開店準備完了
セールの朝、まだ暗い時間だというのに、みつるの家に琴美が来ていた
「みつる、朝よ、起きなさい」
「うん?琴美?ああ、夢か」
薄目を開けたみつるが再び瞼を閉じた。
「夢じゃない!起きろマヌケ!」
「え?あれ?」
頭をはたかれて目を開けたものの、不思議そうに琴美を見た。
「とっとと起きろ!」
「あ、うん。えっと、なんで琴美がいるんだ?」
叩かれた頭をさすりながらみつるが上半身をおこした。
「裏口が開いてた。鍵がかかってなかったの」
「鍵なんてあったんだ」
「あるに決まってるでしょう。もう、しっかりしなさいよね」
「あ、ああ。今、起きた」
あくびをしながら伸びをするのがみつるの日常だ。
琴美が席を立った。
「おにぎりを持ってきたから食べなさい。今、お茶を沸かしてあげるから」
「あっ、あっちの水を使って」
みつるも立ち上がり、やかんを持って水槽のエリアに入った。
「この水で沸かすと、お茶がうまいんだ」
そう言いながらコックをひねるが、それは巨大水槽のサブタンクに入れる水だった。
「水槽の水を飲むの?」
「いや、まだ入ってないというか、キッチンと同じ水だぜ。あの浄水器を通すとうまいんだ」
「……」
琴美にしてみれば、キッチンの水もトイレの水も一緒だと聞こえるのだ。
「東京の水は塩素がきつすぎるからな。まあ、飲めばわかるって」
みつるはそんな琴美の気持ちを無視してやかんをキッチンに持っていき火にかけた。
「あのさ。さっきから気になっていたんだけど、その服何?」
「はっぴよ。知らないの?」
「いや、知ってるけどさ。それって祭りの時に着るやつだよね?東京では違うの?」
「セールってのは祭りみたいなものなの。東京ではそうするの」
「あ、はい」
聞いただけなのに怒られた。
「似合わないかな?」
「似合っている。すごく似合っている。男前だよ」
「褒められている気がしないんですけど」
「えっと、かっこいいって言いたいんだ。かわいくてかっこいい」
「ほんとかな?」
「ほんとほんと。胸のサラシもさ、普通ならHなのにセクシーって感じだし、すっごくいい」
「どっちもスケベなだけじゃない」
「違うんだけどな」
みつるの気持ちは琴美には伝わらなかった。
「あれ?まだ暗くね?」
話題を変えなくてはと、キッチンを離れて和室に戻る途中に気が付いた。外は既に明るいものの、日はまだ上っていない時間だった。
「今日は商会長はじめ役員が手伝いに来てくれるの」
「へー、そうなんだ。おっ、このおにぎり、うまい」
みつるはおにぎりをほめる作戦に出ていて、琴美の言葉の意味に気が付かなかった。
「あ、の、ね」
案の定、琴美が怒りだした。
「みんな店があるのに来てくれるの。日曜なのによ。分かってる?」
「あ、ああ。そうだな。ごめん」
ほめたのに怒られたみつるは驚くばかりだ。
「もう。彼らが来てからでは遅いの。来る前から行動してないといけないの。会長ってそのあたり面倒くさいの。分かった?」
「はい。ああ、そういえば、総会の時そう思った」
「でしょう。分かったらサッサと食べる」
「はい」
もう食べるしかないと頑張った。そのせいか、お湯が沸いたのはおにぎりを食べた後だった。
だが、せっかくだしとお茶を入れた。
「どうよ?」
「あっ。おいしい、かも」
「かもかよ」
「ううん。おいしい。驚くほどおいしい。なんで?」
「何でって、そりゃ浄水器のおかげだろう?」
「うちも使ってるよ浄水器。でも、全然違う」
琴美はもう一口お茶を含み、味わうように飲み干した。
「浄水器の違い、だよね?」
「たぶんな。業務用だろうし」
「ねえ?」
「うん?」
「この水で夏の新作和菓子作ったらおいしくなるんじゃない?」
「おお、それいいかも。試す価値ありだな」
「うん」
琴美の機嫌が直った。
☆☆☆☆☆
「私は店先を掃除してくるから、はっぴに着替えるのよ」
「おう」
「白足袋も。それと、念のために言っておくけど、男のサラシは胴だけだから。胸まで巻いたらキモいからね」
「お、おう」
琴美はジト目を向けてから玄関に向かった。知らないと思ったらしい。
正解だ。言われれば納得だが、知らなければ胸まで巻いていたかもしれない。危ないところだった。
☆☆☆☆☆
「朝早くから頑張っているね。お手伝いに来たよ」
「会長、みなさんも、ありがとうございます。1人で頑張るつもりでしたが心強いです」
水槽を外に出していると商会長を先頭に5人の役員たちがやって来た。
「店があるから1日いるのは私だけだが、準備は5人で手伝うからね」
「はい。ありがとうございます」
5人とも上着だけだがハッピを着ていた。
「外に出す水槽はどのくらいあるんだい?」
「あ、こちらです」
役員の一人が聞いてきたので、みんなを店の中に案内した。
「これだけです」
「白い布とかあるかな?」
「いえ。たぶん、無いです」
「じゃ、取ってくるから待ってて」
「は、はい」
その人は走って出て行った。
「極太のマジックはあるかな?」
「いえ。たぶん、無いです」
「じゃ。取ってくるから待ってて」
「は、はい」
その人も出て行った。
「えっと、どういうことですか?」
みつるは商会長に聞いた。
「この水槽はいくらで売るんだい?」
「タダです。中古だし、私は使わないので」
「なるほど。捨ててもいい物だから直置きというわけだね」
「はい」
「では、敷布を置いたらどうなると思うかね?」
「えっと?分かりません」
「うん。たとえタダでも、布を敷く価値のある物をもらうほうがうれしいだろ?」
「なるほど」
「それとマジックは価格を書くためだ。パソコンで書かれた数字は綺麗だがそれだけだ。店で太く書かれた文字を見たことないかい?」
「ああ。あの角ゴシックの数字ですか?」
「そうだ。正確にはポップ文字といってね。売り上げが3割違うと言われているんだよ」
「そうなんですか。知りませんでした」
「それと、値段の入っていない商品がかなりあるようだけど?」
「これもタダにしようと思ってます」
「うーん。100円でもいいから、値段を付けたほうがいいね」
「でも、1年以上前の物で商品価値は無いと思うんですけど?」
「なるほど。そうだな。お店のお惣菜が夕方に50円引きのシールが貼られているのを見たことがあるなかな?」
「はい。マーケットで見たことがあります」
「うん。売れなければ廃棄するだけだけどタダにはしないんだ。タダだと持てるだけ持って帰り、食べきれなくて捨てるからね。値引きを最小にするのは店の利益を守るためだけど、タダにしないのはお客の為なんだ」
「なるほど」
「水槽は大きいから気にしなくていいが、小さいものは5個100円でもいいから値段を付けたほうがいいんだよ」
「はい。そうします」
「うん。それと、このハッピの意味は分かるかい?」
「気合を入れるため、とか?」
「それもあるね。だけど、本当はお客が質問をしたい時に店の人が分かるようにするためなんだよ」
「なるほど」
「セールだと人が多いからね。それと、私たちのハッピが上着だけなのは、店主と助っ人を区別するためだ。だから琴美ちゃんには感謝しないといけないよ」
「はあ。感謝はしていますけど」
「分かってないね。彼女は全身ハッピだ。つまり、手伝いではなく、店の人として働いてくれるという事だ。今もほら」
会長の視線の先に目をやると、お盆に人数分のお茶を乗せた琴美がやってきていた。
「皆さん、お疲れ様です。まずはお茶をお召し上がりください」
「ありがとうございます。皆さんいただきましょう」
全員分、みつるの分もあった。
「このお茶、おいしいぞ」
「ほんとだ。うちのやつが入れたよりうまい」
「驚きましたね。極上茶葉でもつかったのですか?」
「いいえ。ここには安物しかありません」
それとなく馬鹿にされた?
「ならばたいしたものです。いつでもお嫁に行けますね」
「そ、それはちょっと。へへっ」
琴美が照れた。これは浄水器のことは話せない。うん。絶対だ。
「実は。ここにはすごい浄水器があって、それで入れたんです」
「そうなんですか?でも、言わなければ分からなかったですよ」
「それは、私の実力じゃないので」
「なるほど」
さすがだ。琴美はやっぱり男前だった。
出て行った二人が戻り、同じ会話をして笑った後で作業開始だ。
水槽は瞬く間に店の前に並び、ポップ文字が店内を華やかに彩った。
そして、第1号のお客が来た。




