38話 薬師と奇跡
「この世には全く、不思議なことがありまして」
穏やかな日の降り注ぐ昼下り、屋敷の裏手に作られた小屋で、湯を沸かす。
「つい数分前まで死の淵を彷徨っていた人のことを、神に祈るとたちどころに全快するようなこともあれば、傷ついた兵士たちを一斉に治してみせることもあるそうです。神とは、神意とは本当に不思議なものです」
沸かした湯の中へ刻んだ樹皮と少量の砂糖を入れて煮込む。しばらくかき混ぜていると湯は少しとろみを帯びてきた。
「不思議なことついでですが、予言者という方もいるそうです。なんでも未来を視ることができるとか。そして先日小耳に挟んだのですが、数年後、この国ではとある熱病が大流行するという予言を齎したそうです」
オレンジとレモンのスライスを入れ数分、鍋を火からおろして布で濾しながらポットへと注ぐ。湯気に乗って甘酸っぱい香りが鼻に抜けた。ミントの葉を数枚ポットの中へと散らす。
「ですが特効薬が作られます。その特効薬の材料がこのルビアシアの木。しかしルビアシアの木が生えている場所は国内にほとんどありませんでした。ですがなんとフレッサ領の森の中にはルビアシアの林があったのです。ルビアシアから作られるその特効薬のおかげで、王国は救われたのでした」
ポットから熱の冷めきらないそれをグラスに注ぐ。グラスの中でミントの葉がくるくると踊っていた。
グラスから視線をあげると、アルフレッドはどこか呆然とした表情で私を見ていた。
「……どうかいたしましたか?」
「どうしたもこうしたも……それで、これがその特効薬ってことか?」
「半分あたりで半分はずれです。こちらは予防薬。発症前に飲んでおくものだそうです」
アルフレッドは深々とため息を吐いた。そのため息の正体がわからず、ただ黙って彼の次の言葉を待った。
「……祈りに、奇跡に、挙句に予言か……アガヴェーってのは随分と万能らしい。それを、お前は信じていると」
「一度は奇跡に縋った身ですので。神を、というより聖女様の仰ることを信じています。……人智を超えた何かがあるのは、確かなのでしょう」
「その予言の未来のために、森にあるルビアシアの木を聖女様に提供したいってことか」
「ええ、森の植生が乱れない程度で良いのです。その挿し木をルビアシアの生育環境に近い地域で栽培し、増やせば、多くの人が救われます」
アルフレッドは酷く苦々しい顔をしていた。けれどそれは想定の範囲内ではある。
彼は元々、信心深いとは言い難い。祖霊信仰や自然信仰はあるが、現世利益的なアガヴェー教には懐疑的だ。それでも一笑に付さないのはほんの少し前、確かに自身がその“奇跡”の恩恵を受けたからに他ならない。
けれど今回は無償の祈りではない。
「来るかわからない未来のために、外部の人間にフレッサの森のものを渡すのか」
赤紫の目はどこまでも懐疑的だ。
アルフレッドは、自分の役割とは先祖代々受け継いできたフレッサの森を守ることだと思っている。そんな彼は森を切り売りするような方法を好まない。それこそ、薬草の提供等は行っているが、基本的には森の外でも生育可能な一般的なものである。広大な土地を持っているがゆえに多く栽培ができるというアドバンテージはあるもののそれに希少性は伴わない。だがルビアシアとなると話は別だ。生育環境が限られるルビアシアの木。それが外部へ流出する、それも量産を目的に。アルフレッドにとっては許しがたいものかもしれなかった。
「ルビアシアには確かに、熱を下げる効能がある。だが同じ効能を持つ薬草は他にも多くある。……敢えてルビアシアでなくとも」
「他では駄目でした。ルビアシアでないと」
「それに引っかかることもある。……その特効薬を作ったのはフレッサだな?」
それは尋ねるというよりも確信があるような声色だった。
「むしろうちしかありえない。たった数年の間で今の状態からルビアシアで試験ができるほど試料を用意できる者がいるとは思えない」
ぐ、と押し黙る。まさしくその通りだった。ルビアシアが特効薬になると気づけるのはフレッサの森に出入りする者だけだ。そしてそこまで気が付いていれば当然、利権の話になる。
「数年後、フレッサが開発するはずの薬を、神が盗み見て、先に作ろうとしている。本来ならフレッサにとってそれは大きな事業利益になるはずだ。ルビアシアを確保している以上、その特効薬はうちの専売特許、完全な市場占有すらできる。……それをわかっているか?」
「わかっています。私も、聖女様もわかったうえで、相談しています」
かつての私はそれをよくわかっていた。口を開いた。
サンクダリアの特効薬、サンクフォールを売り出し、調合方法も公開し、名声を手にした。そしてそのうえで、原材料となるルビアシアを専有することで莫大な利益を得た。需要が供給を上回った際にはサンクフォールの代わりにルビアシアの樹皮を教会や医局に売った。あくまでもルビアシアそのものを外に出さないように。
それを外に出すということは未来得られるはずの莫大な利益のほとんどを失うということだ。多くのルビアシアを所有しているとはいえ、教会で既に栽培しており、そこから供給ができる場合当然薬価は吊り上げられない。調合方法にしてもそうだ。教会が先にそれを見つけたというのであればフレッサで専売することは叶わない。しかも薬の開発者はフレッサではなく教会となる。
名声も利益も、予言という非科学的なものに搔っ攫われることとなるのだ。
アルフレッドはしばらく無言でグラスの中身を眺めるとどこか不満げに、しかし強硬な姿勢を見せるでもなく口を開いた。
「これは俺の勘だが、ルビアシアでできた特効薬を作ったのはピナ、お前だな?」
「……なぜ、そう思うのです?」
「普通に考えれば俺が作ったというのが自然だ。知識もあれば経験もある。だがもし俺が作ったものならお前の態度はたぶん違う。もっと申し訳なさそうにするなり頼み込んできたりするだろう。だがお前はあくまでも毅然としているし、気にしているのは“ルビアシアを領外に出す”っていう一点だけだ」
す、とアルフレッドは目を細めて私を見た。その途端私は消えてなくなってしまいたいと思った。すべてを見透かされている。今の私ではない私がしてきたことを、薬剤の作り方を知っているアルフレッドが気づかないはずがない。知識もない、経験もない、そんな小娘がどうやって特効薬作ったかなど。積み重ねてきた罪も、愚かさも、傲慢さもすべてを開示させられている気分だった。
「……これは、神様のズルです。被験者もなく、観察もなく、薬が作れます。都合の良いお伽噺のように。……誰が経験などないはずの小娘の作った薬を信用しましょう。誰がその薬効を信じましょう。ですが神が作ったと、天啓を得たと言えばそれだけで圧倒的な力を得ます。誰も、犠牲にならずに」
治験による犠牲者を出さない方法は他にもある。最初は頼って来た領民だけに処方すれば良い。それで回復すれば他の領民たちが求めだす。そしてそれはいずれフレッサ領だけにとどまらなくなり、今まで同様に、フレッサは利益を得ながら領外にも薬剤や製造方法を広めることができる。だがこの場合、信用されるに値する患者数が揃うまでに、国内の死者は増え続ける。信用を得るまでに、どれほどの患者がそのまま死亡するだろう。
私もライラも、無意味な犠牲者を望まなかった。
「……その流行り病で、どれだけの人間が死ぬ?」
「セミーリャ王国民の5%。子どもや妊婦、老人など、抵抗力の弱い者を中心に」
「それはまた……」
アルフレッドは深く深くため息をついて、頭を抱えた。
かつての私が好き勝手出来たのは森番たるアルフレッドがいなかったからだ。森に私が入ることはなかったが私兵や使用人に材料を取りに行かせていた。その際の対応などは一切指示を出していなかったため、おそらく森も傷んでいたことだろう。適切に管理せず、資源を無計画に漁っていた以上、あのやり方も長くは持たなかった。私が死ぬ方が早かったがゆえに、その行く末を知らないだけで。
森に精通したアルフレッドがいれば、そういったやり方は避けられる。必要な時に必要な分を、挿し木の方法に育て方のノウハウ、彼がいればずっと効率的かつ長い目で見た薬の運用も可能になる。
「……お前が得るはずだった名声は神に奪われるが、良いか?」
「私が奪ってしまうはずだった命を、神が救ってくれるのですから」
アルフレッドは黙ってグラスの中身を飲み干して笑った。




