24話 専属侍女の心酔※ネネ視点
「あぁ……今日も美しい寝顔」
毎朝、仕えている主カトリーナの寝顔を見ることからネネの一日が始まる。
肌は陶器のように白く、輪郭は滑らか。紅を差していないにもかかわらず唇は艶やかで、閉じられた瞼のまつ毛は絵筆のように濃密。真っ白なシーツには薔薇を散らしたように赤い髪が広がっていて、まるで花の女神が降臨したかと見紛うような光景となっている。
この世で最も美しい人が、無防備な姿を見せていた。
(どんな親かもわからない卑しい生まれの私に、このような褒美を毎日くださるなんて……!)
ネネは物心ついたときから教会の孤児院にいたが、そこでの生活は酷いものだった。
表向きはどのような子どもでも受け入れ、育てるとされていたが、実際は闇組織の拠点。
ストレスのはけ口として暴力を受けるのは珍しくなく、食べ物も死なない程度にギリギリの量。
将来は闇組織の一員になるか、どこかの金持ちに売られるかの二択だが、基本的に女の子は偏った性癖の男か娼館に買われて体を売る運命。
真っ当な職に就く未来は用意されておらず、ネネは偽りの礼拝堂に救いを祈りながら、売られる日に怯えるように過ごしていた。
だが十二歳を迎えたある日、運命が変わった。
『ペットがほしいと思っていたの。捨て犬みたいな汚いその子、屋敷で飼うわ』
孤児院の慰問で教会に足を運んだという公爵令嬢カトリーナが、そう言ってネネを買い上げた。
純潔を無理に奪われるようなことは避けられたみたいだが、ペットだなんて一体どんな扱いを受けるのか――ネネは不安でいっぱいになりながら屋敷での生活が始まった。
そして最低限の教養は身に着けるべきだと教育を受けている間、ネネの耳に入ってくるのはカトリーナの横暴っぷりと、次々と解雇されていく可哀想な使用人の話題ばかり。
きっと自分も、一か月ほどで捨てられるのだろうと思っていた。
しかし、実際はどうだろうか。カトリーナの我が儘は闇組織の構成員と比べれば可愛いレベル。
暴力を振るうときもネネに完全に非があるときに限っており、理不尽に拳を上げることなく、必ず正当な理由が存在していた。
首輪を繋がれて庭を散歩したり、床に置かれた皿から食事をするよう命じられたこともあるが、屈辱を通してネネに二度と過ちを起こさせないという情が感じられた。
それでいて体調を崩していることを見抜くと、手荒ではあるがカトリーナ自ら療養を管理してくれる。
信頼の証と言わんばかりに、本来は数人で受け持つような侍女の仕事をすべてネネひとりに任せてくれている。
カトリーナからこれほどの手厚い施しを受けているのは、屋敷の中ではネネだけ。
巧みな飴と鞭の使い分けにすっかり溺れてしまった彼女は、カトリーナから与えてもらえるものならなんでも嬉しくて仕方ない体になってしまっていた。
(ペットとして拾っていただいたのだから、全力でお嬢様の犬にならなければ)
ネネは今日も誓いながら、カトリーナに目覚めの声をかけた。
***
「じゃあネネ、例のものの入手頼んだわよ」
「承知しました」
昼下がり。カトリーナがオペラ鑑賞をしている間、お遣いを任されたネネは劇場から離れてひとり商店街へと向かった。
今度のミア虐めに必要らしい珍しいインクを求めて、候補をいくつか購入していく。
このミッションを知らされているのも、ミアを除いたらネネだけ。それがまた特別感があっていい。
「おや、ネネさんではありませんか」
インクが何個も入った紙袋を抱えたネネがお店を出たタイミングで、男性に声をかけられる。
これがただの知り合いなら良いのだが、残念ながらネネの苦手な相手の声。彼女は微笑みを顔に貼り付けつつ、冷ややかな眼差しを向けた。
「アルト様、ご無沙汰しております」
今日のアルトはお忍び用の軽装で、目元を隠すように前髪を降ろしている。
出会った頃はネネよりも小さかったのに、すっかり大きくなってしまった。
「今日はネネさんひとりなんですか?」
「えぇ、今日はお嬢様に頼まれた物を買うだけですので、私ひとりですよ。残念ですがお嬢様は――」
「オペラ鑑賞、ですよね。クレマ公爵家がパトロンになっている女優の初主演作の千秋楽。楽しんでいると良いのですが」
「……」
感情の籠もらない微笑みをアルトに返されたネネは、警戒モードに入る。
今日のオペラ鑑賞は、カトリーナが「学園が午前授業だから、午後にでも行こうかしら」と、前日に気まぐれで決まったものだ。
親しい関係者にしか知られていない情報を、アルトが知っていることが気になった。
(アルト様はどこから情報を得たの? カイン殿下だけ見ていればいいのに、欲張りな人)
ネネにカトリーナがいれば良いだけと同じように、アルトもカインだけで満足してほしいのに、この男はふたりとも得ようとしている貪欲さがあるので好きになれない。
「そういえば外商を使って取り寄せることもできるのに、カトリーナ嬢がわざわざネネさんを遣いに出すなんて珍しいですね。今日は何を買ったんですか?」
「こちらの雑貨店でインクを数個、買わせていただきました。外商が取り扱うようなものではない、いつもと違うインクで試したいことがあるのだとか」
「なるほど」
わずかにアルトの声の質が変わったのを、ネネは聞き逃さない。
「真剣に考えごとをなさる時間が多いので、気分転換をしたいのかもしれません。近頃の帰宅したときのお嬢様は、少々お疲れのようですから」
「……疲れている以外に、何か変わった様子はありますか?」
「どうしてそこまでお聞きになるんですか?」
「敬愛するカトリーナ嬢がお疲れだなんて、やはり無視できませんから」
アルトが作り笑顔を深めた。
カトリーナは「アルト様の笑顔に癒されるわぁ」と言っているが、まったくもってネネには理解しがたい。
腹に何を隠しているか、分かったものじゃない。
けれど、今ので確信した。
(お嬢様が、そろそろカイン殿下の手先が大胆に動き始めるだろうと予言していたけれど、アルト様が来たのね。密かにお嬢様のスケジュールを把握し、さりげなく入手物を確認し、しれっと屋敷での様子を探ろうとしているようだけれど……お嬢様の手のひらの上ですよ? アルト様)
カインのスパイが接触しやすいようネネひとりを何度か遣いに出しているのも、今後ミアの嫌がらせに使う道具かもしれないと教えたのも、カトリーナが思い詰めていると誘導したのも、全部愛する主人の読み通り。
カインの右腕アルトが直々に接触してきたのだけ、予想外だけれど。
(でもアルト様に、お嬢様に頼まれて買ったインクを見せることができた。側近が得た未来の証拠は、より信憑性が高くなる。ふふ、お嬢様が犯人だという繋がりをここで作れてよかった)
ネネはカトリーナに褒めてもらえるかもと、喜びのまま笑みを浮かべた。
「ご心配ありがとうございます。お嬢様のことは、私が誰よりも熟知していると自負しております。侍女としてしっかりお支えしますのでご安心ください」
「ネネさんも、カトリーナ嬢を敬愛しているんですね」
「もちろんです。朝起きてから寝るまでともにいることを許していただき、御身に触れて世話をする褒美をくださり、真の侍女とはどんなものかを手ずから教え込んでくれる……こんなにも素晴らしい主に出会えたなんて、幸せ以外のなんでもありません――……コホン」
思わずスパイ相手にうっとりと語ってしまったネネは、慌てて使用人らしい微笑みに表情を戻す。
一方で、なぜかアルトは軽く眉間に皺を寄せた。
「では、カトリーナ嬢が大切な主というのならお願いがあります」
「それは、どのような内容でしょうか?」
「もしも、の話になります。高潔なカトリーナ嬢がまさかとは思いますが……万が一、彼女が誤った道を進もうとしていたら止めてください。もしネネさんでも止められないときは、僕に教えてください。変なことを言ってすみません。では、僕も買いたいものがあるので」
アルトは口早に一方的に告げると、完璧な執事の仮面を被り直してネネがインクを買った雑貨店に入っていった。
(先ほどの顔、心からお嬢様を案じる顔だった。確かにお嬢様が道を踏み外して、よくも分からない人間からも後ろ指さされるのは気に入らない。でも、私は止めませんよ)
カトリーナの計画の邪魔をして、捨てられるなんてことになったら最悪だ。
それに――。
(お嬢様の計画通りにいけば、田舎の領地に行くことになる。外出することもなく、ご家族以外なかなか会うことはない。そう……お嬢様を独占できる時間が格段に増える。私にはお嬢様しかいないように、お嬢様にとっても私しかいなくなるとしたら…………あぁ、最高だわ)
ネネは婚約破棄後の生活に思いを馳せながら、軽やかな足取りで劇場へと戻っていった。








