アシュロンの憂鬱Ⅲ
赤ぶちメガネが傾いでいようが、取り繕う暇などない。
嘘と善意を取り違えたアシュロンは、恐慌をきたしていた。
2区の魔法石店に強盗が押し入る――そんな妄執にかられた彼女は、北部の守りを固めることに躍起になっていた。
主要な高級店や上流階級の豪邸はもちろん、外れの小径に至るまで。
集中した憲兵の配置は、鉄壁の布陣と呼ぶにはお粗末なものだった。
俯瞰すれば、その構図はチェス盤の上部だけにポーンがぎゅうぎゅう詰めになっているような絵だ。明らかに盤上のバランスは狂っていた。
「みみみ、皆さん、落ち着いてくださーい」
「テメエが落ち着け――ッ!」
吠えるような突っ込み。ぽたりと頭上に落ちる水滴。
アシュロンが頭を見上げた瞬間、視界は透き通る青に染まる。
ドドドと、激しい水音が彼女の頭をこれでもかと叩いた。
「――ッ!」
上げた悲鳴もむなしく、騒々しい水音に飲まれる。
強制的な滝行が10秒ほど続くと、あとに残ったのは濡れネズミだけ。
へくち、と濡れ髪を張り付けたアシュロンがクシャミをした。
「妙な動きしてっから顔出してみれば、何やってんだテメエは!」
そう怒鳴るヴォルフの頬には、食べかすが付いていた。
「大変です、ヴォルフ先輩! この緊急事態に何食べてたんですか」
「ああーん? ケバブだよ、ケバブ。肉食いてえ気分で、何が悪い。テメエのせいで、デザート食い損ねたじゃねえか」
胸ぐらを掴まれて、頭を前後に揺すられる。
普段であれば横暴な振る舞いに屈するところだが、今回は状況が違う。赤ぶちメガネを直すと、アシュロンは毅然と吠え返した。
「悪いです! 私が必死に守りを固めているというのに」
「ほう。そこまで言うなら、南側の守りも万全なんだろうな」
「……ちゃ、ちゃんと最低限の人員は配置してあります」
「7区は?」
一番手薄な所を見透かれ、アシュロンは言い淀む。
途端に歯切れの悪くなった後輩をもう一度、ヴォルフは問い詰める。
「だから、7区は?」
「……ほとんどもぬけの殻です」
大きく舌打ちすると、ヴォルフは質問を変えた。
「テメエ、例の小娘が何を盗んだのか当然知ってんだよな」
「……いえ、そう言われると」
「盗んだのは、東洋魔術の古本だとよ。大した大泥棒さまだな、おい」
たちまち勢いはしぼみ、アシュロンは目を伏せた。
遊び呆けていた人に説教される謂れはない。そう突っぱねることもできず、下唇を噛んだ。
最善を尽くしたつもりでも、失策は失策だ。
無闇に憲兵を扇動し、無用な混乱を引き起こした。
その自覚があるからこそ、彼女は素直に頭を下げた。
「……すみません」
「一年も経ってロクに情報共有もできねえのかよ。テメエの担当範囲だけが、王都じゃねえだろうが」
ぐうの音も出ない。日ごろ口酸っぱく言われていることが、焦りで疎かになった。不始末を起こしたことを恥じ入り、アシュロンの目元が薄っすらと煌めいた。
「同僚が同じことしたか? テメエにも関心払って、フォローしてくれたんじゃねえのか? なあ、そうだよな」
「……そうです」
しゅんとする部下に一瞥もくれない。
ヴォルフは、魔法石で7区の警備員に警戒を促す。
警備の指揮に手を出しかけて、そこで通話を切った。
「とりあえず、警備体制はテメエが責任もって見直せ」
「……はい」
失敗が重くのしかかるが、いつまでも凹んではいられなかった。
七光りだろうが地味メガネだろうが、アシュロンは"王宮騎士団"の一員だ。
「アシュロン中隊長、ご指示を」
後方には、彼女の指揮を待つ憲兵が控えている。
失策を嘆く時間は、そのまま部下が足を止める時間へと繋がる。
「…………」
不平も不満も悔恨も、一瞬きのうちに飲み込んで、アシュロンは眼鏡の向こう側を見た。
「警備体制を見直します」
とはいえ、具体的にどの様に体制を立て直すのか。
アシュロンは、まだ部隊を統率するのは不慣れだ。ヴォルフの影に隠れることで、指揮を振るう機会も少なかった。雛が親鳥を頼るように、無意識に声をかけていた。
「ヴォルフ先輩」
名前を呼んで直ぐに、後悔は頂点に達した。
そっぽを向いた狼の顔は非常に険しい。不快だと持ち上げた頬の筋肉が瞳を潰し、自然と眼光は鋭くなっていた。
「すすす、すみません。そうですよね。考えろって言われたのに、いきなり相談するなんてなしですよね」
引き攣った笑みに目もくれず、ヴォルフは呼び返す。
「アシュロン」
低い声は、彼女を咎めるものではなかった。
「あんなイベント……予定されてねえよな」
声に釣られて、アシュロンはヴォルフの視線を追う。
斜め上方。青空をひらめく白い紙吹雪は、春祭りを彩るにはあまりにも味気なく、あまりにおぞましい群れだった。
「なんですか……あれ」
一枚一枚の魔力は薄くとも、紙吹雪にもなれば桁が違う。
人の形をした【式紙】が大量に舞う。運営側にいる"王宮騎士団"すら知らないイベントが、上空をたゆたっていた。
不安が、空の青すら覆い尽くす。
ゆっくりと、上から落ちてくる魔力の重圧。
不穏な気配にアシュロンは言葉を失う。
ただ先輩の声だけが、真っ白な頭を貫いた。
「構え」
何千、何万回と繰り返された訓練の合図。
次に来る言葉を予測し、自然と右腕が持ち上がる。
人差し指は空に照準を定め、静かに命令を待った。
「――発泡」
【定点着火】
撃ち方の合図と同時に、撃鉄は落ちる。
青空のキャンパスを焼き、赤色が塗りたくられる。
火の勢いで難を逃れた【式紙】が空を揺れるも、アシュロンは止まらない。
「続けろ。ありったけ燃やせ」
勝ち気な鬼軍曹が、そう続けることも知っていた。
いつもは恐怖しか覚えない傲慢な言葉遣いが、頼もしい。
不安も緊張も、どこかに吹き飛んだ。いつもの訓練の延長線上だと思えば、警備体制の見直しよりも余ほど簡単だった。
燃える華が何度も咲き誇り、一方的に【式紙】を殲滅していく。
部下のまずまずの働きに鼻を鳴らしてから、ヴォルフは状況を確認する。舞い散る【式紙】は無規則にばら撒かれたようにも見えるが、わずかな違和感が狼の勘に引っかかった。
視点は前でなく上。獣の目は王都を俯瞰する。
「十字通り……いや、南北ラインに偏ってんな。特に5区が重い」
「春祭りの混乱に乗じて、何かするつもりでしょうか」
「さあな。派手さの割にゃあ、ずいぶんと杜撰な計画に思えるがな」
仮にヴォルフが敵の立場なら、もっといやらしく立ちまわる。
それこそ全区画に満遍なく【式紙】を撒き散らし、"王宮騎士団"の手が回らない状況まで追い込む。女王さまに要求を突き付けるのであれば、無辜な国民を人質にかけて、見せしめにまず首を一つスパン。春祭りの盛況具合であれば、人質は取っ替え引っ替えである。
「……ヴォルフ先輩。凄まじい悪人面を浮かべていますが」
「うるせえ。人の顔色窺ってる暇があったら回転上げろ。2区上空よりも、5区の方が酷えんだから。ほら、もっと向こう側も燃やせ」
「さすがに射程範囲外ですよ」
「ち――ッ! だからテメエは半人前なんだよ」
教育担当として、ヴォルフは教え子の射程範囲など百も承知である。
その上で無茶ぶりするのだから質が悪いと、アシュロンはため息を落とした。
上空数十キロ先を燃やしても半人前扱い。想像を絶する世界に憲兵が呆気に取られていると、メガネ中隊長が檄を飛ばした。
「上ばかりに気を取られないで下さい! 上空に視線を釘付けにした隙に、恐らく地上からも仕掛けてきます。2区警備隊は、二人一組で国民の避難を最優先。3区の学校施設に臨時の避難所を設けて、誘導してください」
先ほどまで半べそをかいていた者と、同一人物とは思えない。
「返事は――ッ!」と窮地に追い込まれた赤ぶちメガネが吠えると、憲兵は「サー」の掛け声を返すや否やペアを作る。憲兵の二人組は、銃弾のように飛んでいった。
「さっき言っただろうが、そういうのは情報共有すんだよ」
ベルトにぶら下がる革の小物入れに手を突っ込み、ヴォルフは魔法石を取り出す。多人数会話モードにすると、他の騎士団員たちと繋げた。
「元7区警備隊は南下して5区警備隊に合流しろ! 一番混雑している区画だ。人間ドミノが起こる前に、東西のゲートから外に人を流せ」
「良いよな、メルフィ」と大声で確認すると、返答がくる。
『あらあら、助かるわあ。もう、てんてこ舞いでどうしようかと』
「まだ余裕ありそうだな。『あらあら』言えないまで使い潰してやるよ」
ヴォルフが盛大に舌打ちを立てると、鬼の中隊長を恐れた元7区警備隊が走りだす。軍靴の歌が響くのが後一歩遅ければ、どやされる程度では済まなかった。
「ちんたらしてんじゃねえぞ。働け働け、国民の奴隷ども! 誰に飯食わせて貰ってっと思ってんだ。給料泥棒扱いされたくなきゃ、税金分ぐらいは働いてみせろや――ッ!」
背中を煽る怒号は、感情論を唱えるだけで終わらない。
手勢が薄い東西ラインを確保して、外へと逃がすよう命令を飛ばしていく。口角から泡を飛ばしながらも、命令の機関銃は切れることを知らない。
隊長格を除けば、魔法石から続く声は「サー」の一言。
口答えはおろか会話を挟むことすら憚る空気のなか、さらりと軽薄な声が混じった。
『はいはーい。横から隊長が失礼しちゃうぜ』
戦略室に待機する大隊長――クトロワは部下へ助言を渡した。
『1区は"法の薔薇園"、9区は"鐘鳴りの乙女"に任せちゃいな。拠点を構えている区画を堂々と放置するなんて真似は、正規の魔法少女のすることじゃないだろ? 四大組織を預かる長の一人として、私は彼女たちの良心を信じているよ』
良心には任せるが、要請は出さないのが"王宮騎士団"流である。
グレーゾーンの仕事は向こう側の境界線に追い遣り、甘い蜜は一滴すら外に渡さない。それこそが、騎士団長の身につけた処世術だった。
『……貴様は、相変わらず最低だな』
不快ながらも、ローズは否定しなかった。
小賢しいのは確かだが、悪手ではないと認めているからだ。
もっとも、その様な感情の機微に狂信者が気づくかどうかは別の話である。
『ピンク髪、どさくさに紛れて死ね』
『……口には気をつけろよ、ド低能』
テラス席で待機中のワルウが噛み付くと、負けじとローズが噛み付き返す。
クトロワ狂信者と天才魔法少女が、魔法石越しに火花を散らす。あわや口喧嘩に発展する前に、慌ててアシュロンが仲裁に入った。
「こんな時に止めて下さい、お二人とも!」
――黙れ、メガネ!
息のあった口撃が飛んできた。
魔法石からは、押し殺した笑い声が漏れてくる。真横に位置するヴォルフに至っては全く隠す気もないのか、大口開けて笑っていた。
『ぶふぅー、失礼だぞお前ら。アシュロンは真面目に、ぶふぅー』
「……隊長。庇うのか笑うのか、どっちかにして下さい」
喧嘩の熱が引くのを見計らい、クトロワは笑い声を殺す。
軽薄な声を喉に収め、空白の間に号令を差し込んだ。
――さあ、そろそろ行こうか。
その一言だけで"王宮騎士団"は引き締まる。
アシュロンは肌を震わせ、ヴォルフは静かに牙を剥く。
メルフィの笑声には艶が増し、魔法石の向こう側からは一際派手な音が鳴り響く。ローズが暴れだしたのは、誰の耳にも明らかだった。
「さてと、あたしも行くとすっか」
ぼふっ、と大きな掌がアシュロンの頭に落ちた。
「感謝しろよテメエ。先輩が直々に尻拭いに行ってやらあ」
「尻拭いって……7区の職人街のことですか」
「8区もだ。一区画だけの警備なんて、退屈で欠伸が出らあ」
事も無げに言いのけると、ヴォルフの足元から水たまりが広がる。
浅い水面から顔を出す獣は一匹、二匹と、際限なく増えていく。
グルルルと低い唸り声が重なる。百にも及ぶ【水狼】を従えると、リーダー格の狼は【小袋】から杖を取り出した。
「あの……春祭りでの飛行魔法は、禁止行為では」
「はあ? お前、本当に馬鹿なんじゃねえのか!」
不敵な笑みを浮かべて、上司は自己を主張する。
「あたし以上の規則が、この世に存在するかよ」
スピード狂の杖は空を掻っ切り、狼の群れが空を駆ける。
喧しい吠え声の群れが遠ざかっていくと、絶句した地味メガネだけが取り残された。何もかもが理不尽で、誰も彼もが規格外。
「……転職を考えるべきなのかもしれない」
嘆いてから、通話が継続していたことに気づく。
アシュロンは急いで切ろうとするも、無用の心配だった。
喧騒に紛れて、穏やかな寝息が聞こえてくる。待機令を受けたワルウが、全力でお昼寝に励んでいるようだった。
「……騒動の中心地で居眠りって」
直ぐにでも辞表を一筆したい気持ちで胸一杯だが、辞表は明日にでも書ける。今は目の前の仕事をこなすのが先決だと、アシュロンは憲兵に指示を飛ばした。
(そうやって、明日も職場に来てしまうんだろうな)
優柔不断な若手騎士にだって確信が持てる。
"王宮騎士団"に配属が決まってから365日、1日足りとも考えることを止めなかった思案ルーティンであるからだ。
日々の憂鬱は重く、彼女は人知れずため息をついた。
「アシュロン中隊長、大変です!」
天は一時の憂鬱すら許してくれないのか、憲兵が息せき切って駆けてきた。
「今度は何ですか。どこのご令嬢が、無銭飲食を働いたのですか?」
「冗談を言ってる場合ですか。ふざけるのも大概にして下さい――ッ!」
恐ろしい剣幕で詰め寄られ、部下からも叱責を受ける。
小心者が背筋を正すと、恐ろしい情報が舞い込んできた。
「人質を盾にとった【式紙】が北上しています。一刻を争う状況です」
思考停止に陥ってから、数瞬後に回復。
アシュロンは高速で首を振るが、頼れる者は誰もいない。
つい数分前にヴォルフは箒でかっ飛び、ローズは2区から3区に向けて【式紙】の殲滅戦に参加しに向かっていた。
「直ぐに向かいます。案内してください!」
猶予のない状況が、本音とは裏腹の言葉を吐かせた。
アシュロンは正義感の溢れた魔法少女でもなければ、そこまで責任感が強いわけでもない。それでも誰も事に当たれない状況であれば、自分が動くしかなかった。
憲兵の先導に従って十字通りを下ると、報告に上がった【式紙】の姿が視認できた。人質を紙の腕で巻き取った人型は、踊るように揺れる。
憲兵は人質に躊躇して、満足に剣を振るうことすら叶わない。
【式紙】はひらひらとやり過ごすと、減速することなく突っ込んでくる。
白い石畳の大通りで、目のない人間とアシュロンの視線が絡み合う。
直線距離にして約200m。魔力を帯びた【式紙】は空気抵抗を無視する。媒介が紙とは思えぬ動きを見せた。
レンズの向こう側で、白い身体がぐにゃりと曲がる。
二筋の剣閃をいともたやすく潜ると、白色が視界を占める割合が増す。
直線距離にして約100m。挟み撃ちを避けられて、憲兵の剣が交わる。金属音とともに火花が煌めいた。
火花が散る間に【式紙】はぬるりと加速する。
アシュロンを案内した憲兵が前に出る。勢いそのままに刺突を放つも、ターンを決めて【式紙】は前方へと消えていく。
直線距離にして約30m。魔力の匂いを嗅ぎとった紙の身体が、かさかさと震えた。憲兵とは違う得体の知れない存在を気取るも、操り人形は止まれない。
空手の細長い左腕が、アシュロン目掛けて伸びる。
首を巻き取りに来た左手は、すんでのところで燃えた。
――と、同時。
【式紙】は嘲笑うようにアシュロンの頭を跳躍。
痛覚を持たぬ身体は、左腕を切り離して風に乗る。
「構え」
誰もが上を見上げるなか、彼女は身動ぎ一つしなかった。
「発泡」
寸分違わぬ火種が灯り、悶絶するように【式紙】がはためいた。
落下する人質を受け止めると、やっと緊張の糸を切ることができた。
「ふう。上手くいって良かった」
安堵のため息を着くと、どっと冷や汗が流れた。
人質を抱えた薄っぺらな【式紙】を撃ちぬくというのは、並々ならぬ技量が要求される。アシュロンの知る由もないことだが、"翠の風見鶏"にはできなかった芸当である。
人質を救出した歓喜とアシュロンへの賞賛。
2つの感情はゆっくりと混ざり合う。見知らぬ少女が拍手を送ったの皮切りに、ぽつぽつと掌を叩く音が波紋のように広がった。
春風が通り過ぎると、火照った身体が冷えていく。
アシュロンは、ぎゅっと右手を握る。仕事の実感を逃げないように、腹の底からこみ上げるものを逃さないように、この手に掴んだ熱を大切に仕舞った。
「さあ、仕事はまだこれからですよ」
黒髪の乙女を憲兵に引き渡すと、アシュロンは照れ隠しに発破をかける。
打開とまではいかずとも、着々と状況は好転しつつある。
部隊の士気が高いのも肌でわかる。2区の状況次第では、勢いこのままに5区の応援に駆け付けるべきか。
「おっと、情報連携しなくては」
初心に帰り、アシュロンが魔法石の通話を入れたときだった。
悲鳴が続く。落ち着いたはずの混乱が、再び王都を席巻していった。
人型の紙吹雪。一度植えつけた恐怖を喚起する、恐怖の象徴が空を覆う。
目算でも第一陣の二倍に相当する白紙の雪が、しんしんと舞い落ちてくる。まだ混乱の渦中にある5区への駄目押しになることを明らかだった。
「空にあるうちなら」
距離が遠い。アシュロンは走ると同時に【小袋】を展開する。
二度目の規定違反だが、上長の口から直々に許可を聞いている。黒い穴から杖を抜き取り、助走をつけて一気に跨る――それが理想だった。
右のつま先が左の踵を蹴ったとき、浮かんだ言葉はただ一つ。
しくった――ままならぬ身体に憤りを覚えつつ石畳を転がる。
地面を支えた杖は真ん中から折れ、赤ぶちメガネが飛んだ。
緊張の糸を切ったのが仇となり、全身の筋肉が弛緩していた。
目の前の手柄一つに浮かれて転けているようでは、世話ない。ヴォルフの怒り顔が脳裏を掠めると、アシュロンは必死に腕を振ってメガネを捜索した。
「どこ、私のメガネどこ?」
不鮮明な視界を振り回していると、ふと赤色がちらついた。
冷静になると、やけに周囲が静まり返っていた。嫌な沈黙ではない。何かを期待するような空気が場を満たしていく。
アシュロンは、落ちていた赤ぶちメガネを拾い上げる。
鮮明になった視界に広がるのは、夕暮れよりも赤い緋色。
遠く高みにいる人物は、豆粒大であろうと存在感を失わない。
真似して焦がした緋色の髪が、輝いていた。
これから彼女が成すであろう偉業を祝福するように、荘厳な鐘の音が鳴り響く。
口ずさむようなリズムで、緋色の英雄が何かを告げた気がした。全貌を捉えられずとも、アシュロンにはわかる。なぞるように呆けた声が出た。
――ばきゅーん。
緋色の空が落ちた。
晴天に瞬く無数の赤い星が、赤い尾を引いて落ちていく。
赤い流星群が降り注ぐ光景は息を呑むほどに美しく、己の無力を嫌でも思い知らされる。空にいようが地上にいようが、お構いなし。
天上の一線級は、上からすべてを焼き尽くす。
入り組んだ路地に潜む【式紙】も、魔力探知を付加した【火矢】が例外なく討ち取った。
膨大な量と、逃走を許さぬ圧倒的な速度。細部にまで技巧を凝らした芸術が、上空を見上げる全ての者の瞳を灼熱に染めた。
"鐘鳴りの乙女"の一員にして、若手ナンバーワンの呼び声高い魔法少女――マグリア=マグマハート。
轟く歓喜の渦が、賞賛の嵐が、止むこと無く地上から押し上げられた。
国中が地響きを起こすと、アシュロンの脆い足元が崩れるようだった。
誰もが天井を見上げている。地上であった小さな事件など忘れ、付近にいる者までもが興奮のるつぼのなかにいた。
先ほど掴まえたはずの熱が、手から消え失せていく。
届かない。あまりにも遠い存在は、アシュロンから小さな自信まで根こそぎ奪っていった。
「明後日……辞表を出そう」
365日欠かすことがない思考は、妙な現実味を帯びていた。
春祭りの警備を終える前に辞めるのでは、迷惑をかけてしまうから。
アシュロンが提示した期日は、漠然とした明日ではなかった。




