☆九話 不穏を纏う男
兵馬は微睡みから醒め、ゆっくりとまぶたを開く。
眩しさに気付けば、車窓から暮れる西陽が差し込んでいる。
「首が痛いな……」と独り言。どうやら、列車の席で半日ほど眠っていたらしい。
向かいの椅子には詩乃とプリムラが、肩を寄せて静かに眠っている。
無理もない、昨晩は一睡もせずの激闘だったのだ。酷く疲労しているのだろう。
「目が覚めたかい?」
投げかけられる声は穏やかな口調、通路を挟んだ椅子にはルカ。
塩顔、よりももう少し薄い顔の彼は、親切に水のボトルを投げ渡してきた。礼を言って受け取り、栓を開けて含む。
乾いた喉に水分が染み渡っていく、のはいいのだが、どうにも手錠が鬱陶しい。
「外してくれないかな? これ」
「無理だね、悪いけど。うちの隊長は色々真面目だからね」
そう言ってルカは目元だけを笑ませ、読んでいたらしいゴシップ誌へと視線を戻す。
暇潰しなのだろう。さほどの興味もなさそうに、ペラリ、ペラリとページを読み飛ばしていっている。
彼の隣では魔術師のアイネがすやすやと寝息を立て、向かいの席ではリュイスが腕組みに大口を開けて眠っている。彼らも疲労しているのは同様のようだ。
昨夜リュイスの前でやってみせたように、手錠からするりと手首を抜くか?
兵馬は少しばかり逡巡するが、しかし外すのを諦める。
その気になればできなくはない。だが勝手に外したところで再び嵌められるだけ。いたずらに心証を悪くするだけだ。
不審者と見られている今、縄で縛られていないだけ良心的とも取れる。大人しく立場に甘んじることを決め、ぐるりと車両の中へと視線を巡らせる。
「軍用車両って言っても、普通の列車と変わらないんだね」
兵馬の声にルカが顔を上げる。雑誌はあと少しのページを残していたのだが、閉じて傍らに置くとこちらへと目を向けてきた。
「そうだね。部隊の移送用に、使われていない一般車両を転用しているだけだから」
「なるほど、寝台車両ならありがたかったんだけど……体中がバキバキだ」
「それは同感だよ」
兵馬とルカ、二人ともに自発的にテンションを上げて喋るタイプではない。物静かに会話を交わし、車窓の外にはのどかな平原が広がっている。
……と、車両が減速していく。視線の先には小さな駅。その周りには数軒の小屋が立ち並んでいる。
連結部の扉が開き、ルカらの上司、アルメルが入ってきた。
颯爽と長髪を靡かせながらのツカツカと背筋を伸ばした足取り。が、車内の寝息を聞き取って、その歩調は柔らかに緩む。
「む? みんな寝てるのか……」
ぽつりと小声で呟く。安眠を乱さないように。
どうやら部下想いな人物らしい。
「僕は起きてます」
ルカが声を掛ける。
存在感が希薄な彼から不意に話しかけられると上官であれど驚くようで、ビクリと一瞬身を竦ませたのが少し面白い。
「る、ルカ。起きているならそうと早く言わないか」
驚いてしまったのを恥じたか、口調は少し不服げだ。
「あと、そっちの彼も起きてますよ」
ルカはそう言い兵馬を指す。
「どうも」と軽く会釈をしておくが、アルメルは目にたっぷりの訝しみを浮かべて兵馬を見据えてくる。
「ふーむ。怪しい男だ……」
腕を組み、なにやら堅い口調で思慮深げにそう言う。
その目を見返しつつ、兵馬は彼女の一挙手一投足になんとなしの違和感を抱く。無理に肩肘を張っているような。
そんな兵馬の思考をよそに、アルメルはやたらにキリリとした表情で、ルカへと口を開く。
「燃料補給のために停まるぞ。ほんの15分ほどだがな」
列車は駅へと滑り込み、アルメルが告げた通りに停車する。
そして兵馬は駅のトイレへと訪れていた。
「逃亡するつもりだな!」と息巻くアルメルに頭を下げ、用を足しに出てきたのだ。
監視役として出てきたルカは、少し離れた位置のベンチにぼんやりと腰掛けている。
田舎にぽつんと佇む物寂しい駅。人影はまばら、自販機の光だけが薄く気配を放っている。
ルカはそれほど逃亡の心配をしていないようだ。実際、詩乃とプリムラが車両に残っている以上は兵馬だけ逃げるわけにもいかない。
(逃げたところで金のアテもないしね)
そんなことを考えながら手を洗っていると、個室から一人の男性が現れた。
「おや、犯罪者かな」
男性の視線は兵馬の手首、嵌められたままの手錠へと向いている。
別に犯罪で捕まったわけでもないのだが、説明も面倒なので兵馬は「そうですね」と適当に相槌を打つ。
「はは、それは結構」
男性は手を洗う。兵馬の傍らで、やたらと入念に、時間をかけて、念入りに洗い流す。
どことなく油断ならない雰囲気の男だ。洗うことよりも、兵馬を観察しているかのような。
兵馬は内心に緩やかな警戒を抱きながら、その容姿を横目に素早く観察する。
年の頃は20代の中盤から後半にかけて。仕立ての良いコートを羽織り、長身に肩ほどまでの茶髪。
整った容姿に穏やかな笑みを浮かべている。爽とした印象だが、瞳の奥には怜悧の色が微かに揺れている。
細かな所作から、衣服の下の肉体は頑として鍛え上げられているのがわかる。そして腰に佩いているのは一振り、長柄の刀。
どうやら、ただの旅人というわけではなさそうだ。
あるいは謎の組織、シャングリラの暗殺者か?
蛇口に手を晒しながら警戒を高める兵馬へ、男性は作り物めいた笑みを浮かべて口を開く。
「さて、アウトロー君。君の名前は?」
男性の声色は穏やかにして丁寧。だが、その目は言葉以上に煽りの雰囲気を滲ませている。
だが兵馬は抗弁しない。こうナチュラルに無法者呼ばわりされればそんな気すら削がれるものだ。
「僕は兵馬樹。あなたは?」
「失礼、名乗るのが遅れたね。私はクロード・ルシエンテス。流れの医者だよ」
流れの医者……そっちも十分、胡散臭い肩書きじゃないかと訝しむ。
いや、それよりも。ルシエンテス? どこかで聞いた名字だが。
記憶を手繰る兵馬に先んじて男性、クロードが口を開く。
「リュイス・ルシエンテスの兄だよ。その列車に乗っているんだろう?」
「ああ、なるほど」
兵馬は納得する。確かに面影がある。弟と比べてその相貌は随分と知的な印象だが、しかし目が似ている。
瞳の形状ということではなく、兵馬に対する訝しみを隠さない眼差しが瓜二つなのだ。
(兄弟揃って、どうにも得意じゃないな)
そんな内心を口には出さず、リアクションは大道芸人らしく少し大仰に。驚きながら首を傾げてみせる。
「ビックリですね。弟さんと会いにここへ?」
「いや、偶然だよ。会う理由もない」
兵馬の問いにクロードは首を左右に振る。言い方が随分と素っ気ないが、仲が悪いのだろうか?
疑問を抱くが、面倒なのでそれ以上は突っ込まない。リュイスと自分が友人というわけでもないし、他人の家庭事情に首を突っ込むほど面倒なこともない。
そんな思考の間にも、変わらずクロードは値踏むような視線を向けてくる。
その視線に兵馬は居心地の悪さを感じるが……クロードはくるりと踵を返し、背を向けた。
「それじゃあ、失礼するよ。またどこかで」
そう告げ、列車とは逆の方向へ立ち去っていった。
生ぬるい春風にロングコートを靡かせ、その背は不穏の影を背負っている。どうにも所作に含みのある人物だ。
ともかく、国軍騎士の身内であれば、少なくともシャングリラの人間という事はないだろう。まあ、去った人を気にしても仕方がない。
兵馬は濡れた手を拭い、トイレから立ち去ろうと……
振り向く。
クロードが出てきた個室の床、赤い血溜まりが染み出している。
歩み寄り、戸を開けてみれば、そこには胸部を鋭利に切り裂かれた死体が一つ。
兵馬は静かに息を飲んでいる。
トイレの外、ホームのベンチで腰掛けているルカへと目を向けた。夕時の冷え込みに温かな缶コーヒーを飲んでいて、こちらを気にしている様子はない。
彼に報告するか? いや、面倒だ
列車が出るまではまだ数分ある。兵馬は死体のポケットを軽く探り、それが何者であるかを探ろうとする。
「……何もなし、か」
血を流す男性は中年、色黒の細身。
財布などの所持物はなく、彼が何者なのかは見当のつけようもない。クロードが持ち去ったのかもしれない。
そこでふと、掌を上にした手首へ兵馬の視線が向く。
小さな印が彫られている。その紋様には見覚えがある。
「確か、シャングリラの教団章だ」
どういう事だろうか?
兵馬は考える。クロードと名乗る男性、自称リュイスの兄は何故シャングリラの教団員を殺したのか。
教団に関わりのある人間なのか? そもそも、本当にリュイスの兄だったのか?
思考を深め……だが、すぐに身を翻す。列車へと向かって歩き始める。
兵馬の瞳は人前では見せない冷たい光を宿していて、ぽつりと小さく呟きを。
「思惑があるなら、泳がせようか」
----------
兵馬がトイレへ、ルカが監視に去った列車内。
ドアの開閉で外気が流れ込んだせいか、眠っていた面々がぽつぽつと目覚めていた。
詩乃は寝起き眼をこすりながら、手錠を見つめて不機嫌にため息。ゴツゴツと冷たい鉄輪の感覚に楽しい気持ちでいられる人間もそうそういないだろう。
リュイスも目を覚ました。「うおお」とも「ぐうう」ともつかない声で伸びを一つ。
プリムラとアイネは未だ安眠中。すやすやと寝息を立てていて、リュイスはふと思い付きに詩乃へ声を掛ける。
「なあ、質問があるんだけどよ」
「答えるの面倒」
リュイスへと一瞥もくれず、詩乃は頬杖を付いて夕日を眺めている。
まだ何も聞いていないのに。
(なんだ? 嫌われてんのか?)
リュイスは微妙な気分になる……が、詩乃は基本的にこんなもの。コミュニケーションが不得手な子なのだ。
しかしデリカシーのない男だ。構わず、リュイスは気になっていた事を問う。
「兵馬。あいつ、布から武器を出すアレあるだろ?」
窓の外へと目を向けたままに、そっけない様子だった詩乃。
しかし、その質問には尋ねるだけの妥当性を感じたのか、リュイスへと首を横向ける。
「ヘタクソなジャグリングばっかりやってるけど、あの手品をやった方がよっぽど珍しいんじゃねえの」
「それ、私も聞いたけど」
半笑い。
「あれは手品じゃないから、プライドが許さないんだって」
長い睫毛が揺れる。その表情にはほんのりとコケにしたような色。
巨人ピスカから守られたことで、詩乃は兵馬をほんの少しだけ信頼し始めている。いるが、大道芸人としての技量についてはあからさまに疑問視している。
それはともかく、リュイスは首を傾げる。
手品じゃない? 手品じゃないのか。
言われてみれば、何もない場所から剣に槍に銃にと取り出してみせるだなんて、種や仕掛けがあるとしても奇妙な技だ。
それなら魔術なのかね? と考えるが、その方面の知識に疎い。
ふむとばかり口元に手を当てて三秒、唸りながら思考を走らせ。
(ま、どうでもいいな)
考えるのをやめた。
元よりあまり熟慮を重ねるタイプではない。魔術に関しては、後からアイネにでも聞けばいいだろう。
そもそもふと気になっただけで、深く掘り下げるほど気になっているわけでもない。
……と、詩乃のそばの窓がコンコンと叩かれる。
その声に窓へと目を向ければ、車窓の側に見知らぬ女性が立っている。
ユーライヤには珍しい格好だ。黒基調の着物を動きやすくアレンジした衣服で、セミロングの毛先はゆるく波がかっている。
何の用かと訝しむが、よく見れば体の前に立ち売り箱を提げている。どうやら駅弁売りらしい。
「お弁当はいかがかしら?」
窓を開けた詩乃へ、目元を笑ませて問う女性。
物腰や表情の落ち着きは妙齢の女性のそれを思わせるのだが、よく見れば歳は若い。
肌や髪の質感、声の響きなどは詩乃より少しだけ上ぐらい。成人している否かの境ほどだろうか。
「駅弁」
うーんと唸り、詩乃は悩む。
寝通しだったせいで空腹な気もする。値段も手頃。
けれど、元々自分とプリムラで旅費がそこそこ掛かっていたところに兵馬が増えて、護衛を名目に旅費を掠められている。節約もしないといけないのだが。
「ふふ、買ってくれたら安くするわよ?」
考え込む詩乃へ、弁当売りの少女はそう提案する。
だが、上手い話には警戒が先立つのが詩乃だ。
「元から安いみたいだけど、値下げして大丈夫なの?」
「あらあら、心配してくれるのかしら?」
くすくすと艶笑。閑散とした駅を見渡し、片手を上に向け、少女はお手上げのジェスチャーを示す。
「ご覧の通り、活気のない駅でしょう? 全部売れ残りなのよ」
「在庫処分ってこと?」
「そ。だから助けると思って、ね?」
むむ、と悩む詩乃。その袖がクイクイと引かれ、振り向けばプリムラ。
パートナーの護衛人形はいつの間にか目覚めていたようで、太眉をしかめて寝ぼけ眼を擦っている。
「ねえ詩乃、お腹減ったし何か買おうよ」
「……食い意地張ってるよね、人形のくせに」
プリムラの強い押しもあり、詩乃はサンドイッチの包みを購入する。
「うふふ、毎度どうも。二つでいいかしら?」
「……三つで」
兵馬の分も購入。一応、旅の護衛と認めた証だ。
もったいないという気持ちは拭えないが……まあ、値引き額とでトントンか。
よほど空腹だったのか、プリムラはサンドイッチを受け取るや否や包みを開く。
ライ麦のパンにスモークサーモンやクリームチーズ、アボカドにオリーブとふんだんに具が詰め込まれている。
華やかな見栄えに目を輝かせ、ガブリと噛みついて、「おいしい!」と一声!
「これ美味しい!」
二回言うほど美味しかったのだろう。プリムラからの言葉に「あらあら、ありがとう」と相槌を返し、女性は詩乃へと何かを手渡してきた。
「これをあげるわね、可愛い旅人さん」
「……?」
それは小さな御守りだった。表面の文字を見るに、旅人の安全を祈る物らしい。
危険の多い道中、もらって悪い気のする物ではない。鞄に御守りを結び、詩乃は弁当売りの少女へと口を開く。
「これ、ありがとう。私は佐倉詩乃。お姉さんは?」
「神崎アンナ。杏那と書いて“あんな”よ」
少女はゆるやかな笑顔で名乗り、しなやかな髪を夕風に靡かせる。
「機会があれば、また会いましょ。ふふ」
そう告げ、神崎は手をひらり。ゆっくりと去っていく。
どことなく気になるその背を見送っていると、ちょうど兵馬が席へと戻ってきた。ルカも同時に席へと戻り、無事に補給を終えた列車が駅を離れていく。
列車が離れ、駅には発車ベルの余韻だけが残される。
夕日が落とす影の中、弁当売り……神崎は緩やかに笑む。
懐から小さな機器を取り出す。画面上には地図と、移動する光点。
「さて……発信機は仕込めたわね」
楽しげに呟き、彼女の歩む先には人影。茶味がかったロングコート、含みのある冷笑を浮かべているのはクロードだ。
神崎とクロードは肩を並べる。仲間だろうか? しかし、互いの瞳に信頼の色は見られない。
時刻は夜陰へ。暮れなずみ、赤黒く染まる空の中、二人は何処かへと姿を消した。




