52話 聖女と過ち
「ライラ様?」
「え、ちょ、え、どうして、」
動揺をまるで隠すことのできないライラはソファに座りなおそうとして、そのままカーペットへ滑り落ちた。
「ライラ様!? どうしたんですか急に」
「急にも何も君が……、いや君の発言のせいだが、何から何まで悪いのはライラだ」
おろおろと駆け寄ろうとしたところをグラナダに制止された。よくよく見ればラウレルも訳知り顔で、二人して呆れているように見えた。
「ライラ、君が悪い。どう考えても君が悪い。君が意地悪でその呼び方をしていたとしても、今回の彼女と出会って協力関係になった時点で、君はその態度を改めるべきだった」
「ぐうの音も出ないド正論……ちょっと首括るから」
「括るのは腹にしようか」
酷く狼狽える彼女をハラハラと見るが、そのきっかけが自分なのは明白だった。
いつもの飄々とした様子はどこへやら、今の彼女は百戦錬磨の聖女にも見えない。ただ不安と罰の悪さに震え私の顔色をうかがう少女に見えた。
「いったん確認していい? ……ラズベリーパイって、なんで呼ばれてたか、わかったの?」
「ええ、塔から落ちたわたくしの姿のことですよね」
塔から落とされて潰れた姿。それはきっと床に落ちたラズベリーパイとよく似ていることだろう。
ライラは余計顔色を悪くして唇を戦慄かせた。
「実は先日、わたくしが幽閉されていた塔に行ってきたんです。初めてライラ様に会うために、王都へ来た時からずっと気になっていて。それでじっくり、あの塔を見ていて気付いたんです。ライラ様が初めて会った時からわたくしのことをラズベリーパイと呼ぶのが不思議でしたが、ようやく意味が解りました」
「さすがに最低すぎるだろ」
少しの忖度もなくグラナダが吐き捨てる。彼自身、顔色が悪かった。
「ですがわたくしがライラ様から恨まれるのは当然のこと。死にざまを揶揄されるのも致し方のないことだと思います」
ライラは頭をたれながらゆっくりと深呼吸を繰り返した。そしてようやく顔をあげる。
「……ピナ、言い訳をさせてもらっても? 確かに、確かに今のあなたに会うまで、私はあなたのことを嫌っていたわ。恨んでいた、とは言わない。でも好きではなかった。……まだ見ぬあなたのことを嫌って、同時に恐れていた。その呼び方が蔑称、侮蔑であることは理解して、そう呼んでたわ」
当然のことだ。
何度も何度も自分に毒を盛り、王太子に毒を盛り、周囲の人実験台とするような人間は、侮蔑され当然だ。けれど真正面からそう改めて告げられることは、なかなかにくるものがあった。
「……でも初めて会ったあなたは、私の知ってるあなたとは全然違った。死ぬはずの伯父のことを本気で助けたいと思っていて、未来を、心から変えたいと思ってた。話せば話すほど、まともで、普通で、臆病なただの女の子だった。ラズベリーパイと呼んでいたけど、あなたと会ってから、侮蔑を込めてそう呼んだことはないわ」
「ライラ様……」
「ただただ呼んでたら、あなたのことラズベリーパイみたいに可愛くて、食べちゃいたいと思うようになって、可愛がる意味でそう呼んでたの。……本当に嘘じゃないわ! だからつい、そのままそう呼び続けてしまって」
少しずつ早口になっていくライラは普段の余裕綽々という雰囲気はまるでなく、ただ焦り倒しているように見える。菫色の瞳は落ち着きなく泳ぎ、やり場のない両手は大げさでどこか的外れなジェスチャーを繰り出す。そうしてはたと、動きを止めた。
「……本当にごめんなさい。あなたに会うまで、そこに悪意はあったわ。でもあなたに会ってからはただ可愛くて、愛称のつもりで呼んでた。だとしても、そう呼んだ最初の理由が最低すぎた。ごめんなさい」
彼女は躊躇なく頭を深々と下げた。あまりにもその動きが滑らかであったために止める間も得られなかった。
「ま、待ってください、そんな頭を下げるなんて!」
「ライラが演技でもなくこうも素直に謝るなんてことなかなかないよ。旋毛でも連打すると良い」
「そんなことしませんよ!」
深々と下げられた頭を無理に上げさせると菫色の瞳からは涙が溢れそうになっていて、顔は泣き出す寸前の赤子のように真っ赤になっていた。
「アー、いったん落ち着く時間にしよう。グラナダはピナと外へ。しばらくしたら戻ってきてくれ」
「わかった。行こう、ピナ。気にするな」
グラナダはラウレルの言葉の通り、私を連れて外へ出ようとして、ノブにかけた手を止めた。
「ライラ、前から気になっていた。なんで君が侮蔑の意味を込めてピナのことをラズベリーパイと呼ぶのかと」
「……それはピナが塔から落とされて、」
「そうじゃない。君は一度だってピナの遺体を見ていないだろう」
細く震えるような呼吸、ライラの呼吸が一瞬止まった。
「なのになぜ、“ラズベリーパイ”なんて表現が出てくるんだ」
グラナダの話し方は決してライラを責めているようなものではなく、純然たる疑問であるようだった。
私は、私の姿がどうであったか知らない。あくまでも想像でしかないが、ライラもラウレルも、私の死体を確認したことがないだろう。
初めて二人と話をしたとき、ループが発生する状況について聞いた。
“誰かがピナ・フレッサの死を認識し、騒ぎが広がるとともにループする”。
私が塔から突き落とされた時、二人は塔から離れた場所で結婚式をしていたはずだ。ならきっと二人は直接私を見ていない。私の死体を見た、死亡の事実が人から人へと伝わり、二人の耳届くころ、世界は巻き戻る。
ライラはラズベリーパイのように潰れた私の遺体を見ていない。
確かに、なぜラズベリーパイなどと比喩したのか、とライラを見て、息を飲んだ。
そこにいるのはライラだ。つい先ほどまで泣きそうになりながら私に謝罪をしていた、聖女なんて偉大な者ではなく、年相応な少女にすら見えた彼女だ。未だ涙の膜は、その菫色の瞳を薄く覆っている。
けれど今、その瞳には明確な“怒り”があった。
何に怒っているのか、誰に怒っているのかわからない。けれどそれは戸惑い紛れの苛立ちや羞恥から来る激情ではなく、研ぎ澄まされた明確な怒りだった。
「それは、話せないわ」
「……話せない。話したくないではなく?」
「今じゃない。全部が終わったら。ループも何もかも終わって、新しく未来を生きられるようになって解放されたら、話す。その日までもし、理由が気になり続けるなら」
グラナダはそれ以上追求しなかった。いや、おそらく追及できなかった。
その場の誰も、ライラに言葉を重ねさせることはなかった。
胡散臭い芝居がかった様子でも、最近よく見せるようになったどこか幼い子供のような様子でも、老練し達観した聖女らしい様子でもない。
静かに怒りを煮詰めたような、そんな顔に見えた。
それこそ、まるで別人のように。
「あのお二人を残してきてよかったんでしょうか……」
グラナダに連れられ、校舎裏のベンチへと腰かける。ここはあたりから見えない場所というわけではないが、比較的人通りの少ない場所の一つで面倒ごとから避難するときなどに度々使っている。
「まあ大丈夫だろう。なんだかんだ、ライラと付き合いが一番長いのも殿下だ。うまくいなすさ。子どもでもないんだ、すぐに折り合いをつけるだろう。少なくとも、君が気に病むようなことじゃない。興味本位で余計なことを言った俺が悪かった」
悪かった、と口にしたが彼に悪びれる様子は見られなかった。むしろ二人きりになって気が付いた。今は彼自身も怒っている。
「……グラナダさん、何に怒ってるんですか?」
「悪い、分かりやすかったか。君に苛立っているわけじゃない」
「じゃあライラ様に?」
グラナダはどこか罰が悪そうに口を尖らせた。これは不機嫌であったりするわけではなく、気まずいときにする顔だ。途端に顔付きが幼く見える。
その表情から私の指摘が的を射ていたことは分かったのだが、なぜグラナダがライラに怒っているのかはわからなかった。ライラはグラナダの言葉に怒って、グラナダはライラに対し怒っている。だがその中にグラナダが腹を立てる理由は見当たらないような気がしてならなかった。
「アー……その、大人げなかったっていう自覚はある。でもライラのあのことは許容できなかった」
「あの事とは?」
「……君のことを、“ラズベリーパイ”と呼ぶことだ」
酷く苦い顔で、その言葉すら口にすることを厭うように吐き捨てた。
なぜあなたが、と無神経に口から零れ落ちそうになった疑問は寸でのところで飲み込んだ。
「……あなたは私の姿を見たからですね」
先ほどまで怒りで血色の良かったその顔は、今ではすっかり青ざめていた。




