誤解
みつるは翌朝早くに目が覚めた。
一瞬ここがどこなのかはわからなかったが、あたりを見渡してすぐホテルだという事に気が付いた。
「いったーっ」
初めての二日酔いだ。
頭を抱えながらモゾモゾと起き、備え付けの水を飲み、トイレを済ますと、長めのシャワーを浴びた。
その程度で二日酔いは抜けないが、昨日のことを少しづつ思い出していた。
「酔うと記憶がなくなるって本当だったんだな」
お店を出た後の記憶がなかった。
叔父さんに連れてきてもらったのだろうとは思うが、それだけだった。
「昨日は楽しかったな」
いつかは自分のお金で行きたいものだと言いながら部屋に戻るとメモがあった。
『何事も経験だ。支払いは済ませてある。気を付けて帰りなさい』
叔父さんからの伝言に小首をかしげたものの、そのままもう1杯水を飲んだ。
こめかみを押さえたり、首筋を揉んだり、いろいろ試したが頭の痛いのは変わらない。
そして、とりあえず帰るかと腰を上げそうになってハッと気付いた。
昨日何があったのか。自分が何をしたのかに気が付いたのだ。
「まじか!ああーっ!何やってんだ俺―!」
銀座のホステスがグッピーの話に興味を持つはずがない。
話を合わせてくれていただけなのに、調子に乗って語ったのだ。
みつるの持つグッピー愛。
それが本心であろうとも、いや、本心だからこそ話したことが恥ずかしかった。
関心を持つはずのない相手に、得意げに語った自分をぶんなぐってやりたかった。
「穴があったら入りてーっ」
みつるはベッドの倒れこんで悶えた。
「いってーっ」
そんなみつるに二日酔いの頭痛が追い打ちをかけていた。
やがてみつるの動きが止まった。
諦めたのか、力尽きたのか。ともかく帰ろうと起きだし、服を着た。
財布の中身は1万円を切っている。
叔父さんがいたからいいようなものの、何かあったらと思うとぞっとする。
貰ったばかりのカードとルームキーを上着のポケットにしまい部屋を出た。
廊下に敷かれた絨毯がこのホテルの格の高さを表していた。
エレベーターに乗って初めてここが12階であったことに気が付く。
「胃がムカムカする」
起きてすぐにご飯を食べられるみつるも、今日ばかりは食欲がなかった。
エレベーターを出てカウンターを目指す。
早朝なのでホールに人はいなかった。
「チェックアウトです。清算済と聞いたのですが、確認をお願いします」
ルームキーと、念のためカードも添える。
「少々お待ちください」
ホテルマンの制服は目立たない灰色なのに、洗練されたホテルマンが着るとかっこよく見えるから不思議だ。
「お待たせいたしました。こちらがおつりとなります」
使われなかったカードとおつりが返ってきた。
「お世話様でした」
「こちらこそありがとうございました。行ってらっしゃいませ」
ホールを横切るとドアマンが入り口を開けてくれた。
「ありがとうございます」
「行ってらっしゃいませ」
恐縮しながらドアを抜けたみつるは踏み出した足を止めた。
そして、あたりを見渡したあと、のろのろと振り返った。
「あの?」
「はい、何か?」
「ここ、どこですか?」
みつるは根っからの田舎者だった。
☆☆☆☆☆
福井ではありえないほど混みあう電車は二日酔いの天敵だ。
うつむきながらじっと耐え、駅の改札を抜けるとホッとした。
二日酔いは幾分楽になっていたが、通勤の人ごみに逆らいながら、だる重い体を商店街に運ぶのは大変だった。
アーケードは広く長い。その中央付近に店がある。遠いのだ。
店の前で掃除をしている人が多かった。頭を下げて挨拶はするが、顔を知っている人はほとんどいない。
こちらを見てひそひそ話をする人もいる。
ようやく自分の店が見え、誰かが掃除をしていた。
近づくと琴美だった。
「おはよう。あと、掃除、ありがとう」
「……」
振り向いた琴美は無言だった。
「掃除、してくれてたんだね。気が付かなくてごめん」
「……」
琴美はわなわなと震えながらにらんでいた。
「えっと、怒ってる?」
「朝帰りなんて、いい御身分ね」
「え?」
「あんたなんか、死んじゃえ!」
ほうきが投げつけられた。
「あっ、いや、違うから。ほんとに、違うから」
肩を怒らせながら安西甘露堂に向かう琴美は立ち止まりもしなかった。
「誤解、なんだけど」
肩を落としてつぶやくみつるを、掃除の手を止めた商店街の人たちが見ていた。
「おえっ」
店に入ると、今まで気にならなかった匂いに吐きそうになった。
掃除が終わるまで使わないでおこうと思っていた消臭剤を手当たり次第に散布した。
そして、奥の部屋に行ってパソコンを立ち上げた。水槽を見て思い出したのだ。
「何処かにあるはずなんだが」
エンジェルフィッシュだけでもかなりの件数がヒットする。
それを全部見ても無い。
次にはキーワードだ。新種や作出、ロングフィンなどを追加するが出てこない。
「いや、ある。絶対にある」
痛みの残る頭に強制労働させ、思い付く限りのキーワードで検索をかけるが、どうしても見つからなかった。
「今日は、もう、駄目だ」
みつるは敷きっぱなしの布団に服を着たままもぐりこんだ。
☆☆☆☆☆
「かあさん聞いてよ」
「どうしたの?掃除は終わったの?」
琴美は店に戻るなり母親を捕まえた。
「掃除どころじゃないわよ。あの馬鹿、朝帰りよ、朝帰り。もう、信じらんない」
「あらあら、筆おろしをしてあげようと思っていたのに、先を越されちゃったわね」
「何よ、それ?」
「あら?つうじなかった?」
「ろくなことじゃないことくらい分かるわよ」
「そお?まあ、冗談だから」
「うーっ」
かあさんが分かってくれないと、琴美がうなりだした。
「でもね。初めての時は経験豊富な相手の方がいいのよ」
「は、はあ?」
「キスくらいまではいいのよね。そこまでは紳士なのよ。でも、その先になるともう大変」
「かあさん?今、朝だから、朝だからね」
「そんなことわかっているわよ。でもね。服なんて脱がしやすそうにしてあげないと破かれそうになるし、むしゃぶりついてくるわ、準備もまだなのにいきなりよ。避妊なんて全然。しかたないから、ゴムをつけてあげようとしたら、指が触れただけでドピューって顔にかけるんだから。もう、まいっちゃった」
「いい。もういい。聞きたくない!」
「他の女の子で練習していると思えばいいのよ」
「言いつけてやる。お父さんに言いつけてやるから!」
仏壇に言いつけても効果はないが、せめてもの仕返しだ。
「あら?お父さんの話よ。娘にだけは知られたくないと思うけどな」
「だったら、だったら、しゃべるなー!」
琴美の苦悩は母には理解されなかった。
☆☆☆☆☆
「なんなのよ、もうーっ」
「あっ、お嬢さん。あの和菓子、羽二重餅はすごいですよ」
「えっ?そうなの?」
母が駄目ならと、常識人の新見卓三を求めて裏にやって来たのだが、先手を取られた。
「はい。羽二重とは絹織物の最高品質の事なんですが、まさにその名にふさわしい風合いを持っております。そして何より柔らかい。ここまで柔らかくすると包装にくっつくのですがそれがありません。硬い膜で包んでいるわけでもないのに、です。まさに絶妙という言葉がこれほどふさわしい和菓子はありませんね」
「そうなんだ」
琴美も1つ食べてはいたが、おいしいとしか感じなかった。
「再現は出来ないってこと?」
「出来ること出来ますよ。ただ、量産は難しい。お金と時間が必要です」
「そうなんだ」
「でも、目的はこれを作る事ではないでしょう?新作を作るうえで、このバリエーションは参考になりますよ」
「ほんと?」
「はい。例えばイチゴ1つをとってみても、酸味と甘みのバランスは無数にあります。なぜこのバランスがいいと思ったのかと考えるだけでも勉強になりますよ」
「なるほどね。じゃ、夏の新作には間に合いそうね」
「それは、こいつらの頑張りしだいですね」
卓三が振り返ると、手を止めていた職人たちと目が合う。
「みんな。頑張ってね」
「「「「はい!」」」」
琴美の言葉に、動かし始めた手が再び止まった。
若い彼らにとって琴美はまさしく天使。琴美教の信者といってもいいくらいだった。
「私だって、負けないんだから」
張り切って出てゆく琴美をみんなが見送っていた。




