩いてきている。
先端が二又に分かれてポンポンが付いた、ピエロ帽めいた形状の帽子がふらふらと揺れて、上機嫌に鼻歌を歌っているのが見える。
そんなアイネの方も詩乃たちに気付いたようで「わー」と曖昧な歓声をあげながら手を振ってきた。
その隣には見慣れぬ少女、こちらは濃紺、とんがり帽を被ったいかにもな魔女姿だ。
「詩乃ちゃんたち久しぶりー! って、まだ二日前ぐらいに会ったばっかりだね。あはは」
屈託のない笑顔。根の明るさが表情に表れている。
詩乃は対照的に、少しぎこちない態度。数日を開けての再会。たとえ年下相手でも、よほど慣れない限りは人見知りを発動させてしまうのが詩乃だ。
ただ、アイネに対しては好感を抱いている。
プリムラにポンと背を叩かれ、「あ、はは」と人見知りなりに精一杯の笑顔を返した。
「アイネ、誰よ。その人ら」
隣の魔女っ子が口を開く。
顔立ちや声から見るにアイネと同じ程度、14、5歳ほどに見えるのだが、印象は随分と異なる。
「あ、紹介するね。詩乃さん、プリムラさん、兵馬さん。この前の任務で……」
「ああ? シャングリラに追われてるっていう」
アイネの説明を途中で遮り、クラシカルスタイルの魔女は詩乃らをジトリと睨めつける。
純朴なアイネとは真逆、無遠慮な視線はスレた雰囲気を感じさせるものだ。
「詩乃さんたちにも紹介するね。この子はロネット。私の親友なんだ!」
紹介を受け、とんがり帽の縁に手を添え角度を正し、不審の視線を崩さないままに「どうも」とおざなりな挨拶を。
そんなロネットにはどこか都会的な棘があり、田舎っぽいアイネとはなかなかに対照的だ。
兵馬は「よろしく」と爽やかさを装った笑み。握手を求めて手を差し伸べるが、ロネットは訝しんだままに黙している。
あまつさえ、「本当に信用できるわけ? この人たち」とアイネへ尋ねかけている。警戒心を前面に示されて、兵馬は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「大丈夫だよー。うちのアルメル隊長がちゃんと調べたし!」
「アルメル隊長ねぇ。あのお嬢様が調べたってザルな気がするけど」
そう口にしつつ、ようやく渋々ながらに兵馬の握手を受けた。
「今この子が紹介したけど、私はロネット・フローリー。シャラフ隊所属の魔術師よ」
格好を見るに明らかだが、やはり魔術師らしい。
それを聞き、プリムラが何の気なしに口を開く。
「ロネットも宮廷魔術師なの?」
「あ……」
慌てた表情を浮かべたのはアイネ。
どうして狼狽しているのか、原因を詩乃はすぐに理解した。
「……チッ」
舌打ちを一つ、爪先で床を蹴りつけ、ロネットはやたらに忌々しげな顔だ。
「……アイネ、私は先に行ってるから」
「ま、待ってよロネットー」
俯き加減に表情を硬く、ロネットは足早に立ち去っていく。アイネはそんな友人の様子に困り顔で眉を寄せている。
「あれ?」と間の抜けた声はプリムラ。その脇腹を、詩乃がドスと小突いた。
「い、痛いよ詩乃」
「バカ。ゲオルグさんに色々聞いたでしょ」
現在いる宮廷魔術師の中で最年少はアイネ。他の者と比べて飛び抜けて年若いのだと聞いた。
詩乃が見た写真にはもう一人だけ、少女の宮廷魔術師も写っていたがはっきりと別人。つまり、ロネットが宮廷魔術師であるはずがないのだ。
(なるほど)と、兵馬は興味深げな表情を浮かべている。
アイネとロネット。二人はおそらく同年代。
友人らしいが、同じ魔術師で片方だけが高く評価されているとなれば複雑な思いはあるだろう。
とりわけ10代の多感な年頃、それも女子同士。プリムラはデリケートな領域を土足で踏み抜いてしまったわけだ。
「あー」とようやく察し、人形少女は気まずい表情でアイネへと頭を下げる。
「ごめんね……」
その動きにいつもの滑らかさはなく、ギギギと機械仕掛けの人形めいて重苦しい。精神的に負い目を感じると精緻な動作が失われるのはプリムラの弱点なのだ。
あははと苦笑を一つ、アイネはプリムラに「大丈夫だよ」と声を掛けた。
「ロネットを追いかけなきゃ。三人とも、また今度ゆっくりお話ししようね!」
そう告げて駆け出そうとし、足を空転させて立ち止まる。
「えっと、隊長なら部屋にいると思うよ!」
アイネ、それにロネットと別れ、三人は城内の深部へと進んでいく。
詩乃が取り調べを受けたアルメルの執務室へと向かう道のりだ。
少年にして国主たるエフライン14世は芸術を好むそうだ。先日にも目にした通り、高そうな美術品がところどころに点在している。
そんな中に、飾り気のない兵士の石像が一定の間隔ごとに置かれているのが目に付く。
人間よりはノッポな、おおよそ2メートルと少し。重そうな斧槍を手に捧げ持ち、廊下を歩き抜ける詩乃らを睨み下している。
「なんだか視線感じてやな感じ」
「確かにね」
プリムラがぽつりと呟き、兵馬がぼんやりと相槌を返した。
それもそのはず、これらの像は調度品の類ではない。
外部からの侵入者に対応するための、謂わば警備システム。
石作りの体は内部に魔力を封入された無機生命体であり、エリアへの立ち入りを許可されていない人間を感知すると動き出して一撃を下すようプログラムされているのだ。
だが、詩乃らは正式な訪問者。王宮入り口で衛兵から手の甲にポンと捺された魔力印があればゴーレムらに敵視されることはない。
それでもプリムラは石人形が気になって仕方がないようで、「こっち見ないでよ」と因縁を付けている。
「……そんなに気になる?」
「すごく気になる。すごく」
詩乃の問いに頷く。仕組みは違うのだが、大別すれば石像たちとプリムラは人形という同ジャンル。
人間である詩乃とはゴーレムの気配に対する感じ方が違うのだろうか?
ともかく、宮殿内の警備は凄まじく厳重だ。
ゴーレムだけではない。壁や天井、窓から廊下の隅々に至るまで、異物を排除すべく魔力の網が張り巡らされているのを感じられる。
兵馬は視線を巡らせながら、世界一と称されるユーライヤ教皇国の魔法技術の高さを思い知らされていた。
「“エフライン様”のお膝元で悪さはさせない、ってところか」
「なに。悪い事するなら早めに言ってね。私とプリムラはさっさと逃げて無関係装うから」
「しないしない」
手を左右に揺らして否定。そこで三人は執務室の前へと辿り着いた。
アイネの話では部屋にいるとのこと。アポなしでの訪問だが、少しなら時間をもらえるだろうか……と。
「や、やめてくださいお兄様!」
中から聞こえてきたのは素っ頓狂な悲鳴。凛とよく通る涼やかなそれはアルメルの声だ。
次いで、「はぁぁぁアァルメル!!」と男の声。
その声の響きはなかなかに奇妙で、少し裏返っていて、どう表現するべきか…幸福と喜色に充ち満ちている。
そしてガタン、ガタンと部屋の中から机だか椅子だかが蹴り倒されたような音。バタバタと逃げ回るような足音。
「誰か! 衛兵ッ! 衛兵ー!」
これはアルメルの声。
「無駄だよアルメル! 誰が来ることもない! 人払いをしたからね! さあ思う存分触れ合おう!」
男の声が続く。
言われてみれば、角を曲がり執務室がある付近へと辿り着いてからは衛兵の姿が見受けられない。宮殿の深部であるにも関わらずだ。
詩乃、プリムラ、兵馬の三人は判断に困り、顔を見合わせる。
声だけを聞けば、なにやらのっぴきならない事態が発生しているかのように思える。助けに入るべきか?
と言っても、あの滅法強いアルメルがそうそう危機に陥るものなのだろうか?
「……出直す?」
詩乃は事なかれ主義な面がある。
関わり合いになるのは面倒臭そうだと表情をしかめ、引き返そうと……
室内から聞こえてくる奇声がさらに高まる。
「アぁルメル! アルメルゥっ!!」
「ひいっ……! た、助けてくれ!誰でもいいから!」
さすがに、ここまではっきりと救助を求める声を無視して去るわけにもいかないだろう。
ハァとため息一つ。
プリムラや兵馬と視線を交わし、扉をノックすることなく、バァン! 兵馬を先頭に扉を蹴り開け、勢い任せに執務室へと一挙に押し入る!
「助けに来たけど」
「大丈夫ー!?」
「アルメルさん、大丈夫です……か?」
いまいちテンションの低い詩乃、大声のプリムラ、状況を確認しつつの兵馬と声が続き、そして三人は変態を目の当たりにして硬直する。
「ンっハ……! アルメェル、愛しい妹よ。はぁあっ!!」
「き、気色が悪いです! 離れてくださいお兄様!!」
アルメルは仕事服、六聖用の軍服姿のまま。
引きつった悲鳴を上げてこそいるが、服を脱がされているだとかそういったことはない。
問題は、アルメルにべったりとしがみついている変態だ。
腰の辺りに両腕を回し、腹部へヒシと抱きつき、一人の男が息を荒げて頬ずりをしている。
いや、頬ずりと言うよりは目鼻口、両の耳に至るまで、顔の全体をまんべんなく擦り付けている。
ハッ……ンハッ……! スッ、スゥゥゥ……!
深く、浅く、激しい呼吸音が時折混じる。芳香を楽しんでいるのだと一目でわかる。目が爛々と輝いている。
「なにこれ」
プリムラが呆気に取られて声を発する。
「誰あれ」と詩乃が続く。
「兄……なんじゃないか?」と兵馬が返す。
“お兄様”と呼んでいるのをそのまま受け取れば、その変態はアルメルの兄らしい。
彼女に姉がいて、その夫で義理の兄。そんなケースもあるが、しかし二人の顔立ちは血の繋がりを確信できる程度には似ている。たぶん、実兄だろう。
「は、離せ! 離してぇ!」
アルメルからいつもの堅苦しい口調は失われ、あるいは泣きそうなぐらいの声で振りほどこうと必死の抵抗を見せている。
ゴッ、ゴッと鈍器で殴るような音。割と容赦なく拳や肘鉄を打ち下ろしているのだが、兄はその痛みさえ悦楽と感じている有様。効果は見られない。
と、そこでようやくアルメルが詩乃たちの乱入に気付いた。
「お、お前たち、なんて良いところに!」
「ああアルメル……素晴らしく引き締まっていながら女性的な柔らかさもある腹筋……芸術だよこれはぁ……」
「この変態を引き剥がしてくれ! 頼む!」
「ん、了解」
詩乃が頷くと同時、兵馬とプリムラが二人がかりで男の肩へと手を掛ける。
「誰だ貴様らは。私を誰だと思っている。議員にしてブロムダール家長子、テオドール・ブロムダールだぞ。兄妹の親交を邪魔するなら容赦なく……」
「無視だ、プリムラ」
「あいあい!」
一息に引き剥がす!
力任せに後方へと引き倒され、テオドールと名乗った男は床で後頭部を痛打!!
「がはっ!?」
目を白黒とさせ、そして変態は気を失った。
ようやく解放され、アルメルは安堵した様子で目元を手で覆い、ふらふらと椅子にへたり込んだ。
「疲れた……」
気を失ったのを幸いに、プリムラはアルメルへと襲いかかっていた変態兄、テオドールと名乗った男を後手に縛り上げる。
「で、なんなのこれ」
詩乃の問いはプリムラと兵馬も含めた三人の総意だ。
アルメルは小さく頷き、柳眉をひそめて口を開く。
「何というか、まあ、実の兄なんだが……」
「げ、ほんとに兄なんだ」
女子勢二人が顔を引きつらせる。生理的嫌悪感をたっぷりに表して、アルメルは遠い目でそれに応える。
兵馬が質問を投げて会話を継ぐ。
「えっと、なんというか。アルメルさんに興奮してるように見えたんですが」
「その……うむ。困ったことにな」
ほとほと困り果てている。そんな表情で首を縦に振り、兵馬の言葉を肯定した。
普段のキリリとした表情ではなく半目、そしてひどく億劫な様子で説明を。
曰く……
「テオドール……お兄様は、子供の頃から私をとてもよく可愛がってくれていた」
アルメル、そしてテオドールの属するブロムダール家はユーライヤ教皇国きっての名家。五本の指に数えられる大貴族の家系だ。
そんな家柄で、二人は共に厳しい躾を受けながら育った。
学問だけでなく帝王学から高貴なる人々の責務に至るまで、それは貴族としての学だ。
長男のテオドールは政治家か優れた軍人になるべく教育を受けた。武才には恵まれなかったが智謀に長け、国議会において発言力を有する議員として活躍している。
そしてアルメル。
ユーライヤの貴族家系において、女は嫁ぎ、血縁を強化するための道具だ。
勉学に礼儀作法を叩き込まれる生活。両親はアルメルに類稀なる剣の才能を見ながら、その道を閉ざそうとした。
旧態然とした思考に凝り固まったブロムダール家において、女子は貞淑に、物言わぬ華であるべき。それがまさか軍人を輩出するなど、まるで好ましくないと考えられたのだ。
厳しい教育の中でも睦まじく育ったアルメルとテオドール。
だがアルメルが10代の半ばに入った頃、兄妹に離別の危機が訪れる。
二人の父は政略のため、人目を惹く麗しい少女へと育った愛娘を、同じく貴族の四十男へと嫁がせようと考えたのだ。
それが定めと育てられ、自らの宿命に諦観を抱いていた。だが嫁入りを翌日に控え、アルメルはついに受け入れがたい心情を兄へと吐露してしまう。
「お兄様……お兄様! 私、結婚したくなんてありません……」
「アルメルっ……任せてくれ、アルメル。愛しているよアルメル!!!」
そこからは早かった。
テオドールは天性の政才、麒麟児ぶりを存分に発揮してみせる。
本家から多数の分家へと権力が枝分かれし、家督に複雑な力関係が絡み合っているブロムダール家。
兄は愛妹を守るべく、その分家の過半数へと事前の根回しを成功させていたのだ。
そして議員としての権限を活かし、法の穴を抜けつつ特権をフルに活かし、ブロムダール家の私兵を蹴散らし父へと刃を突き付ける。
「ブロムダールの家督、このテオドールへと譲っていただきましょう」
わずか半日、巨星たる父を隠居へと追い込み、完璧なクーデターめいた形でブロムダール家の主へと成り上がってみせたのだ。
午後、アルメルを娶りに来た好色家の中年貴族の顔面を家督の杖で殴打し、それで全ては破談。
ブロムダール家の権力はほんの少し弱まったが、それでも依然五指に数えられる貴族のまま。
アルメルは親の支配から解放され、最愛の兄の庇護を受けつつ、晴れて剣を極めるべく軍へと足を踏み入れたのだ。
……話し終え、アルメルは小さく溜息をつく。
依然、気絶したままの兄のそばへ膝を折り、親しみを感じさせる仕草で頬に指を添え、撫でる。
「そういう人なんだ。お兄様は」
「すごい! 優しいお兄さんなんだね! すごいなー!」
単純至極。打てば響く鐘のように、プリムラはすっかりテオドールへと尊敬の眼差しを向けている。が、シニカルな詩乃はその限りでない。
「で、いつから変態に?」
「……その日、以来だ。元々スキンシップの多い人ではあったんだが、両親の目を気にする必要もなくなってからは。酷い時は朝目覚めるとベッドの中にいる」
「ええ……? 大丈夫なんですか、それ」
「ま、まあ、服を脱がしてくるとかではないからな。一応」
アルメルの口調は歯切れが悪い。
決定的な一線は越えてこないにせよ、やはりテオドールからの溺愛ぶりには辟易している様子だ。
「いい話だったけど、そこまで聞くと台無しだなぁ」と兵馬。
詩乃にプリムラ、アルメルまでもが頷いた。
「私も26。妹、妹と猫可愛がりされるような歳ではないんだが」
「そんなことはない!! 40になろうが60になろうが、アルメルは僕の最愛の妹さ!!」
テオドールが目覚めた。
途端、アルメルの顔がげんなりとした物に変化する。
それまでの語り口は兄への好意を感じさせるものだったのだが、一転してマイナスな表情へ。
黙っていれば、あるいは眠ってさえいれば大好きな兄。そういった具合なのだろう。
「60代の兄妹がベタベタと? そんなもの……見苦しいことこの上ありません!」
「はは、人目を気にしてはいけないよアルメル。常識も倫理も関係ない。大切なのは愛。ラヴさ。兄と妹の間に他者は介在しない。そこにLOVEさえあればいい」
「な、何がLOVEですか、倫理は保ってください。本気で身の危険を感じます」
「君を傷付けたり悲しませるようなことは絶対にしない! 何度だって、天地神明に誓って約束しよう。ただ、その、腹筋やふくらはぎを撫でさせてくれるだけでいいんだ。減るものじゃないだろう?」
「嫌です!」
「その豊かな胸を触ろうだとか、可愛らしい唇にキスをしようだとかじゃないんだ。兄の苦悩をわかってくれ、アルメル。議員、そして家長としての激務……君の芳香を補給させてくれないと僕は干上がって死んでしまう」
迫るテオドール、たじろぐアルメル。
「い、嫌です。死なれるのも困りますが」
「子供の頃はいつも一緒に風呂に入っていたじゃないか。兄さんは悲しい。性別が同じなら今でも仲良く背中を流しあえたはずなのに」
「……昔は昔、今は今です」
「どうだろうアルメル。ただ二人の兄妹だ。性別がどうだとか、気にする必要ないんじゃないか?」
「き、詭弁です」
「本当にそうかい? 本当に、本当にそうだろうか?」
「そ、それは……駄目に決まっているではないですか!」
縛られたままで芋虫めいて蠢き、ベラベラとまくし立てる兄。いっそ無視すればいいのに律儀に付き合う妹。
まあ、これはこれで良い関係なのかもしれない。
と、アルメルは思い出したように詩乃へ声を掛ける。
「ああそうだ、先日渡した情報について聞きに来たのだろう?」
「あ、はい」
「あれは各地方の軍から伝聞で集めた情報なんだ。書いて渡した以外に私が知っていることはない」
「そう、ですか……」
少し落胆した様子で目を伏せた詩乃に、アルメルもまた申し訳なさげに目を伏せる。
「境遇が境遇だからな、力になってやりたいのは山々なんだが……すまない」
得られる情報はなかった。だが、高位の軍人でありながら一般人の詩乃を気にかけてくれるアルメル。その人柄と誠意は存分に感じ取れた。
詩乃は珍しく帽子を取り、「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げる。
テオドールは地べたに腹ばいのまま、海老の如くバタンバタンとのたうち、アルメルへ近付こうとしている。
その頭を軍靴で容赦なく踏みつけながら、アルメルは優しい麗笑を詩乃へと返す。
「またいつでも来てくれ。時間があれば茶でも出そう」
「ああッ……! 頭を靴底で、良い! 実に悪くないよアルメル!」
もう一度頭を下げ、三人は執務室を立ち去った。




