大嫌いなあの子
4月5日
あの両親が死んで、使いきれないような遺産だけが残ったあの日から、趣味に没頭する生活はもう10年以上続いている
生活に不満はないが最近は肝心の趣味で行き詰っている
何かしら新しい着想が得られればとこうして日記を書き始めたが、そう続くとは思えない
自分の事ながら、昔から趣味以外にまるで興味を持てなかったからだ
何を書くべきか思いつかないが、取り敢えず自分の趣味について書いていこうと思う
俺の趣味はぬいぐるみを収集する事、といっても最近は自分で一から作成することが多い
材質をこだわり、気に入った素材を取り寄せ、これまで作り上げた作品は千を超えている
デザインやサイズの設計から実際の裁縫まで自分の手で至高の作品を作り上げるのを目的にしてきたが未だに自分が満足できるものは作れていない
布一つ綿一つ、あるいはちょっとした形の崩れや色合いのミスで全てが台無しになる作品作りは非常に奥が深く――(以降趣味についての記載が数ページに渡っている)――
4月7日
前回日記を書いたときには趣味について書き過ぎた
これではいつもやっている事と変わらない、今後は同じ事をしないように注意する
最近の事と言えば、世間は“連続児童誘拐事件”とやらで騒いでいる
正直事件の顛末に興味はないが、ここまで大事を起こして捜査機関を煙に巻く方法は気になる
その方法がもしも俺も使えるなら、やりたい事がある
4月25日
やっぱり興味の無い事は続かない
まだ三回目の日記なのに二週間以上間が開いた
もう書く気力もあまり無い
そう言えば例の誘拐事件が解決されたらしい
なんでも子供を誘拐して、親を脅して、捜査の撹乱をしていたとか
頭が回る奴らだと感心したが作品の着想にはなりそうにない
そんな事よりも誘拐の手段を公表してほしかった
6月3日
日記の存在を随分忘れていた
行き詰りは未だに解消されていない
苛立つ、何で急に自分の作品で満たされないのか分からない
6月8日
こんなのじゃ駄目だ
自分で作ったぬいぐるみに満足できない
完全に行き詰っている
形も色合いも触感も納得できない
人型に対する理解が足りないのだろうか
6月29日
超能力ってなんだ?
それは人としての才能なのか?
俺には無いのだろうか?
手に入れる方法は無いのだろうか?
10月10日
薬が届いた
11月17日
この力は素晴らしい、大金を掛けて手に入れただけはある
ずっと満たされなかった欲求が、足りないと思っていた全てが、あらゆる美が詰まった傑作がこんなにも集まった
俺の作ったぬいぐるみは完璧だ
年代に合わせて、性別に合わせて、この世の人という形をコレクションしていこう
後は、どんな要素があれば良いだろう
……ああ、そう言えば男子高生は集めたけれど女子高生はまだだった
‐1‐
薄灯りの部屋の中で対峙した、犯人の男の怒りが込められた視線を真正面から受けた私は震えるギャル子さんを抱え、静かに状況を分析する。
視線は合っている。
つまりギャル子さんの話にあった、異能の効果条件は満たされている筈。
当然、男が異能を使用しようとする意思が少しでも読心出来れば、即座に認識をずらす用意はしていたが、条件を満たしている筈なのにその思考すら過っていないのは妙だ。
恐らくは、と私は当たりを付けた。
「アンタふざけんじゃないわよっ!」
そんな事を考えていた私を余所に、ギャル子さんが体を震わせながら吠えた。
怒りと恐怖がごちゃ混ぜになった感情を男に向けて、叩き付ける様に声を荒らげている。
そして男はそんなギャル子さんの叫びに視線を私から彼女に移し、心底どうでも良いと言うような表情を浮かべる。
「アンタがどんな価値観を持っていようと関係ないっ! 妙な力を持っていても関係ないのよ! それを私達に押し付けるんじゃないわよ!! 勝手に私の体をぬいぐるみにして、勝手に所有物みたいにほざいてっ、何様のつもりよアンタ!!」
「……」
「お金も時間もあるアンタみたいのには分からないかもしれないけどねっ! こっちは必死にやりたいことをやってんのよ! お金も時間も惜しいのよ!! こんなふざけた事に巻き込んで他人の人生に迷惑を掛けんな糞男っ!!」
正論。
恐怖に打ち震えているギャル子さんから出た言葉はきっとそうなのだろう。
けれど、正しいか正しくないかなんていう話は、この場において意味を為さない。
犯人である男を責め立てる彼女の言葉は、何一つとして男に響いてなどいないのだから。
「馬鹿アホ陰険不細工っ――――「静かにしろ」…………!!??」
突如として口を噤んだギャル子さんが驚愕で目を白黒とさせる。
今のはただの暴言だったような気はするが、男の一言でギャル子さんが縛られた様に口を噤んだ事が何よりも重要。
ギャル子さんの意思に反して、彼女の体が動いた。
強制的に従わされたと言う事だ。
彼女は今、只のぬいぐるみのように声を発する事が出来なくなっている。
「『ぬいぐるみ』が所有者の意に反した行動をできる訳ないだろ? 君はもう汚らしい人間という生物じゃなく、純粋無垢な『ぬいぐるみ』と言う物なんだ。君のこれまでの過去も、もうすぐ消えてなくなる。なんの恐怖も絶望も無い、他の子達と同じようになれる」
「っっ……!?」
それが当然だとでも言うように、男はギャル子さんに向けて手を差し伸べる。
「さあ、ご主人様の手に自ら戻って来るんだ。他ならない君自身の意思でね」
「っ――――」
男のその一言を切っ掛けとして、一瞬だけ異能の出力ラインが出来上がる。
数時間前に探知した時と同様、一瞬だけの異能使用。
私はそれを見逃さなかった。
「……あ、れ?」
「…………なんだ? どうして口を動かせる? 早く、俺の元に来るんだ」
捻じ曲げられた存在の在り方へと強制するように、ギャル子さんが自ら自分の元に来るように指示したのにそれが為されない。
自分が望む結果が得られない事に困惑する男と状況が分からず首を傾げるギャル子さん。
どうして、何が起きて、誰が介入したかも、彼らはほんの少しだって気が付けていない。
当然、介入したのは私だ。
こうして相対し、間近で男の異能の使用を観察することが出来て、大体の事が分かった。
男の異能の性質も、対象への干渉ラインも、その阻害の仕方も、それらのおおよそを掴め、実際にギャル子さんへの行動強制を邪魔する事に成功した。
目の前の男の非科学を解き明かす、その第一歩を私は達成したのだ。
「なんだ……一体何が……これまで、一度だってこんなことは……」
「ふっ……何を驚いているんですか? この子は貴方の持ち物じゃなければ、『ぬいぐるみ』なんかじゃない。生きている人間です。貴方の醜悪な願望を満たすための命令なんかに従う義務なんて無いんですよ。私からも言わせてもらいますけど……何様のつもりなんですか?」
「お前っ、何も知らない癖にっ……!!!」
今にも泣きそうなギャル子さんを抱え込むようにしながら、私はもう一つの手にこの男の対策と成り得る物をしっかりと握り込む。
そして、私の挑発に苛立ちを隠し切れない男はぶつぶつと小さな声で呟きながら、自分の目を覆うように片手を当てた。
「……まだあまり時間が経ってないから命令を聞かせられないだけだ。そうだ落ち着け俺。今の状況は俺にとって悪い要素は無いんだ。変に熱くなったら出来ることも出来なくなる。楽しい事を、考えないと……ふ、ふふふ……そうだ。俺の眼は正しかった。俺が選んだ子は感情的な頭の悪い子供だった。見た目や年齢通りの頭の悪い行動をしてくれる、俺のコレクションに欲しかった期待していた通りの子だったんだ。対照的に、俺の琴線に触れなかったアイツは気味が悪い。この状況でも冷静で、見た目や年齢とは掛け離れたようなあの態度は俺にとっては汚物のようだ。そうだ、俺の価値観は何時だって正しかった。ああ、そうだ。だから今の――――こいつを出来るだけ悲惨な目に遭わせてやりたい俺の欲求は正しいものなんだぁ……!!」
いくら相手を追い詰めているからと言って、相手から視線を切るのはどう考えたって下策だが、それが必要な挙動だと考えるならどうか。
この男の異能は一見凶悪な性能を誇っているように見えるが、その実態はあくまで強制的に異能を開花させただけのもの。
それも『UNN』が流通させて問題ないと判断した、これまで見て来た製品からさえ数段劣るであろう品質の薬品によって開花させた非自然的現象。
才能としては欠陥が多く、自然的なものと比べると歪だろう。
(異能の出力の流れが目元に集まっている……)
ゆっくりと開かれていく目には、数時間前にも感じた異能の出力が宿っていて、それは強い攻撃性を有している。
間違いなくギャル子さんに行ったような、人を無機物に変える異能の行使が行われる前兆。
男が行ったこれまでの、無駄にも思える所作は、男の異能使用にとって必要不可欠な要素。
だとすれば、現時点での男の異能は単発装填式の視線を介す必要のある異能と言う事だ。
それなら対処はいくらでもやりようがある。
「ぬいぐるみとなったお前を八つ裂きに――――」
「目潰し出来るほど強力なライトって、本当は人に向けちゃ駄目なんですけどね」
対処方法その一、目潰し。
私が手に用意していた強力ライトによる強烈な光が、薄暗い部屋を貫いた。
目が開く瞬間を狙った超強力ライトによる目潰しは的確に男の目に突き刺さり、一呼吸おいて男の絶叫が部屋に響き渡る。
薄暗い場所で瞳孔が開いていたのだろう。
当然異能の使用なんてままならず、悲鳴を上げながら両手で目を抑え、フラフラとバランスを崩した男が近くの棚に何度もぶつかり、整理されていたぬいぐるみ達が床に落下する。
怒りと痛みによる獣のような咆哮を発し、闇雲に拳を振り回す男。
恐ろしいそんな光景を無視して私はギャル子さんに話し掛ける。
「不調はありますか? 証拠は回収できたので逃げますよ?」
「わ……たし……」
「大丈夫、何とかなりますから」
それだけ言って、私は狂乱状態の男の横を駆け抜ける。
そして、目を抑えて暴れていた男も私達が逃げようとしている事に気が付いたのだろう。
未だに機能しない目ではなく別の方法で私達を攻撃する為に、怒声に近い声で命令した。
「俺のぬいぐるみを逃がすなァァァ!! 捕まえろォォ!!!」
それは誰に向けた命令だったのか、答えはすぐに分かった。
――――その声に反応したのは、部屋中に飾られていたぬいぐるみ達。
何の感情も浮かばない宝石のような大量の黒い瞳が、ぐるりと私達に向けられる。
そして、ギャル子さんがいくら声を掛けても反応すらしなかったぬいぐるみ達が軍隊のように一斉に棚から飛び出して、逃げる私達を追い掛け始めた。
床を埋め尽くすようなぬいぐるみの群れはそれほど速い訳ではない。
だが、生物感の無い小さな人型が群れを為して追いかけて来る光景は、控えめに言っても恐怖しか感じない。
そして、私達を追い掛けているぬいぐるみの群れの中に、自分より前に被害にあった人達が含まれている事をギャル子さんは気が付いたのだろう。
震える声で彼女は呟く。
「……やっぱり……ぬいぐるみになったら……」
「……」
彼女のそんな呟きに返答できず、私は黙ったまま走って行く。
恐らく……私もその予想は正しいのだろうと思うのだ。
先ほどよりもさらに暗くなった廊下は足場も悪く、いつ転んでしまうかも分からない。
救援の手が間もなく到着する事は分かっていても、一分一秒でも早く現状をどうにかしたいと思ってしまう。
「前からあの犬が……!」
「っ……」
そして、一度は追跡を撒いた不出来な犬が仲間を連れて正面から迫ってくるのを見て息を呑む。
今の場所は屋敷の二階廊下。
正面は犬もどきの群れ、後方は他の被害者を含めたぬいぐるみの軍勢。
挟撃される形となった状況に、私は咄嗟にすぐ横の部屋に飛び込んだ。
部屋はここ最近一切使われた形跡の無い、埃の被った書斎だ。
机を背にするように飛び込み、ぬいぐるみ達の視界から隠れる立ち位置に隠れる。
それだけで、大した知性を有していないぬいぐるみ達の群れは標的を見失いその場で右往左往し始めた。
これであの男が到着するまでの時間は確保できただろう。
「よし、取り敢えず時間は稼げた。でもここからどうしよう……二階くらいなら飛び降りてもいけるかな? ……怪我する未来しか見えないけど……うん。やるしかないか」
「……」
どうするべきかと頭を回していた私が並行して異能による探知を行うと、予想よりもずっと早く目潰しから復帰した男が私達を追うべく動き出しているのが分かる。
悩んでいる暇は無いと部屋の窓の位置を目視で確認し、私は頭の中で逃走経路を思い描いていく。
そんな一刻を争う中で、ギャル子さんは私の腕から逃げるように飛び出した。
「……ギャル子さん?」
突然の彼女の行動に私は不安を覚えて声を掛ける。
彼女はまるで私の声が聞こえないかのように、私に背中を向け続けていた。
「……アンタ……さ、私に気を遣って言ってない事あるでしょ」
どこか確信を持ったような彼女の物言いに私は口を噤む。
「元々、どうして犯人の男の家に忍び込むなんて言う性急な行動をアンタが取るのか不思議だった。理由も無いのに大して仲良くも無い私の為にそこまで危険を冒す意味なんて無いもんね。警察に頼って、大人を頼って、時間を掛けて解決させればいい事を、なんでそんなに自分の身を危険に晒してまで急いでいたのか、少し前の私は分からなかった。けど、あの男の言動や他の被害者達の状態を見て分かった……私のこの体、もしかしたら時間経過で元に戻れなくなる可能性があるって考えていたんじゃないの? だから大して仲良くない私でも、人間に戻れなくなるのはどうにかしようと思ったんじゃないの?」
「……」
「物語でよくある話よね、変貌した異形の体に慣れ切ってしまったら元に戻れなくなるなんて話……だからアンタは急いでた。超能力とか言う意味の分かんない力によるその可能性を考慮して、出来るだけ早い段階で私の体を元に戻すチャンスが巡ってくるように立ち回っていた。そうでしょ?」
「残念だったわね」、そう言って彼女は振り返る。
私を見上げる小さな双眸は人とは思えないほど無機質なものだった。
「アンタの考え、そう間違ってなかったみたい」
彼女はそう言った。
「アンタは充分早く動いていた。多分他の誰が私を助けたとしても、ここまで早く行動は起こさなかったし、そもそもアンタみたいな頭のイカレた奴じゃないと助け出すことも出来なかった。だから、アンタに責任はこれっぽっちも無い。これ以上は出来なかった。アンタは本当に、よくやってくれたんだと思う。……でもね、多分もう遅いんだと思う。取り返しは、つかないんだと思う」
彼女は途中までまるで気にしていないような口調で話していたのに、堪え切れず、言葉にするのも苦しいように詰まり始める。
それでも私の前では最後まで虚勢を張ろうと、一呼吸置くと再び言葉を紡ぎ始める。
「時間経過でぬいぐるみに近付く。それはきっと内面や記憶まで変貌させるもの。きっとアンタが考えていた通りでしょ? 今さっき、あの男の言葉に疑問を持って、自分の事を思い出そうとしてみたの……でもね、もう私、お父さんとお母さんの顔も名前も思い出せなかった」
それだけじゃない、と彼女は続ける。
「私の友達の事も思い出せない。私の家族の事も思い出せない。私はもう、自分の名前すらも思い出せない。私は、私を構成していた筈の大切なものを、思い出せなかった…………きっともうどうしようもないくらい、私が人間だった記憶も靄が掛かって、消えかけてるんだ。きっと、私はもう人間に戻れない」
顔はちっとも変わっていない。
悲し気に顔を歪ませることは無いし、涙を流すことも無い。
ぬいぐるみの体では、相手に抱いている感情を伝えることは難しい。
それが今は幸いだと言うように、彼女は自分が置かれた理不尽な事実を自ら口にして、小さく忍び笑いをするのだ。
そして、次いで彼女は小馬鹿にするような笑い声を上げる。
「でね、人間だった頃の記憶で今思い出せるのは目の前にいるアンタの事。本当に皮肉なんだけど、他の大切なことは何もかも忘れている癖に、アンタがすぐ傍にいるからなのかアンタの事だけは思い出せる」
「私ね、アンタの事嫌いだった」
「入学して早々、暗くて、周りの人に過剰に配慮していて、自分に自信が無さそうで、それでいてとびきり優秀なアンタが嫌いだった。結果を残している癖に、少しも誇ろうとしないアンタが嫌いだった。私を見ないアンタが嫌いだった」
「いつか見返してやろうと思ってた。いつか私を見るようにしてやろうと思ってた。いつか私を褒めさせてやろうと思ってた。いつか私はアンタと……ううん、これは忘れちゃった」
最後の言葉を飲み込んで、彼女は最後まで私を馬鹿にするような態度を貫いた。
嫌われるような態度を貫いた。
見捨てて欲しいと言うように、私を馬鹿にするような言葉を吐き捨てた。
そんなふざけた様子を見せているのに、私には今にも泣きだしそうにしか見えなかった。
「もし助けられてもね、私のアンタに対する態度が変わることは無いわ。私はどうしようもない恩知らず。助ける価値なんて無い馬鹿なヤツなのよ。だから、私を助けたところでアンタには何の得も無い。アンタが嫌いな私がぬいぐるみから戻れなくても、アンタの日常には何も影響なんてない。むしろ、良かったわね。アンタの日常を乱す奴がいなくなって。きっとこれまでよりも過ごしやすい学校生活を送れると思うわよ」
そこまで言って。
自分を見詰め続ける私の様子が変わらないのを見て、彼女はゆっくりと視線を床に落とした。
顔を俯けて、血を吐くように言葉を続ける。
ただ生きたかっただけの、私と同じ年齢の人が自分自身の事を諦めたように、言葉を続ける。
「……嫌われ者の私の事なんて見捨てなさいよ。良いじゃない。こんな奴が一人クラスからいなくなったって。何も変わらないわよ。誰も佐取を責めないし、誰も不幸になんてならない。誰も私の事を好ましく思っていないのは分かっていたもの。佐取が本当に優しい奴だって事は、ここまで私を助けようとしてくれた事でもう充分、分かっているから……私は、私が羨む佐取のものを一つだって持てていないから…………だから、私を置いて、佐取は無事にここから帰りなさいよ。私が私でいる内に、私がアイツの所有物のただのぬいぐるみになる前に」
何を言っているんだろう。
何を言わされているんだろう。
彼女はこんなことを言わなくてはならないほど、追い詰められるべき人なのだろうか。
なんて、そんな事をそう思う。
「最後くらい、私がアイツらの気を引いて、佐取が逃げられるよう頑張るから。優しい佐取が無事に帰れるよう頑張るからさ。私が私を誇れる最後のチャンスだと思うから」
そんな事を考えたら、私はいつの間にか強く拳を握っていた。
何とか抑えていた色んな怒りが、彼女のそんな姿を前にして噴き出して。
「お願い佐取、私を置いて――――」
「そう言えば私、朝ビンタされた仕返しをしてませんでしたね」
「――――ぷへぇっ!?」
だから、思いっきりデコピンしてやった。
本当は朝の仕返しにビンタしてやりたかったが、ぬいぐるみ状態の彼女にやるとシャレにならない。
だから諦めて、これで勘弁してやろうと思う。
頭を押さえ何が起きたのか分からないといった風な彼女に、私は意地悪気に笑ってやる。
「絶対朝のビンタの仕返しはしてやろうと思っていたんです。ぬいぐるみ状態の姿に溜飲が下がりすぎて忘れるところでした。思い出させてくれてありがとうございます」
「はっ!? はぁ!?」
「それと嫌いですか? 随分可愛らしい嫌悪じゃないですか、私が貴方の事を普段どんなふうに考えているか知ったら、自分の嫌悪がいかに無害で悪意の無いものかと驚くことになると思いますよ」
「あっ、アンタ……!? 何を言って……!?」
「――――間違っているのよ、鯉田岬さん。貴方、本当に間違いばっかり」
目を白黒とさせるように、動揺を隠し切れない彼女に私は告げる。
「鯉田さんこそ私を見誤ってないですか? 誰が、単なる同情で、危険な場所に飛び込むんですか? 見知らぬ誰かがぬいぐるみから戻れなくなったら可哀想だから自分の身を危険に晒す? 私がそんな聖人のような人間に見えましたか? 残念でしたね、本性はこんな人間ですよ」
私をどんな風に思っていたのか。
隣の芝は青く見るなんて言うけれど、そんなに私は綺麗に見えていたのだろうか。
彼女はとんでもない勘違いをしている。
私は彼女が思うような聖人でも無ければ、優しくなんてない。
私個人は世界規模で見てもとんでもない悪人だと我ながら思うのだ。
彼女が憧れるような綺麗なものなんて、私には存在しない。
誰かよりも優先されるような綺麗さは、持ち合わせてなんていない。
彼女は間違っている、何もかも間違っている。
私はもう取り繕う気も失せて、これまで思って来た事を全部吐き出してしまうことにした。
「くだらないアホみたいな嫉妬を晒して、馬鹿みたいに私に絡んで何とか対抗しようとして、何かしらで鼻を明かしてやろうと影で見当違いの方向に努力し続けている私の嫌いなチャラチャラとしたギャル子」
「ふぐぅっ……そ、そこまで言わなくても……」
積もり積もったそんな私見。
彼女と言う個人に対する見解を吐き出してしまえば、言葉はもう止まらなかった。
「それでいて何時まで経っても諦めが悪くて、手段を選ばない性悪さがあって、自分に自信が無い癖に友達にだって虚勢ばっかりで、愚直で懲りない、努力の方向性を間違った、とんでもないアホみたいな努力家の鯉田岬って言うクラスメイト」
色々思ってきたことはある。
色々見てきたことはある。
それら全てを取りまとめて、結局私が彼女に抱いたのは大した事じゃないのだ。
「…………別に、私はそんなに嫌いじゃないんです。だから、私は今ここにいるんです」
「――――」
泥に塗れる様に努力を続ける彼女の方が、私には綺麗に見えていた。
それだけの事なのだ。
くしゃりと、鯉田さんの顔が歪んだ。
泣いているのだろうか。
折角の鯉田さんの泣き顔、どうせならぬいぐるみじゃない時に見たかったと心底思う。
……ああ、また彼女の体を元に戻す理由が出来てしまった。
なんともまあ、性格の悪い私らしい、立派な行動理由だろうと思う。
けたたましいパトカーのサイレン音が遠くから近付いて来る。
書斎の奥にある窓から警察車両の赤い光が見え始め、近くで停車したのが分かった。
音や光の具合から複数台の車両が、私達がいるこの屋敷を取り囲んでいるようだ。
恐らく、私が連絡した警察のエースさんが権力を振るってくれたのだろう。
正直、ありがたかった。
「どこだァ!!! 逃げても無駄なんだよォ!!! お前はぬいぐるみから戻れない!! 俺の力は生き物からぬいぐるみへの一方通行なんだからなァ!!」
廊下から男の咆哮が聞こえてくる。
怒りに満ちた男の叫びは、私の予想内容を正しいと補強するものだ。
「見ただろう出来損ないの生き物達を!! 興味も無い物へなんてどう変えれば良いか俺にも分からないんだよ!! だからお前は俺の持つ他のお友達と一緒に居るのが一番幸せなんだよォ!!! 分かったら、ありもしない希望なんて持ってないでさっさと出て来い!! 今なら酷い事はしないからさァ!!!」
「……そうよ。アイツが、あの男がぬいぐるみにした人を戻す方法なんて手に入れている訳が……佐取の気持ちは、嬉しいけど……」
「関係ないんです、そんな事」
私はもう身を隠す事を止めて立ち上がる。
驚く鯉田さんを持ち上げて、隠れ場にしていた机の上に置き、私はその前に立つ。
クルリと逃げ道として見ていた窓に背を向けて、私は大量のぬいぐるみとあの男が待ち構えている廊下へと向き直った。
背後にいる鯉田さんを守るように。
私達に気が付いた男が大量のぬいぐるみと共に書斎に足を踏み入れるのを正面から見据える。
「見つけたぞっ!! さっきはよくもやってくれたな!!! お前はもうぬいぐるみにするのも惜しいッ! 俺のぬいぐるみ達に体を少しずつ千切って貰ってっ、生きながらに地獄の苦痛を味わわせてやるっ……!!」
「……取り敢えず、警察が駆け付けて異能を使う男を逮捕する。シナリオとして及第点は取れたと思います。ええ、私としては充分です」
「逃げ場と対抗手段を無くして気でも狂ったか!? 例えそうだろうと、お前の未来は変わりないんだよッ……!! お前らっ、そこにいる女を引き千切れぇ!!!」
そう言った男の声に従って、大量のぬいぐるみが私目掛けて押し寄せる。
これから私に訪れる未来を思い描いた鯉田さんの悲鳴が響き、男の下劣な笑い声が響き、ぬいぐるみ達が一斉に押し寄せる音が響き。
「鯉田さん」
私は。
「目を閉じて、耳を塞いでいてください」
異能を解放する。
「――――私の声は聞こえますか?」
私は一歩を踏み出した。
私と男までの間で、それぞれが見当違いの方向へ飛んだぬいぐるみ達の隙間が道となる。
綺麗に整列されたぬいぐるみ達の道が出来上がり、男の支配下にあったぬいぐるみ達は糸が切れたように動かなくなる。
それはまるで唐突にぬいぐるみ達が死を迎えたような光景だった。
「私の姿は見えていますか?」
目の前の異常事態に男が目を見開き、鯉田さんは言葉を失う。
あれほどいた理性の無いぬいぐるみ達が一斉に無力化された異常事態を彼は理解できない。
そしてその僅かな間で、私はさらに男に近付いた。
「私は何に見えますか?」
男が正気を取り戻し、咄嗟に私をぬいぐるみに変える異能を使用しようとするがもう遅い。
異能があらぬ方向へと逸れ、私に届くことは無い。
男の認識が歪み、私を認知することは出来ない。
世界の色が、赤と黒に支配される。
私と男の距離が、消えて無くなる。
「――――貴方の世界は今、何色ですか?」
悲鳴も無く、声も発せず、目を見開き、恐怖に彩られた男が尻もちを突いて私を見上げた。
まるで埒外の怪物を前にしたかのように、血の気を失ってガタガタと震える男が大量の汗を掻いて動けなくなっている。
そして、男の顔を私は掴んだ。
「ひっ、ひっ……!」
「……不用意に“ソウルシュレッダー”しなくて良かった。異能が残ってないと、治せないですからね。自己の欲望で他者を貶め、他人の生を何とも思わない愚図だけど、やったことは取り返させないと被害者達が可哀そうですもんね」
「おまえっ、おまえっ、まさか……! まさか、お前も俺と同じなのか!? なんでだよっ、俺はっ、ただっ、俺の芸術を完成させたかっただけなのにっ……! 争いなんて、望んでいないのにっ……!! どうしてお前みたいのが……! い、いやっ、いやっ、まだだっ!! 不用意に俺に触れたなっ!? 俺のこの力は、触れた時が最も強く生き物をぬいぐるみにするん」
「ねえ。異能って、どこから出力されるか知ってる?」
質問に、男が返答するのを私は許さない。
「答えはね、頭よ」
「■■■■■■――――!!!???」
私は強制的に男の異能を発動させた。
私が望むままに、性能や出力を私の異能で無理やり捻じ曲げ、指向性を持たせ、男が作り上げた世界を破壊する。
引き裂かれた血の痕のように男の異能の出力が宙に飛び散り、男の背後に真っ赤なひび割れが走り、周囲に倒れて動かなくなっていたぬいぐるみ達の姿が変貌していく。
出来損ないの犬は可愛らしい犬のぬいぐるみへ。
人型のぬいぐるみは行方不明として探されていた人達へ。
机の上で呆然とこちらを見ていた小さなぬいぐるみは、私のクラスメイトへ。
全てが元に戻っていく。
「――――■■オォ……ア、オ…………」
ドサリ、と。
私が手を離すと、糸の切れた人形のように絶叫を上げていた男はその場で完全に意識を失い床に崩れ落ちた。
白目を剥いて、泡を吹いて、生きているのか死んでいるのか分からない程ピクリとも動かない男への興味は、今の私にはもう存在しない。
「な、なに……これは、どういう事……? わ、私の体が、元に戻って……戻れてる……? どうして……? ……さとり……?」
私はただ、背後から掛けられた少女の声に黙ったまま振り返った。




