峠の老婆
昔々、暗い峠道を歩く旅人がいました。その旅人はどういったわけにかその日はなにもかもが予定外で、夜までに次の宿場にたどり着くことができなくて難儀をしていました。
もう日もとっぷり暮れてしまっています。さみしい峠道、宿のあてなど当然ありません。
このあたりは追いはぎも出るというし、不安な心地です。
そんなときでした。
道の先にポツンと灯りが見えます。
近づいてみると、どうしてこんなわびしいところにと思うような立派な茅葺きの家がポツンと建っていました。
旅人は、土間でも納屋でもなんでもいいから、一晩の宿を頼めないかと期待してその家の戸を叩きました。
出てきたのはひとりの老婆でした。髪の毛はすっかり白くなってしまっているけれど、きちんと梳いてうしろでくくっていて、親しみやすくやさしげな風情のお婆さんでした。
旅人がわけを話すと、老婆は「まあまあ、冷えたでしょう。お入りなさい」と旅人をあたたかく迎い入れ、湯で足を洗ってくれて、板の間にあげてあたたかい飯をごちそうしてくれました。
そのうえに自分は板敷きの間で寝て、旅人には上級のお客さんしか入れないザシキに案内してくれたのです。
旅人はお婆さんに感謝して、床につきました。
ところが、真夜中に「シャー、シャー」という音がしてきました。
それは一定のリズムで繰り返し、ちょっとした間をはさむとまた「シャー、シャー」と続くのです。
旅人は物騒な噂を思い出しました。山には、旅人を食ってしまうという鬼婆がいると。
引き戸の影からそうと覗くと、土間にかがみ込んでなにかしている老婆がいました。
もうちょっとだけ戸を横にずらします。
「シャー、シャー」という音が止まりました。すると、老婆が上体を起こして何をしているのか見えました。
老婆は手に包丁を持ち、顔の前にかざしてその切れ味をたしかめているようです。
そうです。老婆は真夜中に隠れて包丁を研いでいたのです……!
これはもう、アレだ、アレしかない、と旅人は焦りながら考えました。あの包丁でおれのことをぶすりとやって、捌くに違いない……!
そう思い込んだらもうこわくてこわくて、旅人はとるものもとりあえず、荷物を全部ほっぽりだしてほうほうの体で逃げ出しました。
それに気づいた老婆が逃げてく旅人に声をはりあげて問いかけます。
「ありゃー、お客さん。どうなすったかね!」
「えぇい、どうもこうもねえやい! おまえさまがおそろしいから逃げるんだ。飯はおいしかったけどよ! ごちそうさま! でも、夜中に包丁なんかこそこそ研ぎやがって……おれが朝飯になるのはごめんだってえの」
そういい残してすたこらすたこら逃げてく旅人の背中を見て
「あ~あ、おいしいご飯のコツは切れ味のいい包丁だっていうのにねえ。ばかだねえ」
と、老婆はため息をついて家に戻りました。
そうして、旅人が置いていった荷物を紐解いて、絹の反物やら貴重な食料やら銭やらがあるのを見つけ
「あのお人が置いていったんだからこれはわたしのモノさね」
にんまりニコニコ、うれしそうにしました。
その姿はやっぱり親しみやすくやさしげで、そして賢いお婆さんに見えましたとさ。
それが見る人によっては、鬼婆に見えるのかもしれません。




