交易5
ミルジアから帰ってきた。今日はもう夜遅いから、酒の納品は明日だ。
今のうちに、さっそく炭酸水の生成実験に入る。俺が普通に呼吸できているということは、大気の組成は地球と大差ないはずだ。空気中には二酸化炭素が含まれる。その二酸化炭素を集め、水に溶かせば完成だ。
水が波々入ったカップを両手で抱え、うーんと唸る……。
「何かのおまじないですか?」
俺の仕草がよほど不審だったのか、ルナが不思議そうに訊ねてきた。
「炭酸水を作ろうと思ってな。泡が出る水だよ」
「泡が? 石鹸ですか?」
俺の説明が悪かったのだろう。ルナはまだ不思議そうな顔を浮かべている。
「いや、ちゃんと飲める水だ。リーズとクレアが実物を見ているから、訊いてみるといいよ」
俺の感覚で説明すると、学校で習った知識を使ってしまうだろう。となると、説明にものすごく時間がかかりそう。なので、現物の説明はクレアに任せてしまったほうがいい。
「あ、魔法の水ね。作るって言ってたけど、本当に作れるの?」
クレアには説明をお願いしたはずなのに、こちらに質問が飛んできた。まあ、答えられる範囲で答えようか。
「結論から言えば、作れる。あの泡の正体は空気だ。厳密には空気の中に含まれる二酸化炭素だがな。うまく集めて水に溶かせばいい」
「そうなの? あの商人さんは魔法って言ってたけど……」
「魔法というより科学だな。方法さえわかれば誰にでも作れる……はず」
例えば重曹とクエン酸を混ぜる、とかね。小学生でもできるかんたんな実験の1つだ。ただし、重曹とクエン酸が結合して塩っぽいものができるから、微妙に塩味がついちゃうけどね。
「誰にでも? っていうかカガクって何?」
しまった、科学の概念が伝わらない。俺は説明できるほど詳しくないしなあ。
「魔法の亜種だと思ってくれ。地球での魔法だ」
実際、科学なんて魔法みたいなものだろう。自分の理解の範疇を超えたら魔法にしか見えない。まあ、今回の場合は科学というより化学のほうかな、たぶん。
「それで……あの、炭酸水というのは……?」
ルナが恐る恐る訊ねた。だよねぇ。誰もその質問に答えてないもん。
炭酸水の説明をクレアに任せ、俺は二酸化炭素集めに集中する。
……集まらない。何がおかしい?
鉱石から金属を抽出することはできた。窒素を集めることにも成功している。原理は同じだ。できるはず。
……一向に集まっている気配がない。二酸化炭素は存在しているはずで……どれくらいだ? あれ? 空気中の二酸化炭素って、何%だっけ?
「あ! これ無理だ!」
空気中の二酸化炭素の濃度は、約0.04%前後。1リットルの空気を集めたとして、そのうちの二酸化炭素はほんの0.4ミリリットル程度しかない。
「どうしました?」
「やっぱりダメだった?」
「いや、材料の二酸化炭素が足りない。かなり時間がかかると思う」
コップ1杯の炭酸水を作るのに、いったい何時間かかることやら。まったく現実的じゃない。ここはアプローチを変える。
「魔道具でどうにかならないかな」
放置するだけで生成できるなら、1日かかっても問題ない。前日にセットしておけば飲める。設置台数を増やせば、量の問題も解決できるだろう。消費魔力はキャパシタでどうにかする。余っているから大丈夫。
「どういう仕組だ? 聞かせてくれ」
リリィさんが会話に飛び込んできた。魔道具と聞いて興味を持ったのだろう。
「空気中の二酸化炭素を集めて、水の中に溶かす。やることはこれだけだ」
そう言って、空気と二酸化炭素の説明をした。大気の組成が地球と同じとは限らないから、ざっとした説明だけだ。まあ、問題なく呼吸ができているということは、少なくとも酸素と二酸化炭素の割合は同じくらいだろう。
「説明を聞いてもよくわからないな」
「そもそも、にさんか……何でしたっけ?」
「二酸化炭素な」
リリィさんとルナは戸惑いを隠せない様子。目に見えないものを説明するって、やっぱり難しいね。
「それは見えないんですよね? どうやって集めたらいいか、まったく見当付きません」
やはりそこが難しいか。目の前にある透明な気体が何かなんて、目で見て判断することなんかできない。見えないのだから、集められたかどうかも調べようがないのだ。サンプルがあればどうにかなるかな。
「例えば、俺たちが吐く息の中にもかなり含まれている」
「え? じゃあ、誰かに息を吹きかけてもらえば集められますね」
うん、それもアリっちゃあアリかな。でも、あまり気が進まない。
「たしかに効率いいと思うけど、それを誰かが飲むんだぞ? 自分が吐いたもの飲まれるのって、気持ち悪くないか?」
「あ……気持ち悪いです。と言うか恥ずかしいです」
ルナはそう言って首を横に振った。呼気から収集する案は却下だ。
木を燃やして二酸化炭素を得るという手段もあるが、薪の消費量を考えると難しい。炭酸水を売るとなると、相当な量の薪が必要になりそうだ。下手したら周辺の森から木がなくなる。
「というわけで、どうにか空気中から集めたい」
「わかりました。頑張ってみます」
難しい注文だとは思うが、頑張ってもらおう。空気を操作する魔道具は、今までにブロアと空気清浄機を完成させている。技術的には不可能ではないはずだ。
しかし、昔の人はどうやって炭酸水を作っていたんだ……? 地球でも結構昔から飲まれていたはずなんだけど。不思議だ。
一番の難関は、やはり二酸化炭素を分離する方法だろうな。かんたんに振り分ける方法があればいいんだけど……あ!
「ドライアイスだ!」
「え? 何ですか?」
「空気の温度を目一杯下げたとき、二酸化炭素が最初に固体になる。他にも条件はあるが、これで二酸化炭素だけ抜き出せるんじゃないかな」
ドライアイスの温度はマイナス79度だったかな。液体を経由するならもっと高温でもいいけど、5気圧以上の圧力が必要だったはず。いずれにしても、二酸化炭素を分離するフィルターを作るよりはマシなんじゃないかな。
「うーん……普通に分けたほうがかんたんだと思うよ?」
考え込んでいたリーズが突然口を開いた。
「見分けられないだろ? それで苦労しているんだから」
「匂いでわかるよ?」
いや、わからないだろ! と言いかけて言葉を飲み込んだ。リーズにしかわからない、謎の感覚かもしれない。とりあえず任せてみよう。
「任せた。二酸化炭素の匂いなんて俺にはわからない」
無色透明無味無臭だって教わっているからなあ。とりあえずリーズの特殊能力を信じてみて、ドライアイスのプランは俺が独自に挑戦すればいい。上手くいったほうを採用する。
そして次の日。ルナとリリィさんとリーズには、炭酸水生成装置もといソーダファウンテンを作ってもらう。すぐにはできないだろうから、先に酒を納品してくる。
納品先は王とレイモンドとボナンザさんだ。俺は王城に行くとして……。
「クレア、悪いけどレイモンドを探してくれないか?」
レイモンドはクレアの叔父だから、レイモンド探しはクレアが適任だろう。
「わかったわ。でも、王都にいなかったらどうするの?」
「冒険者ギルドに伝言を頼んでおいてくれ」
レイモンドだって常に暇しているわけではない。王都にいなければ、タイミングを見て待ち合わせする必要がある。
「了解。行ってくるわ」
もう一つの納品先だが、こっちはアーヴィンにお使いを頼む。
「アーヴィンはボナンザさんのところに行ってきてくれ。もしボナンザさんが暇だったら、王都の家で落ち合おう」
「え……?」
アーヴィンは微妙な表情をこちらに向けた。
「忙しい?」
「……暇だけど」
なんだ、気が進まないだけかよ。伝言を伝えるだけのかんたんなお仕事だと言うのに。
「任せた」
とだけ言って、アーヴィンに丸投げした。これで準備完了だ。さっそく王城に転移しよう。
いつもの部屋で王を待つ。今日は仕事中だったらしく、謁見の間に王の気配が感じられた。
しばらく待っていると、王の気配が複数の人間の気配とともに移動を始めた。そしてこの部屋に近付き、扉が開かれた。
「よう、邪魔しているぞ」
軽く声をかけると、王は口角を上げて声を出した。
「むっ! 其方がここにおるということは……酒が手に入ったのか!?」
王の顔はこころなしか嬉しそうに見える。そんなに楽しみだったのか。
王はニヤニヤしながらソファに座り、そのうしろには側近らしきおっさんが立つ。珍しいな……。いつもなら側近は退室するのに。
「ああ。希望の酒かどうかはわからないが、買い付けは成功した」
俺はそう言って酒樽を取り出し、王が座るソファの横に置いた。改めて見ると大きいね。ボナンザさんがすっぽり入りそうなくらい大きい。
「中を改めても良いか?」
「是非そうしてくれ。感想が聞きたい。もし評判が良ければ、追加で仕入れるつもりだ」
俺がそう言うと、側近が割って入った。
「では失礼します」
てっきり王が味見をするものだと思っていたが、このおっさんが味見をするらしい。まあ、毒味も兼ねているんだろうな。当然といえば当然か。得体の知れない外国の酒を王が最初に飲むなんて、危なすぎる。
側近は樽に蛇口のようなものを取り付けると、器用に樽を傾けてカップに注いだ。慣れた手付きだが……その蛇口とカップは持ち歩いているの? 真面目そうなおっさんだけど、見る目が変わりそう。ただの飲兵衛じゃないか。
側近はカップに口をつける。すると……。
「ごぼぉぁっ!」
口に含んだ酒を勢いよく吹き出した。
「どうした!? クソ不味かったか!?」
俺は焦って声をかけるが、側近は涼しい顔で答える。
「失礼しました。そうではありません。あまりにも濃かったので、つい」
「濃いのが欲しいって言っていなかったか?」
王から注文をもらったとき、王は『かなり強い酒だ』と言っていた。濃さで驚かれるとは思わなかったな。
「……ああ、なるほど。この樽は加水前なのですね」
側近は腑に落ちたような顔で頷きながら言う。
「加水? 水割りにでもしようってことか?」
「いえ、こういった酒を売るときは、事前に2倍程度に薄めるのです」
水増ししてから売るってこと? ルール的にアリなのかな? まあ、あまりにも濃いならそうするしかないか。酒のことはよく知らないが、火が着くほどの強い酒はさすがに飲めないだろうし。
「へぇ……それは知らなかった。これを売ってくれたやつも、そんなことは言わなかったぞ」
「言わなくてもわかると判断されたのでしょうね」
水で薄めるというのは商人の常識だったのだろうか。だとしたら、知らない俺のほうが悪い。今後は気をつけよう。
「で、質はどうだ?」
「悪くないでしょう。おいくらで販売されるご予定ですか?」
味はとりあえず及第点といったところか。値段は……どうしようかな。俺はこの樽を金貨50枚で購入している。単純計算するなら、金貨80枚で売ればちょうどいいだろう。事前に聞いていた予算内でもある。
ただし、それは1樽分の値段だ。これを2倍程度に薄めるのなら、2樽分の金額を取っても問題ないのではないだろうか。ちょっと吹っ掛けてみよう。
「今回、かなりの安値で譲ってもらえた。だから、少し安くして金貨160枚で売りたい」
「え……?」
側近と王の顔が激しく曇る。ヤバイ……高すぎたか?
「どうした?」
「そんなに安くしてもいいのですか?」
そっちかーい!
心配して損した。この金額でも十分安かったようだ。想定の2倍なんだけどなあ。
「今回だけだ。無理を言って値切ったんだ。次からはそうはいかないぞ」
これは本当。無茶な値切りは相手が潰れても構わないときだけだ。定期的に買うつもりなら、ちゃんと適正価格で買い取る。無理に買い叩いて酒造所が潰れたら、元も子もないからな。
「なるほど。次もあるのですね」
「評判次第だがな」
「承知しました。意見をまとめておきましょう」
文官はそう言うと、数人の仲間を呼び集めて樽を運び出した。
てっきり王が独り占めするつもりなのかと思っていたが、どうやら城のみんなも飲むようだ。思いのほか、多くの意見が聞けそうだな。あとのことは側近に任せ、クレアと合流しよう。
「俺はまだ用があるから行くよ。意見がまとまったら知らせてくれ」
「うむ。大儀であった」
王はソワソワした様子で扉の外を気にしながら言った。まだ仕事中だと言うのに、あの酒が飲みたくて仕方がないのだろう。仕事が終わるまで我慢しろよ。
さて、次はレイモンドだな。あいつもかなりの酒好きらしいから、いい意見が聞けそうだ。






