金の糸Ⅳ
ここは暗い海の底。
太陽光の届かぬ海の色はブルーを通り越してブラックへと変わる。失意のどん底というのは、かくも暗き場所なのか。
「なぜ……なぜですの?」
今日の部活も散々なものだった。
ワインディングの攻略はおろか、浮き一つもロクに曲がれやしなかった。
なぜだ。なぜなのか。
昨日の感覚を忘れぬよう、朝練もこなしたというのに。
……いや、自問自答するまでもなく答えは出ていた。
隅っこで体育座りするのを止めて、すっくと立ち上がる。
「あれよ! あれが悪いのよ!」
仇敵でも見るようにカラーコーン――正確には水平に箒を括りつけた物を睨む。
意外な障壁となったのは箒教団のシンボルこと箒だった。
セントフィリアで一番の市民権を得ている箒は、長柄の竹箒。全長130~140cmに及ぶ品であるが、この無駄に長い柄が接触事故を招くのだ。
各人好みがあるから腰をかける位置はバラバラだし、何より……。
「どうして浮きが、てんでバラバラの方向に向いているのよ!」
邪魔になる柄がランダムな方向に伸びているせいで、コーナーに突入するタイミングが狂うのだ。膨らんで曲がるか、曲がりで膨らむか、はたまた最短距離で折り返すか。速度が増すほどに見極めの時間は削られ、難易度は上がるばかりである。
「あいつら、完全に浮きの仕事を舐めていますわ! 向きぐらい合わせなさいよ!」
「そう逆巻くな。あれはあれで良いのさ」
リアの発言は耳を疑うようなものだった。
「あれは、箒同士の衝突を避けるための練習でもあるということだ。だから敢えて難しく、曲がりにくいようにしているのさ」
「まあ、なんて意地の悪い練習なのかしら!」
「本当にそう思っているのかい?」
「……思ってないわよ」
単に理不尽なだけなら、ここまでムキになったりしない。
悔しいが、このワインディングという練習は良く出来ている。曲がりの技術だけでなく、衝突の恐怖も教えてくれる。
初心者は速度を落とせば曲がりやすいということを身体で覚え、熟練者は自ずと速度と曲がりを両立できる限界を探すようになる練習だ。
むう。シンプルなようで意外と奥が深いわ。
「つまり、全ては一分一秒を縮めるための練習なのね」
「もしかして……フィフィーは重大な勘違いをしてはないかい?」
次の言葉の衝撃ったらなかった。
「箒部の主たる活動は速さを競うことではない」
「えええええええええええええええええ――ッ!?」
衝撃の事実ですわ!
「箒教団は、スピード中毒者の集う過激派組織ではなかったの!?」
「フィフィー、君は私たちを何だと……まあいい。実演するのが早かろう。私の言う通りに飛んでくれないかい?」
私は言われるがままに杖に乗り、リアのオーダー通りに円の軌道を描いている。一体何が始まるのだろうか。
「もう少し高度を上げて、だんだん円を狭めていってくれ!」
「わかったわ!」
要領を得ないが、やるしかあるまい。
グールグール。無心になって演舞場のなかを回り続ける。一定方向に周回するだけなら、ワインディングで不規則に曲がるより余ほど楽である。
大きく膨らんでいた円はやがて萎み、そろそろ円の軌道を保つのが苦しくなってきたときだった。
――――Ready,Set
この数日で幾度となく聞いた合図が響く。
「Go」
愛用の箒に跨ったリアが、突風のように飛び出した。
床板に穂先が擦れそうなほどの低さを保ったまま直進する。クイッとわずかに両手で箒の柄を持ち上げる仕草が目についた。
ちょっと待って……嘘よね?
嫌な予感は、ものの見事に的中した。
リアは獲物を捕らえた燕のように、いやそれ以上の角度で反り上がる。
――月面宙返り。
真下から飛び上がるリアは、私が描く円を輪っかに見立てて、
「いやああああああああああああああ――ッ!」
針の穴を縫うようにぶち抜いてみせた。
横と縦に描いた円が綺麗に交わる。
これが見世物なら拍手喝采というところだが、私は生きた心地がしなかった。あわや衝突という妙技である。
「なかなかのものだろう?」
「わかった、わかったからもう来ないで――ッ!」
リアが天井近くで反転する。
あわわ……あの命知らず、とんぼ返りして戻って来ますわ!
結局この謎の遊びは一回きりでは終わらず、リアが満足するまで続いた。……心臓に悪すぎる。下手すると、今日の部活より消耗したかもしれない。
「これで箒部の活動が理解できただろう?」
「全っ然っ、理解できないわよ!」
リアは小首を傾げる。
「ええっと、じゃあ、これを大勢で行うとしたらどうだい?」
「さっきのを……大勢で?」
縦回転と横回転が鎖のように絡み合って、それはそれは凄い絵が頭に浮かんできた。
「ヒナギクの花かんむり――と、私たちは呼んでいるが、これは数あるトリックの一つに過ぎない」
まるで指導者が民衆に説くように両手を広げて。リアはサングラス越しでもわかるぐらいの情熱を瞳に宿して語りかける。
「私たちは花を咲かすばかりではない。あるときは青い空を泳ぐ魚の群れにも、雨空の後に浮かぶ虹の架け橋にも、夜空を降る星の群れにもなれるのだ!」
突き上げた手にはリアの、いや、彼女たちの誇りともいうべき箒が握られていた。
「これは線を引き、色を塗るためのブラシだ! たくさんの箒に己の個性を塗りたくって、あの広大な空に絵を描く――それこそが、箒部の活動さ」
……空に絵を描く? バカ言わないでよ。
「嘘よ。二、三人ならまだしも、そんなこと大勢でできるわけが――」
「できる。現に宮古姉は、それを百人でやってのけた」
箒乙女の百騎兵長――カフェ・ボワソンの女神にも負けず劣らずの知名度を誇る、姉ヶ崎の通り名。その意味を知ると同時に身震いが起こる。
「一人で描けない夢を、みんなで描くんだ」
すっ、とリアは空いた手を私に差し伸べる。
ちょっと……なによ、その手は。
「一目見て風を感じた。フィフィーの走りには華がある」
やめて、私は手を差し伸べられるような人間じゃないの。
だからその手を――。
「私は君とも一緒に夢を描きたい」
引っ込めて……なんて、言えるわけないじゃない。
エメロット以来よ。十六年間生きてきて、私のことが必要だなんて言ったバカは。
差し出された手を払うことを、握ることもできなかった。リアの真っ直ぐな視線に押されて、気づけば私は背を向けていた。
何かを見透かされそうで、自分が矮小な人間だと知られそうで怖かったから。
「……早く練習に戻るわよ。今は、ワインディングを攻略するのが先でしょう」
「ああ、今はな」
どうしてリアは、こんなに親切なのだろうか。昨日そう問うたとき、エメロットが返した答えが頭を渦巻いていた。
――もしかして、リア先輩は私たちの姉なのかもしれません。
姉妹制度。
あの日、私が不参加を決めた行事で、本来姉妹の契りを交わす相手は誰だったのか?
私だって、その可能性を疑わないほどバカではない。
リアと出逢ったのは、姉妹同士の顔合わせの翌日。あまりに出来過ぎたタイミングである。きっと彼女は、何か関係のある人物なのだろうが。
……私は臆病者だ。
何も確かめられずに、ただ時の砂が落ちていくさまばかりを眺めている。
しかし、私がひょんなことから箒部に仮入部することになったり、リアとの勝負がいつの間にかワインディング攻略特訓にすり替わっていたりするように、いついかなるときだって、同じ時間が流れるなんてことはない。ゆっくり、ゆっくりと、かと思えば不意に吹く風のように現実は動き出す。
「明日、部活が終わった後に大事な話がある」
演舞場の閉場間際、リアは神妙な面持ちで告げてきた。
私は、うんともすんとも言わなかった。
口に出してしまえば、何かが変わってしまう気がしたから。
しかし、これも無駄な足掻きだったのだろう。
私たちの転機は、もう直ぐそこまで迫っていた。
◆
「仕方ないわね。そこまで言うなら契りを交わしてあげますわ!」
「えっと……暗がりで何をしてるんですか?」
「ひゃっ! 貴方、いつの間に帰ってきたのよ」
「つい今しがた。それにしても何の真似ですか? 人恋しさのあまり、エア友達と話し始めたのかと思いましたよ」
「そんな人いませんわ! 私はどれだけ痛い子なのよ!?」
「これは失礼。お詫びと言ってはなんですが、紅茶を二人分……いえ、三人分用意しましょうか」
「だから、いないって言ってるでしょ!」
「お嬢さま……正直にお答え下さい。返答次第では、お嬢さまを頭の病院に連れて行く必要がありますから」
「はあ……貴方、どんな心配をしているのよ。予行演習ですわ、予行演習。私ぐらい有能な一年生なら、姉妹縁組を持ちかけられてもおかしくないからね」
「リア先輩からお話をいただいたんですか!」
「……私、リアなんて一言も言ってないんだけど」
「すみません。有能なので、つい文脈を読んでしまいました」
「ずいぶんと腹立たしい有能さね。まあ、いいわ。飽くまでも可能性の一つよ。別に話を持ちかけられたわけでもないしね」
「それではこれも、もしものお話ですが……リア先輩から話を持ちかけられたら、お嬢さまはどうなさるおつもりですか?」
「そんなの十中八九断るに決まっていますわ!」
「十に一二は可能性がお有りと?」
「そうね。もしも……もしも、ワインディングを完走して気分が良くなっていたりすると、さしもの私も頷いてしまうかもしれないわね」
「お嬢さま、なら今日は質素な食事で我慢して下さいね」
「どういう理由付けなのよ、それ?」
「だって明日は三人分の食事がお入り用でしょう?」
「ふん。無駄になったって知らないわよ」
◆
翌日の朝練は奇妙なほどに静かだった。
昨日の空気を引きずっているであろうことは察するにあまりある。
その分、ワインディングの練習に打ち込めたとも言い換えることもできるが。私は黙々と箒を括りつけたカラーコーンをS 字で曲がる。
道の途中で必ずぶつけてしまうが、目に見えて接触は減ってきた。
肩から変な力が抜けたからだろうか。今日はいけるかもしれない。妙な自信が全身にみなぎっていた。
「部活が終わった後に大事な話がある」
リマインドのつもりだろうか。朝練の終わりごろ、リアは時だけが移り変わった同じ台詞を吐いた。
神妙な、昨日と代わり映えしない表情で。
「…………」
やはり私は無言を貫いた。
バカね、忘れたくたって忘れられるわけないじゃない。そのせいで、昨日はよく眠れなかったというのに。
演舞場の吊り天井を見上げる。そこに何があるというわけでもないのに、私は有りもしない答えがぶら下がっていることを期待していた。
そういえば、今日は二人乗りしてなかったっけ。
◆
今日の部活は、姉ヶ崎部長の失踪という波乱から始まった。
「え~、みゃーこは体調不良で……というのはちと苦しいか」
箒教徒は人好きする顔立ちを存分に活かして、この場を上手く収めようとしていたが、無理を悟ったようだった。
懸命な判断だろう。
閉じきった輪のなかにいる私ですら、聞き及んでいるのだ。
「今日のみゃーこはズル休みです! 理由は察して! 後で私がケツキック入れとくんで許してあげてね」
「はいは~い、私も私も!」と、こぞって上級生が手を上げる。部長の臀部に計二十二発の蹴りが入ることが確約された瞬間であった。
体育会系の友情とでもいうべきものか。彼女たちが騒ぎ立てることで、部長に批難が飛んで来ることを牽制している風に見えた。
部長が欠席している理由は、余ほど勘が鈍くない者なら察しがつく。姉妹関係を結んだはいいが、妹との折り合いが悪いのだとか。
部長が今の妹にご執心なのは、学内でも有名な噂だ。
……ここでも姉妹制度か。
胸につのるモヤモヤから目を逸らして、頭を切り替える。幸い、部長代理の箒教徒もさっさと練習を始めて、先ほどの話題を払拭しようとしていた。
程なくしてストレッチに取り掛かり、ランニング、箒ダッシュとお決まりの練習を消化していく。そして、遂にあいつがやって来た。
「よーし。次はワインディング行こうか!」
箒教徒の号令は少し熱っぽい。
今や、ワインディングは私を見守る練習と化していた。リアのように期待に満ちた眼差しを送る者もいれば、無関心をよそおって、こちらをチラチラ見ている者もいる。
ったく、いちいち気にかけるんじゃないわよ。
目をつむり無数の視線を遮る。
深く息を吸い込んで、腹の底に嫌なものを集める。
雑念も、重圧も、得体の知れないこのモヤモヤも、全て一息で吐き出してみせる。
思い出せ、私が誰かを。自覚しろ、私が何者になりたいのかを。私は、私は……フィロソフィア=フィフィーでなければ、いけない――ッ!
――――Ready,Set
明転。再び目にした世界は少しだけ透明度を増していた。
「Go」
それが当たり前とばかりに飛び出す。
合図とともに飛び出すことに、もはや何の疑問を持たなくなっていた。
変ね、いつから私はこうなってしまったのだろう。
考えるのは……すべてのコーナーをねじ伏せた後ですわ!
一つ目の浮きが迫る。
大丈夫。よく見えていますわ。長い柄も進路を妨害しない方向に伸びている。ここは素直に曲がればいい。
「やった!」
最初の一つを曲がったぐらいで、はしゃいでいられるものですか。浮きがこぼした歓声を置いて先に進む。
最初の一つということもあって慎重になり過ぎた。大きく回り過ぎた軌道を修正するように角度を狭める。
続く浮きもイージー。
角度が厳しいけど、曲がれないほどじゃ、ない――ッ!
箒を目一杯引っ張って切り込む。小さくガッツポーズする浮きを横目に体を起こす。
一刻も早く体勢を立て直して曲がりに入らないと、S字の軌道に戻れない。私は直ぐさま曲がりに入り掛けて……思い直す。
危ないじゃない――ッ!
またしても箒マジックに引っかかるところだった。
近づく浮きの柄は通せん坊するように伸びている。タイミングを誤ろうものなら、衝突は必死だ。慎重にタイミングを見計らい、気持ち大きめに回る。
「惜しい! 今日は引っかからなかったか」
パチンと指を鳴らす音が耳朶を叩く。あいつは昨日、私を散々衝突させた浮きですわ。嫌らしいったら、ありゃしないわ。
ありがとう。おかげさまで、これがどういう練習か思い出せたわ。
――目先の目標に惑わされるな。
誰かさんの助言が脳内で再生された。
――瞳に映すは、
「空の色――ッ!」
緋色に染まる空が視界いっぱいに広がる。見落としていた綺麗な夕焼けが見えたなら、それは狭まっていた視界が開けた証拠だ。
12時、6時、7時。
待ち受ける浮きの柄先がよく見える。
見えさえすれば、こっちのものですわ。
四の浮きは緩い角度で曲がって、五の浮きはイージー、落ち着いて対処すれば無問題。六の浮きは傾いだS字を意識すれば、
「ううううう、グルービー!」
「くっ……私を曲がっても、まだ半分残ってるんだからねっ!」
「そのまま行くがヨロシ!」
どんなものよ!
思い思いの言葉を投げる浮き(今までさして気にしてなかったけど、あいつらやけにキャラが濃いわね)を後にする。
序盤こそ浮足立ったけど、どんどん調子が上がってきましたわ。
「……とっ!」
逸る気持ちに乗せられて、杖が走りそうになるのを抑える。
歯がゆいが、それは今の私にはまだ早い。
伏せていた体を起こすことで空気抵抗を増やす。これまた誰かさん直伝の空力ブレーキ。早めに速度を殺すことで、【制動】の負担を軽減する小技だ。
5時、7時……前の7時も含めると、続く浮きも嫌らしい並びだ。加速して突っ込んでいたら、斜めに突き出した柄に衝突してもおかしくない、が。
今の私なら、曲がれない並びではない。
意識は傾いだS字に固定したまま。コンパクトに孤を描いては丁寧に処理する。
「3」「2」と、点呼でもとるように声が上がる。
うるさいわね。今いいところなのよ、静かになさい!
残す浮きは二つ。
否が応でも気持ちは昂ぶるが……落ち着け、落ち着くのよ、フィフィー!
――飛んでいるときは、雨につけ風につけ集中力を乱してはいけない。
事が成就しそうなときほど危ない、そうよね?
3時、9時、残す浮きは最後を飾るに相応しいコンビネーションだ。ダブル通せん坊S字……ここまで来ると嫌らしいを通り越して、いっそ清々しくすらある。
傾いだS字から潰れたS字に意識を塗り替える。
ここまで来て失敗だなんてありえない。
大きく曲がれ、大きく曲がれ、そう何度も言い聞かせた甲斐あってか、私は綺麗な弧線を引いて――箒教徒を曲がる。
箒教徒はただ一言。
「やるじゃない」
そう言って私を見送った。
ええ、やりますとも! あと一つで完全制覇ですわ!
「1」の大音声が上空で響き渡る。
うるさい。うるさい。うるさい。並走してくるお調子ものどもがやいのやいのと騒ぎ立てるカウントダウンも、破れそうなほどに高鳴る心臓の鼓動も。
最っ高に、うるさい――ッ!
天井知らずに跳ね上がるテンションとは裏腹に、頭は至って冷静だった。彼女から学んだ基礎を忠実に守りながら、最後の浮きに突入する。
最後に待ち受けていた彼女は、
「今日はいい風が吹く。そうは思わないかい?」
お決まりの台詞を口にして、出迎えてくれた。
【制動】をかけた杖は止まりだしたが、私の心はまだ走っていた。はけ口を知らない感情が腹のなかを暴れに暴れ回って、とうとう口から飛び出した。
「私にだって、できるのよ――ッ!」
見たか! と島国を越えて、外の世界にまで発信してやりたい気分だ。パチパチと降り注ぐ拍手の雨は、幻聴ではない。箒教団……いや、箒部の面々からの贈り物だった。
「ちょ、ちょっと、やめなさい! たかがこれしきのことで」
唐突にやってきた恥ずかしさが、足の爪先から頭の天辺までを埋め尽くした。私は真っ赤になって「やめて」と叫んだが、奴らはむしろ面白がって拍手を送り続けてきた。
箒部というのは、本当に意地の悪い集団ですわ。
◆
それからの箒部のはしゃぎっぷりと言ったらなかった。
箒に跨ったまま殺到してくるわ、無数の小隊が縦横無尽に空を飛び回るわ。復活祭とマースレニッツア祭がこの数分に一遍に訪れたかのような、どんちゃん騒ぎだった。
悪ノリ、賑やかし、そんなものが大半を占めていたけど、まあ……1%ぐらいは私を祝福している気配を感じないでもなかった。
1%だけですけどね。
「こらぁ! みんなはしゃぎ過ぎ!」
わいわいがやがやする箒部を、箒教徒が一喝する。集団が落ち着くと、彼女は次いで休憩の指示を出した。
箒教徒のこの判断は正しかったと思う。とてもじゃないが、直ぐに練習を再開できそうな空気ではなかった。
「……ようやく人心地つきましたわ」
期せずして注目を集めてしまった私は、箒部の溜まり場である原っぱから少し離れにいた。雑木林に分け入り、できるだけ人目の付かない場所に隠れる。
この二、三日ではっきりとしたが、どうも箒部の連中は私に対する警戒を解きつつある。初めのうちは畏れ敬う心があったのに、今や近所の良いとこのお嬢ちゃんぐらいにしか思われていない節がある。
飴玉よこしてきたり、頭撫でてきたり、終いにはスキンシップと称してセクハラを行う不貞の輩すらいる。
……由々しき事態ですわ。
残り二家のご息女はあれだけ畏れ敬まれているというのに。
失った畏れを取り戻すためにも、もっと上手く飛べるようにならなくては。
と、心に誓い掛けて、妙な違和感に目眩を覚える。
飛ぶ?
「どうして私は」
じんわりと、乾きかけの肌に嫌な汗が滲む。
おかしい。ここ最近の私はどうかしている。
こんなところで足踏みしている暇なんてない筈なのに、人間関係なんて煩わしいだけのものだと思っていた筈なのに。
どうして私は……この場所にもう少し居たいと願っているのだろうか。
ゾッとする。
とてつもないスピードで、過去の私と今の私が乖離していく。昨日の私と今日の私は会話が成り立つのだろうか?
そんなことを真面目に考えてしまうほど、私の価値観は塗り変わっていく。
この変化が本当に受け入れて良い変化なのか。
変化に乏しい環境で育ってきた私には判別がつかない――なんて、もっともらしい理由を盾にして、目を背けている自分の存在に気がついてしまった。
だって、この変化を喜ばしいものだと認めてしまったら……あんなにも辛く苦しかった日々を無価値だと認めないといけないから。
と、物思いに耽っていると、不意に草木がざわめいた。
「ひっ!」
完全に意識の外だったので思わず飛び退きそうになる。
「……リア?」
風のいたずらだと思われた葉擦れは、二人の女生徒が足を踏み入れたことで起きたものだった。
一人はリア、もう一人は……誰だろう。
箒部の部員だということは辛うじてわかるが、さすがに大所帯だけあって判別がつかない。
コナラやケヤキを擦り抜けて、二人はどんどん雑木林の奥に入っていく。まるで人目でも避けるような歩みだ。
……どうしよう。
見なかったことにすべきか悩んだが、気づけば私はリアの後を付けていた。木々を衝立に、茂みを隠れ蓑に、息を殺して二人を尾行する。
他人のプライベートを盗み見るような趣味はないが、一瞬見えたリアの沈痛な横顔が気がかりだった。
もしかして、私のせいで怒られるのかもしれない。
ああ見えて(本当にああ見えて)、リアは箒部の副部長である。本来なら全体のことを考えて動くべき彼女が、ここ二、三日は私に付きっ切りだった。
今は、新入部員が入部するかの大事な時期だ。
依怙贔屓するな、全体に目を配れ、そんな謗りを受けてもおかしくはない。
しかし、それも筋の通らぬ話だ。リアが私にかまけていたのは確かだが、黙ってその好意に甘えていた私にも責任はある。
自らが受けるべき責を他人に肩代わりして貰うなど、高邁なる私には我慢ならぬことだ。もう一人の女が一言でもリアを非難しようものなら、茂みから飛び出そう。
とても嫌だけど……そのときは、一緒に謝ろう。
「リア」
名も知らぬ部員が彼女の名前を呼ぶ。
私はその様子を、固唾を呑んで見守っていた。
「やったね! とうとうフィロソフィアちゃんが、ワインディングを完走したよ!」
イエイ、と彼女はリアにハイタッチを要求した。
半テンポ遅れて差し出された手がバチンと音を立てる。
……なんだ、友達同士か。
二人の遣り取りには険悪さなんて微塵も感じられなかった。
名も知らぬ部員はリアを褒め称えたのち、最近のフィロソフィアの調子はどうだ、ちゃんと食事はとっているかと話題を転換した。
さっさとこの場を後にするつもりが、私の足は止まっていた。この名も知らぬ部員がやたら私を褒めるものだから、少しばかし気分が良くなっていたのだ。
あと少し……あと少し。
私の話題が終わるまでは、この場に居てもいいんじゃないかしら。
能天気な私は深い考えもなしに二人の密談の場に居合わせ、五分も経たぬうちに不審を抱かされた。
……終わらない。
私の話が一向に、微塵も終わる気配を見せない。
正確には、名も知らない部員が延々と私について語り、私についての質問を投げかける。問われたリアは曖昧に頷くばかりのクッションと化していた。
どうして……そんなに私のことばかり。
驚くべきことに、名も知らない部員は、私とリアしか知り得ないような情報までを知り得ていた。
ファン? 私の熱烈なファンなの!?
いずれ私のカリスマ性に惹かれて、そのような輩が出てくることは予見していたが、いざ目の前にすると引く……なんて、軽口すら叩けないほどに動揺していた。
「それでね。フィロソフィアちゃんったら、もみくちゃにされたあと、顔を真っ赤にして逃げちゃったのよ。恥ずかしがり屋だと――」
「もう……やめにしないか」
明るい声を遮るように、リアが言う。
瞳に驚愕の色を映したのは、私も名も知らぬ部員も同じだった。
間髪入れずに甲高い音が鳴る。一切の手心ない平手打ちを受けて、リアのサングラスが弾け飛んだ。
ふうふう、と息を荒げ、肩を怒らせる部員。
対するリアは、内出血した頬も土に塗れたサングラスも気にも留めず、真っ直ぐに相手の瞳を覗き込んでいた。
「あの子のことを嗅ぎ回るのは、今日限りで終わりにしたい」
リアが力強く言い放った瞬間、私のなかで何かが崩れる音がした。
そう……私のためじゃなかったのね。
通り雨に打たれたかのように熱が冷めていく。あの曲がりくねった道を完走したときの興奮も、この数日間の思い出も、濡れた絵画のように溶けて色褪せていく。
一人で盛り上がって……バカみたい。
ありがとう、お母さま。
貴方のことは大嫌いだけど、貴方が教えてくれた考えだけは正しかった。
「フィフィー!」
隠れている理由すら忘れて立ち上がっていた。
虚ろなこの瞳には、酷く狼狽した犬の姿が映っていた。
この世に人なんていやしない。私とエメロットを除けば、この世に住むヒトモドキは全て野犬だ。そう思えば辛いことなんて、何一つない。
嫌だ……近寄らないで。
どうせ……どうせ……貴方だって。
裏切るのでしょう?
「来ないで――ッ!」
金切り声を上げて逃げた。土が跳ねようと、枝葉で肌が切れようと、足を回す。頭上を覆う木々の天蓋が薄くなったところで杖に跨り、飛び立った。
引っ付いた無数の葉っぱを振るい落とす。
髪に、背中に、服の裾に。それは、気が付いたときには全身のいたるところに張り付いていて、幾枚落とそうと切りがない。
「何でよ……っ!」
上空から見下ろすと、禿げた原っぱがやけに目に付く。一匹一匹の顔なんて視認できないけど、野犬どもが皆揃って空を見上げている気がした。
……痛い。
切り傷なんて痛くも痒くもないのに、胸の辺りがやけに痛む。早鐘のような心音が止まない。心臓が張り裂けそうだ。
ここ数日がおかしかっただけで、全て元通りになるだけのことじゃない。それなのに、こんなに……こんなに苦しい想いをするのなら、糸など絡ませるんじゃなかった。
全てに背を向けて速度を上げる。
幻想的な夕焼けのなかを飛んでいると、全ては一時の夢だったのだと思えた。国を覆うナタリー城壁を越えてしまえば、もう何も見えてこない。
土の薫るあの林道も、あの静けさとは無縁の原っぱも。
何もかも壁の向こう側に置き去りにしてきた。
それなのに、
「フィフィー」
貴方は壁の向こう側までやってきてしまうのね。
ほんの一週間前のことが懐かしく感じられる。
ナタリー城壁南門前。
ここはリアと初めて出逢った場所だった。
ゆっくりと夕焼けに染まる平原に降下する。
逃げることをあきらめた訳ではない。いくら離れても切れない糸を、引き千切ろうとしただけのことだ。
「……弁解なんて聞きたくないわ」
続いて降りたリアも、一定の距離を保ったまま近付こうとしなかった。
ムカつく。私の怒りに油を注がない方法を心得ている彼女が、トレードマークのサングラスを落としたまま駆けつけてしまう彼女が、腹立たしくて仕方がなかった。
「もしも言いたいことがあるなら先に来て」
始まりがフライトなら、きっと終わりもフライトなのだろう。
ゴールは海辺駅カフラン。
彼女なら聞かずともわかることだ。
「先に来られないなら……二度と私に近寄らないで」
言い終えて、私は地を蹴る。
アンフェアなのは承知の上だが、スタートの合図をする暇もなかった。
「こらあ! そこの二人、待ちなさーい!」
翔び立つ私を見送るように、泡を食った野犬が走ってくる。検問所の上を堂々と飛んできたが、そういえばナタリー城壁の飛び越えは禁止だったわね。
まあ、このまま飛び去ってしまえば無問題でしょう。
……リアは?
野犬があきらめたか確認するついでに、後ろを振り返る。
背後には……誰もいなかった。
そう、追ってこなかったのね。
彼女がどのような判断を下そうと責める気にはならなかった。糸を引き千切る手間がはぶけるなんて願ったり叶ったりである。
茫漠たる空から一人二人の魔法少女が消えようと、大きな変わりなどありはしない。ただ少し、風よけがないから夕風が身にしみるだけだ。
――――Ready,Set
前方に戻した頭を更に左に90度振る。
左隣には、澄まし顔の箒乗りが出走を待ち侘びていた。
……いい度胸じゃないの。律儀に待っていたことを死ぬほど後悔させてあげますわ。
「Go」
リアの掛け声とともに、スタートダッシュを決める。
飛び出しに成功にした私は、今度こそリアを置き去りにした。
面食らう彼女の顔が目に浮かぶ。
私がワインディングの練習だけに専念していたと思っているなら、大間違いだ。リアに敗北を喫したあの日から、私は一日だってフライトの練習を怠ったことはない。
さんざん負けてきたが、その負けはいずれも僅差のもの。最初にリードを広げた私は、実距離よりもグッと勝利に近づいていた。
「さようなら」
誰よりも私に土をつけてくれた人よ。
嫉妬するほどに格好良くて、悔しいけれど憧れたその背中を引き離す。純粋な飛行技術では敵わないかもしれないが、真っ直ぐだけなら負けはしない。
……さようなら。リア=ロンバルディ。
「一生私の背中でも眺めていなさい」
今日私は、憧れを過去のものとする。
亀より遅い野犬になんて、私、何の興味もありませんの。
◆
ゴールである波止場に着陸した瞬間、張り詰めたものが切れた。
自分のものか疑わしいほどに弛緩した足をゆっくりと曲げながら、仰向けに倒れる。
もはや上品ぶる余力すら残っていないが、全力を尽くした甲斐はあった。時間を計るまでもなくわかる。過去の記録を大幅に上回る新記録だ。
さすが私ですわ、と大いに自画自賛して悦に浸りたいところだが、しょせんは自己新記録。大事なのは記録ではなくて順位だった。
二位なんて最下位にも等しい……いや、この場合は同義である。
背を向けたまま立ち尽くす勝者は、不規則な波音に耳を傾けている。吹き寄せる潮風が彼女の翠玉の髪をなびかせた。
「貴方、今まで手を抜いていたわね」
リアが振り返る。サングラスの下に隠れていた瞳は、髪色と同じ綺麗な色をしていた。彼女は困ったように眉尻を下げて、バツが悪そうに微笑んだ。
「雛鳥の側で羽ばたくのが、親鳥の務めさ」
けっ、ですわ。
なにが全ての負けは僅差よ。私なんて、鼻先に人参をぶら下げられた馬と変わらないじゃないの。こうなると、さっきだって本気だったか疑わしい。
「そんなに私で遊ぶのが楽しいの? 私のことを嗅ぎ回ったりするのもそう、純真そうに見えて随分と汚いのね」
「否定はしない。謝っても謝り切れないことをしたのも確かだ。だが、私が勝ったんだから言い訳の一つはさせてくれる約束だろう?」
「……ふん。聞くだけは聞いてやるわ。でも言葉には気をつけなさいよ。その先は保証しないからね」
「脅さないでくれ。臆病風に吹かれそうだ」
おどけていたのが嘘のように、リアは落ち着いた声音で語りだした。
「あの子は私の同級生で……君の姉になる筈の子だった」
おおよその予想はついていたとはいえ、改めて人の口から聞かされると驚きがあった。あの日、私がすっぽかした顔合わせの場にいたのが、箒部の部員だったとは。
「あの子は怖がりなのに、とても好奇心旺盛なところがあってね。フィフィーが妹になると知った日から、不安と期待に満ちた顔をしていたよ」
けれど、いくら待てども妹には会えなかった。
彼女が待ち望んでいた顔合わせに、私が出席しなかったからだ。
「クラスや部活では平静をよそおっていたが、同級生の私の前では気が緩んだのかもしれない。彼女はわんわんと泣きじゃくってね。私も何とか力になれないかと考えて」
そして、リアはナタリー城壁南門の前にやってきたのだという。
「私の日課なんて、よく知っていたわね」
「風の噂で聞いたのさ。毎朝、没落貴族の娘が奇行に走っているとね」
「――ッ!」
その噂を流した野犬どもをまとめて吹き飛ばしてやりたい気分だが、今は茶々を入れる場面ではない。私は怒りを押し殺して、先を促した。
「君が悪い子じゃないことは、一緒に走って直ぐにわかったよ。これは持論だが、杖騎乗にはその人となりが出る。荒削りだが真っ直ぐで、一生懸命さを感じた。だから、どうにか二人を結びつけてあげたいと思って……」
私と友達の間を取り持とうとしたわけか。
「ふうん。道理で私を強引に箒部に連れ込もうとしたわけね」
思い返してみれば変なことばかりだった。
「もしかして……貸してくれたお金も、あの人のもの?」
「いや、あれは私の自前だ。心配しないで欲しい」
「別に心配なんてしてないわよ。ただ、貴方がそこまでする必要があるのかと思っただけよ!」
「鋭いな。君はかまいたちのように鋭い」
貴方、この期に及んでふざけていますの?
文句の一つでも言ってやろうとしたが言葉に詰まった。
リアが……今にも泣き出しそうな顔をしていたから。
「あの辺りから……私はおかしかったのかもしれない。君が本当に私の妹だったらいいのに。そう思うようになってしまった」
日々、リアは私から集めた情報を友達に伝え続けたと言う。
頃合いを見計らい私を友達に紹介するつもりが、約束の日はずるずる……ずるずると引き伸ばされて。
「風が吹くのを待とう、なんて言葉で同級生をのらりくらりとかわし続けていたが、限界は直ぐに来た。彼女も私に不信感を抱き始めたのだろう」
友達はリアと顔を突き合わせる度に、私の話を振るようになったらしい。
ほらみたことか、人気者じゃないの私。水面下で私を争って熾烈な戦いが繰り広げられていたのよ。こんなにも……胸が痛む好かれ方は初めてですわ。
「あの子がフィフィーに合わせてという度、今はまだ合わせられないの一点張りを貫いた。あの子は今、一つの目標に向かって頑張っているから邪魔をしたくないんだ、と」
――せめて、フィフィーがワインディングを完走する日までは。
約束の期日が来ることを、リアは昨日から予感していたのかもしれない。だから、部活の後に大切な話がある……か。なんとも呆気ない幕切れだ。
「それで? 貴方は別れ話をするために、私を追いかけて来たの?」
「ああ。別れ話をしに来た」
「……そう」
別れ話だと知れた時点で、その先なんて聞く必要ないじゃない。
この場を離れようとしたところで、私はリアに腕をつかまれた。
「なによ」
「私との……昨日までの関係性を捨てて欲しい。今日から私と姉妹になろうぞ」
「どこの武将よ、貴方は」
あまりに阿呆らしくて泣きそう。
せめてもの抵抗として、リアの胸に頭突きを繰り返した。
「わかりにくいのよ、貴方は。バカ……口下手……かっこつけ」
私が、どれだけその言葉を待ちわびていたと思っているのよ。
嫌……嫌よ。
リアがお姉ちゃんじゃないと、私は嫌よ。
「……本当にいいの? 友達はどうする気なのよ」
「きっちりケジメをつけてくるから心配するな。本当は全てに決着をつけてから迎えに行くつもりだったのに、フィフィーが盗み聞きするから」
「なによ、私が悪いって言うの?」
「いや、秘密にしていた私が悪かったな」
リアは【小袋】を開くと、お揃いの卵型のペンダントを取り出した。北の国の皇帝が、后にプレゼントしたという由緒正しき首飾りだ。
「インペリアルイースターエッグ……っ!」
「一応、職人街の金細工師に頼んだものだが、フィフィーの国の物よりは不格好かもしれない」
「ちょっと待って! 私は生まれがどこかなんて――」
「食べ物や会話、そんなものに気を配れば自ずとわかることさ」
本当に私のことを見てくれていたのか。
そう思うと、じわりと胸が熱くなるのを感じた。
「……目を閉じて」
ああ、ダメ。瞼が自然と重くなってしまう。
私は言われるがままに目を閉じかけて――
「ふん――ッ!」
思いっきり首を反らして、首飾りをかけられることを阻止した。危ない危ない、危うく雰囲気に流されるところでしたわ。
「貴方、バッカじゃないの! お揃いのペンダントを付けて、謝りに行く気なの? 友達のことをおちょくるのも大概になさい」
「……謝りに、って」
「もう私も無関係なんて言えないでしょ。二人で謝りに行きますわよ!」
杖に跨って出走の準備を済ます。
私を妹にしたいと想ってくれた人のために、
「早くしないと置いてきますわよ……お姉ちゃん」
そして、私に面と向かって妹になって欲しいと言ってくれた人のために。
今来た道を戻ろう。
真っ赤になった顔を見られないように、一足早くここから飛び立って。
「フィフィー! 何だ今のは! 瞬間最大風速を記録したぞ。もう一度呼んでくれ!」
こいつ、一瞬で追いついてきましたわ――ッ!
変なところで本気出してんじゃないわよ!
「嫌よ! 二度と呼びませんわ!」
「そう言うな。ならフライトで決めようじゃないか! 私が勝ったらもう一度呼ぶ、フィフィーが勝ったら金輪際呼ばない。それで良いだろう?」
「良くないわよ!」
――――Ready,Set
「あっ、ちょっと待ちなさいよ!」
それはズルい。その合図を聞いたら、条件反射で飛び出してしまうと知っている癖に!
「Go」
合図がかかると、二人同時に飛び出した。
少しばかし本気を出すようになったリアは早くて、背中を眺めるのが精一杯だ。けれど、彼女はどれだけ飛ばしても、私に背中を見せる位置をキープし続けていた。
近くて遠い背中。そこから私へと伸びている糸がきらめいた気がした。
それは夕景のいたずら。日没後に差す、柔らかな黄金色の日差しが見せた錯覚なのだろう。
その日、私は金の糸を結んだ。
リアとの仁義なき戦いの記録
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1戦目:○奴―✕お嬢さま(弱い)
2戦目:○グラサンライダー―✕お嬢さま(ネーミングセンス✕)
3戦目:○グラサンライダー―✕お嬢さま(人生のルート取りが下手)
4戦目:○グラサンライダー―✕お嬢さま(凹凸に欠ける)
5戦目:○グラサンライダー―✕お嬢さま(猫を言い訳にし出すとか末期)
6戦目:○グラサンライダー―✕お嬢さま(言い訳の種すらなくす)
7戦目:○リア―✕お嬢さま(……名前を覚えてきた?)
8戦目:○リア―✕お嬢さま(筋肉痛とか)
9戦目:○リア―✕お嬢さま(ジャム没収)
X戦目:NO GAME(一時休戦の模様)
10戦目:○リア―✕お嬢さま(2桁敗北の大台突入!)
11戦目:NO GAME(警備員に捕まる)
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記録:お嬢さまが勝つまで記録を止めない従者エメロット




