情報の共有化
透明な強化プラスチック板を挟んだだけの部屋に、二人の女性が向かい合っていた。
片方の女性が警察官の制服を身に纏っていて、もう片方の女性が囚人服と呼ばれる簡素な服を身に着けている事が分かれば、彼女達の関係は説明せずとも分かるだろう。
警察官と囚人。
この二人は共に世にも珍しい特殊な才能を持った者達であり、同時に現代科学の粋を集めても完全に無力化する事は難しい者達である。
そして、囚人である女性は、その才能や人格を考慮すると日本に収容されているどの犯罪者よりも危険度が高いにも関わらず、同じ力を持つ警察官はたった一人この場で彼女に向かい合っていた。
「今日はちゃんと面会室に招待してくれるんだね」
「何を言って……ああ、随分前に見回りみたいなことしたわね。別にあの時はアンタ個人に用があった訳じゃないし、アンタと会話すらしてなかったじゃない」
「そうだね、あの時は何も話してくれなくて驚いたけどね」
「なんだか話がズレてる気がするけど……まあいいわ」
粘着質な笑みを浮かべながら軽口を叩く囚人女性。
切り出された何だか辻褄が合わない話に警察官の女性、飛禅飛鳥は胡乱気な表情で囚人の女性を見遣った。
「————で、本当に何も心当たり無いのね?」
「そんな事言われてもねぇ、私としては全然身に覚えのない話なんだって。その、“百貌”だっけ? その名前さえ私は今初めて聞いた訳だし、ここに大人しく閉じ込められている私が暗躍できるような話には思えないんだけど。勘違いとかじゃないのかな?」
「アンタの異能によく似た力を使ってたのよ。実際に私がこの目で見たから間違った情報じゃないわ。アンタが裏で協力しているか、何かしらの接点があったのかは知らないけど、心当たりを知りたいの」
「わざわざそんなことを聞きにここまで来るなんて警察も暇だねぇ。けど残念ながら、私には身に覚えは無いよ。私のこの純粋な目を見ればそれは分かると思うけどね」
からかうような口調の囚人女性に、飛鳥は眉一つ動かさず冷たく返答する。
「アンタが息を吸うように嘘を吐くことは知ってるわ。そのとぼけた顔は見てるだけで腹立たしいから止めてちょうだい」
「随分な言われ様だね。私が嘘つきだなんて酷い言葉だ。確かに色々悪い事はやったけどね、別の私の一面を見ている患者さん達からは天女と呼ばれていたんだよ?」
「目が腐ってんのよそいつら」
「君、本当に私の事嫌いだよね」
以前“顔の無い巨人”の少女から生粋のサイコパスと評された女性、和泉雅は余裕そうな態度を崩すことなく透明なプラスチック板を挟んだ先にいる飛鳥を眺めている。
嘘など吐いていないし、悪事なんてする筈が無いとさえ思える慈愛に満ちた表情の和泉に、その内面を知っている飛鳥は眉を顰めて渋面を作った。
残虐な計画立案や血の通わないような残酷行為。
飛鳥と関わりのある先輩の身の周りの人達を攻撃して殺めた事や、倫理の欠片も無く殺めた相手の姿を模倣し利用した事は、あまりに悍ましく認めがたい行為である。
それだけでも飛鳥が嫌いと言うには充分過ぎる人間性なのだが、何より飛鳥がこの女を許せない理由は別にあった。
それは飛鳥の恩人である少女から聞いた、神楽坂の姿に化けて動揺を狙った行為についてだ。
その行為は少なからず恩人であるあの少女の心に傷を残した筈である。
あの、頼られるばかりで誰かに頼ろうとはしない少女を傷付けた筈である。
だから飛鳥個人としては碌に話したことも無いこの女が大嫌いだ。
こんな女と会話なんてしたくないというのが本心であるし、自分の身の回りの人達にも近付けさせたくないと思ってしまっている事を否定できない。
それでも自分の役職上、“百貌”と呼ばれる存在が目の前で従えていた銀色の怪物とコイツとの関連性は調査しないといけない。
何食わぬすまし顔で目の前に座る女に対してどれだけ嫌悪感が湧き出そうとも、飛鳥は情報が持つ力を良く知っているから、少しでも自分達が有利になる為に努力するつもりだった。
だが、そんな相手に対してでも言わなくてはならない事もあると飛鳥は思う。
自身の行いへの報いなど受けないと信じていたであろう和泉に対して、同じ異能持ちである飛鳥がはっきりと言わなければならない事もあると思うのだ。
「神楽坂先輩の身近な人達に対してアンタがやったこと、私は全部知ってんのよ」
「へえ」
「アンタは反省も後悔もしないんだろうしここにいる事も苦痛じゃないんでしょうけど。でも、でもね。私達はアンタの悪性を良く知ってる。世間じゃ神薙隆一郎の影に隠れてアンタは碌に言われてないけどね。アンタの醜悪さを私達はちゃんと知ってるのよ。だから二度と、またもう一度でも同じことが出来ると思わないで。アンタはもう誰かを不幸になんてできない。私達はアンタを逃がすつもりは無いし、私達はアンタの事は、行動も思考も何一つだって見逃すつもりは無い。そしてそれはこれから先の全ての異能犯罪も同じよ」
「……」
飛鳥ははっきりと言葉にして、自分の考えをこの大嫌いな女に伝えた。
同じような境遇で、同じような可能性があった二人。
立場は似ていたけれど、辿り着いた場所は全く違っていた飛鳥と和泉。
多くの人を救う選択をした飛鳥と、多くの人を殺める選択をした和泉。
そんな、お互いに少なからず思う所がある二人の視線が交わった。
「……異能を持って正義のヒーロー気取りかな? けどまあ、才能があるんだ、好きにすればいい」
「正義じゃないわ。私はただ不幸になる人や不幸を撒き散らす人を減らすだけよ。その目的の為に、私はこの異能を使うのよ」
「私がして貰ったようにね」と、飛鳥は昔の事を思い出しながら小さく呟いた。
先ほどまでの余裕のある穏やかな表情を崩し、心底忌々しいとでも言うような顔になった和泉に対して、飛鳥は「そっちの方がアンタらしいわ」と吐き捨てる。
「協力を仰いでる警察官とは思えない言動だね。そんな態度で私が素直に情報を吐くと思ったのかい?」
「犯罪者に低姿勢の警察官がどこにいるのよ。それにアンタは、相手が低姿勢だから協力しようだなんて思うような精神性はしてないでしょう」
「……本当に、神楽坂を思い出させる言動をする」
「良い推察ね。私もあの人に色々教わったのよ」
適当な口調でそう返し、飛鳥はメモ帳の用意をしながら話を戻す。
「じゃあ本題に入りましょう、心当たりが無い事は分かったから、アンタの異能の特徴についてアンタの口から私に言ってちょうだい」
「言いたくないなぁ……」
「アンタが従順に協力してくれるなら、神薙隆一郎にはちゃんと私の方から弁明しておくわよ。不安に思ってたようだけど和泉雅がまた異能の悪用をしていた訳じゃ無さそうだって」
「……チッ。私、君の事大嫌いだよ」
「奇遇ね、私もアンタが大嫌いよ」
‐1‐
「……つまりなんだ? ICPOが佐取の確保に動き出した、と? 今も日本に戦力を集中させて捜索してるという事なのか? ……それはまあ、結構自業自得じゃ無いか?」
「そんなぁ!? 自業自得って言われるほど悪い事はしてないですよ! ……そ、その、少しだけ調子に乗って異能を使っていた時期があるだけで、ですね……」
「その時期に被害を受けた人がいっぱいいるんだろ?」
「ぎゃふん!?」
睦月さんの見舞いを済ませた帰りの車内での神楽坂さんとの会話。
ガタガタと体を震わせた私は、運転席に座る神楽坂さんに対し自分の今の状況を大きく身振り手振りしながら必死になって説明した。
噤みたくなる口を必死に動かし、自分が置かれている状況がいかに危機的なのかを伝えようと神楽坂さんに対して一生懸命説明をしたにも関わらず、神楽坂さんの態度は酷く淡白なのだ。
神楽坂さんから返って来た自業自得じゃないかという冷たい言葉に、私は思わず涙がこみ上げてくる。
「捕まっちゃうよぅ……! 酷い事されちゃうんだぁ……! 首輪付けて、お家に帰れないくらい働かせて、一杯研究して、最後には用済みだからって処刑するんだぁ……! 世知辛いよぅ……!」
「流石にそんなことは無いと思うが……」
神楽坂さんは酷い人だ。
正論であるとは思うが、こんなに弱っている相手に対してぶつける言葉ではないと思う。
間違っても今まで散々付き合いがあって、お互いに信頼している(と、私は思っている)相手に対する扱いではない。
そんな事を思って目に涙を浮かべる私だったが、終始酷い態度を見せる神楽坂さんは逆に呆れたような顔をしている。
「大体な、俺は佐取が過去に色んな相手に異能を使って、世間で言われている“顔の無い巨人”という存在の大元になったかもしれないとしか聞いてないんだ。佐取が具体的に何をやったのか、俺は全くと言っていいほど知らない訳だ。最初に深掘りしないと約束した訳だからな。そりゃあ俺としては佐取の人柄は信用してるし、佐取が誰かを傷付けるような事なんてしないと思ってはいるが、“顔の無い巨人”の世界に広げた異能の話を聞くとだな……」
「えっ? えっ? ま、待って下さい神楽坂さん。私の事疑っているんですか? ICPOや神薙隆一郎が言っているような“顔の無い巨人”の情報を、本当に私がやったと疑っているんですか……!? 違いますよ!? 昔の私だって彼らが想像するような世界征服万歳みたいな考え方なんてしてなかったですよ! ちょっと自分の異能でどこまで実現できるのかなぁって調子に乗っていただけでそんな本当に現代の魔王みたいな思考はしてなかったというか……!」
「……そうだな。確かに決めつけるのは良くないな。じゃあ、簡単な質問をするぞ佐取。過去に世界中の人に異能を使ったと言っていたが、それはICPOが言っている数の十億人よりも多いか? 言っておくが少しでも異能による干渉を行った人数でだぞ。ちょっとの誤認だけだから数に数えない、みたいなのは無しでだ」
「…………」
神楽坂さんの幾度にも条件を付けた上での質問にガチリと硬直する。
あまりに鋭い質問、まるで敏腕刑事の取り調べのような神楽坂さんの問い掛けに、私の小さな心臓はきゅっと握られたような圧迫感を覚えてしまった。
じっと真摯に回答を待ち見詰めてくる神楽坂さんの視線に私は嘘なんて言えず、目線を逸らしながら囁くように小さな声で返答するしかない。
「……多いです」
「ふぅ……実のところ、そうなんじゃないかとは思ってた。佐取の異能は今まで色んな種類の異能を見ることが出来て、異能に関する見解を深めた俺の感覚でも少し常軌を逸しているような気がしていたんだ。それに、俺が考えていたのはそれだけじゃない。前に十億人という数の話を出した時に佐取はしっくり来ていなかっただろ? あれはその数から多少の前後する程度じゃない、もっと桁外れに数が違うからこその反応だったと俺は思っているんだ。だから俺としては、佐取が過去に行った異能使用によって干渉を受けたのは、世界中の総人口の半分、あるいはもっと上を予想してる」
「あわわっ、あわわわわあわっ……! ち、違うんです! 本当にっ、数の話をしたら凄いかもしれませんが、本当に全員を支配下に置くような洗脳をした訳じゃ無くてっ、本当にちょっと心を常時読める状態にして、ちょっとした誤認識をさせられる状態を作った程度でして……! 言ってしまえば、私自身の視野を広げていたと言いますか……!」
「ああいや。責めてる訳じゃ無い。それだけの人数に対して佐取が異能で干渉して、その結果世界から争いや犯罪が無くなっていたという事実を考えれば、佐取が異能を悪用した訳でないのは分かってる。だがな、佐取の人柄を知らない人が『世界中の多くの人が異能の干渉を受けた』という事実だけを見た場合、どれほどの危機感を抱くのかはやっぱり頭に入れておかなきゃいけないと思う。異能犯罪を解決しなくちゃいけない、ICPOという組織の立場を考えれば、その重要性はさらに強まるだろう?」
「それはっ……そう、ですね……」
神楽坂さんの優しく言い聞かせるような言葉に、私はすんなりと納得してしまう。
言われてみればそれはそうである。
被害のあるなしは関係なく世界を巻き込んだ大規模な異能行使があって、その異能を使った人の足取りが全く追えていなくて、世界で悪質な異能犯罪が多発している現状がある。
異能の情報面で優位性を持っている者が潜伏している可能性を考えた場合、不発弾で終わっている今の危険な状態をどうにかしたいと思うのは当然の筈だ。
「ICPOは現状世界の異能犯罪を無くすことに最も尽力している組織だ。確かに佐取は人の悪い部分が見えてしまって簡単に他人や組織を信用する事はできないかもしれないが、今世界で起きている異能犯罪から人々を最も救っているのは間違いなく彼らなんだ。だから、彼らは佐取を酷い目に遭わせたくて探している訳じゃなくて、過去に世界に異能の手を広げた存在の人間性や意図が分からないから未知の脅威を解消したくて行動しているんだろうと思う」
「……はい」
「だからな佐取。これはあくまで一つの案なんだが、ICPOと接触して佐取と彼らの認識の擦れ違いを正すのはどうだろう。直接会う必要もない、何かしらメッセージのやり取りをするだけでいい。過去の事件は不用意に異能を拡大した自分のミスで何かしようという意図はなくて、自分の異能はそれほど凶悪なものでは無いしこれから何か悪事を為してやろうという考えも無い。ICPOという組織に加入する事はできないけれど、何かあれば情報面で協力はする。あくまで例えだがこういう話し合いで解決するのも一つの手であると俺は思うんだ。必ずしも味方になる必要は無いが、敵対する必要もないだろう? 佐取の身の安全を考えるとこれが一番だと思うが、どうだ」
「…………」
神楽坂さんの案を聞き、私は顔を俯けた。
何の返答も出来ないで、じっと足元を見詰めたままどうするべきなのか考える。
私は考えもしなかった案。
どうやって逃げるのか、どうやって誤魔化すのかばかりを考えていた私に対して、過去をしっかりと清算する道筋を示した神楽坂さんは本当に立派だと思う。
「……神楽坂さんは凄いです。本当に色んな人の事を考えられて、本当に大人として立派な人なんだと心から思います。未来を見据えて、本当の意味で円満に解決できる道筋を順序立てて考えて、こうして私の為に話してくれている事、分かります。本当に、私が会ってきた中で一番素晴らしい大人の人だって思います」
神楽坂さんの考えは間違っていない。
擦れ違いによる争いを回避するなら話し合いをするべきだし、相手を徹底的に潰そうという意思が無いなら身の安全を最重要視する私だって妥協点くらいは作るべきだ。
神楽坂さんという大人の立場から考えれば、これ以上無いくらい完璧な正論だと私も思う。
けれど、そうではないのだ。
「————でも嫌です。私はやっぱり、信じられません」
色んなことを考えた上で、私は断言する。
顔を上げて、神楽坂さんの嘘の混じらない目を見つめ返して、私ははっきりと拒絶を口にする。
「私の異能を知って彼らが放置すると思いますか? 彼等の中の一人二人が納得しても、納得しなかった人達が私の不利になる行動をするとは思いませんか? 私の身元が判明して、私の家族が攻撃を受ける可能性は本当にありませんか? ICPOという組織全てが信用出来て、伝わった私の情報が全く悪用されないと本当に思っているんですか? そういった攻撃に対して私が反撃した時、本当に世界は私の味方をしてくれると思いますか?」
「神楽坂さんは信用できます。飛鳥さんだって信用できます。ICPOの中にもきっと、信用に足る人はいるでしょう。でも駄目なんです。個人は信用出来ても、数多の人が雑多に混じり色んな思惑が絡む組織なんてものは信用に値しないんです。神楽坂さん達は信用できても警察組織は信用できません。世界の異能犯罪を解決しようとする人達は信用できてもICPOという組織は信用できません」
「世界は醜悪で、人々の悪意に満ちていて、他者の人生を貪ろうとする奴らが一定数存在する。見知らぬ他人を身を預ける程信用しようだなんて人、必ずと言っていいほど破滅する。そういうものを私はこれまで世界中で何度も見て来て、私以外の誰もその人達を助けようとしなかったのを知っている。自分達はその人に助けられたのに、助けを求めるその人に手を差し伸べようとしない醜悪共————性善説なんて無い、この世のほとんどの人間は信用する価値なんて無いのよ、神楽坂さん」
目を見開いて、唖然とした顔で私を見る神楽坂さん。
つい先ほどまで、自身が置かれた状況に怯えていただけの私が突如として豹変した事に驚愕している様子だが、一方の私も同じように自分の口から出た本心に驚いてしまっていた。
捻くれ曲がった、常人とは掛け離れたこんな考え。
いくら神楽坂さんが良い人だろうとも、こんな捻くれ曲がった考えを言われて嫌な気分にならない訳が無い。
口が滑ったなんてものじゃない、断るにしても理由なんて言わずにやりたくないからで押し通せば良かったのにと後悔した私だったが、対する神楽坂さんは少しだけ表情を曇らせて頷いていた。
「あ、あわわっ、あわわわわわっ……! か、神楽坂さん、今のはですね……!!」
「いや……悪いな佐取、俺の考えが足りなかった。別のやり方を考えないとだな。ICPOによる“顔の無い巨人”の捜索……警察の筋ではそういう情報は入ってきてないな。飛禅の奴からもそんな連絡は無いし、都内でICPOが動いている様子は中々確認していないが、佐取が言うなら間違いない情報なんだろう。その事に対処する方法か……」
それでも、私のあまりに穿った考えを聞いた筈の神楽坂さんは、何事も無かったかのようにICPOの対処の話に切り替えた。
そんなあまりに自然な神楽坂さんの様子に、問い詰められていた筈の私が逆に動揺してしまう。
「え? か、神楽坂さん? あ、あのあのっ、わ、私変なこと言ったのに怒らないんですか?」
「ん? いや、佐取のそういう経験に思うところが無い訳じゃないが、佐取の人生でそういう考えに至る経験があったなら今の俺が無理にどうこう言えるものじゃないだろう。特に異能持ちの扱いについてなんて俺は無知も良いところだ。異能を持つ佐取が危険だと思うなら、俺はそれを尊重する。意見に食い違いがあったからって怒るなんてことしない」
「せ、世界の平和の為にとかなら自己犠牲くらい、みたいな」
「……佐取は何か勘違いしているかもしれないけどな。俺は佐取が思うほど善人なんかじゃない。世界平和の為に身近な人に犠牲になれと言えるほど、俺は出来た人間なんかじゃないんだ。少なくとも俺は佐取には幸せになって欲しいと思ってて、佐取がICPOから逃げたいと言うのなら、それに協力したいと思う」
「佐取は俺にとって恩人だからな」なんてそう言って、変な事を口走った私に対して変わらない優しい顔を向けて来てくれる神楽坂さんに、思わず胸が熱くなってしまった。
鼻の奥がつんっと熱くなって、また何か変な事を言いそうになる自分の唇を噛み、自分の動揺を知られないように顔を俯ける。
お兄ちゃんが以前言っていた「自分の全てを犠牲にしてでも他人を助けろなんて言う奴がいたら、そいつは絶対にお前の味方にならない奴だ」という言葉が黙りこくった私の頭を過った。
本当にそうだ。
やっぱり神楽坂さんは、本当に出来た大人なんだと思う。
「……ありがとうございます」
「お礼なんて、散々世話になってる俺の方が言いたいくらいさ。さて、じゃあ、対策について話していかないとな。今のところICPOの動きは報道にも流れていないな。警察にも流れていない、報道関係者にも気取らせていない。となると、ICPOのみによる極秘活動か。活動人数も少なく大々的な活動もしていないだろう……ふむ、失敗したところで潰れるメンツは無いと考えるべきか」
私の小さな感謝の言葉を軽く流して、悩まし気な顔をした神楽坂さんが適当に車内取り付けのテレビを点けて、報道の状況を確認する。
そしていっそ淡白と思えるほど冷静に状況の分析を始めた神楽坂さんは思案を巡らせながら未だにボンヤリとしている私を見遣った。
「相手の行動は分かっているのか? 今はどんな風にその行動に対応してる?」
「……大体は分かっています。異能による探知で私の姿を捕捉しようと動き回っている人達と、実際に足で過去の異能犯罪に関係した場所を巡っている人達の二つのグループで。えっと、異能持ちが何人もいて、これからさらに集まって来るみたいなんです。取り敢えず、彼らはあらかじめ探知をする位置を取り決めていましたので、その探知位置の順を私の都合の良いようにしていまして……探知する際に私が彼らの探知範囲にいない状況を常に作り出すようにしてどうにか対処している状況です」
「ICPOの極秘作戦を筒抜けにしてるだけじゃなくて内部の作戦を都合の良いように計画させているのか……? いったいどうやって……? いや、それよりも、一方的に情報を得ている上でのその状況なら本当にどうにでも出来そうな気がするが……佐取、色々追い詰められて混乱しているのかもしれないが、佐取の理解が無ければ有効な対抗策を講じることも出来ないんだ。酷いことを言うかもしれないが、深呼吸して、正気に戻ってくれ。ゆっくりで良いからな」
優しくそう言ってボンヤリとしていた私を正気に戻した神楽坂さんは「いいか?」と続ける。
「もし佐取の異能で動向を一方的に把握できるのであれば、ICPOがいくら優秀であっても佐取を見つけ出す事はできない。だが同時に彼らがどこまで佐取を探そうとするのか分からない。相手が打倒するべき対立組織であれば見付からない相手を探していくら消耗しようと構わないだろうしどう攻略するのか考える訳だが、世界の治安維持を担っている彼らの壊滅を望んでいない佐取の立場的には無駄な消耗は避けて欲しい訳だ。ここまでの俺の認識は間違ってないよな?」
「そ、そうですね。それで間違いないです」
「そうであるならつまり、必要なのは終着点だ。何も逃げ回るだけや争うだけが対処方法じゃない。通常であれば難しいアプローチだが、今の佐取の状況なら彼らの作戦の終着点を演出するのは可能な筈だ。ICPOの今回の“顔の無い巨人”捜索作戦の終止符となる何かがあれば、彼らのこの極秘作戦は終了する」
神楽坂さんの確信を持った口ぶりに私はしばらく唖然と口を噤んだが、神楽坂さんの話に間違いが無い事を理解してゆっくりと頷く。
「……確かにそうですね。その考えに間違いは無いと思います」
「ああ、その上でどうするかを俺と佐取は考えるべきだ。ICPOという組織の今回の作戦にとっての終着点を、俺達がどう作るべきなのかを。佐取は俺よりも個人の心情について詳しく、佐取よりも俺の方が組織的な動きについては詳しい。その部分を理解した上で落ち着いて考えていこう。なに、いざとなればICPOが諦めて帰るまで、俺と一緒にこのまま車で国内旅行にでも行こうか」
「あ、はい。それは私としては普通に楽しみですけど…………え、待って。普通に考えて私。こんなに私にとって都合の良い展開ある? 神楽坂さんが全面的に私を助けようと動いてくれて、その上でこんなに色々案を出して考えてくれるなんて幸せ過ぎない? い、いや神楽坂さんの人格を考えるなら勿論その可能性もあるけどそれにしたって話が出来すぎているような気がする…………か、神楽坂さん、ちょっと良いですか?」
「ん?」
ペタリと神楽坂さんの頬に手を添えた。
あまり手入れはされていないだろうザラリとした肌の感触。
形の良い顎骨と剃り残されただろう小さな顎髭。不摂生から来るだろう血色の悪さと微妙な体温の低さ。
メンタルはどうか、異能の通しはどうか、あるいは思考に異物は無いか。
そうやってじっくり、しっかりと神楽坂さんの状態を確認し、正真正銘いつものくたびれたおじさんであるのに間違いない事を確信した私は、驚きに目を見開いた。
「ほ、本物の神楽坂さんだ……! 凄い頼りになるのに“百貌”に成り替わられているとかじゃなかった……! え、神楽坂さん頭も良かったんですか!? て、てっきり身体能力お化けだって思ってました……!」
「…………どういう意味だ佐取? お前、俺をそんな風に思ってたのか? 頭良さそうだから誰かに成り替わられてるって思ったのか? まさか運動神経が良いだけのおっさんだと思っていて頼りにならないと思ってたのか? ん?」
「あっ、あわわわわ! ち、違うんです! わわわっ、ほ、ほらっ! てっきり知力担当が私で、神楽坂さんが肉体担当かなって思ってたからですね!? 神楽坂さんが私を落ち着かせて冷静に状況を判断するのは珍しいなって思っただけでっ、決して馬鹿にしているとかそういうのではなくてですねっ。えっと、えっと————」
「なるほどな?」
「————あわわわわっ、あわわわわわわっ……ごっ、ごめっ……!」
今まで見た事無いくらい爽やかなニコニコの笑顔を見せて来る神楽坂さんに恐怖する。
あまり神楽坂さんが見せない表情というのもあるが、何よりも似合ってない爽やかなニコニコ笑顔があまりに怖い。
確かに、私の身を案じて色々と考えてくれていた神楽坂さんに対してあまりに失礼な言動をしてしまった。
いつもとはちょっと流れが違っていたとはいえ、神楽坂さんは警察でもエリートコースを行っていた人であり、異能が関わらなければ誰よりも優れた事件解決能力を持つ人でもある。
優秀でない訳が無い。というか、今までの異能の関わる事件が特殊過ぎただけ。
私の知識に優位性があっただけで、経験とか基本的な知識とかその他諸々は神楽坂さんの方がある筈なのだ。
無自覚な傲りがあったのだと反省した私は慌てて神楽坂さんの腕にしがみ付くように謝罪した訳だが、当の神楽坂さんはそんな私を見て噴き出すように「ふっ」と笑いを溢した。
「冗談だ」
「へ?」
「これまで佐取の方が色々と頭を使って考えてくれていたからな、そうやって思われていたのも仕方ないと俺は思ってる。むしろ俺は自分の不甲斐なさが申し訳ないんだ。これまで、異能を持たない俺が異能に対抗できなかっただけじゃなく、大人として佐取に頼られるほどの知識も見せていられなかったんだからな」
「お、おおぅ……」
神楽坂さんが滅茶苦茶頼れる大人に見える。
いや、元々滅茶苦茶頼れる大人だったのが、私の目が節穴過ぎてよく分かっていなかっただけだった気さえしてくるほどの素晴らしい頼れる大人っぷり。
気付けば神楽坂さんに相談する前に崩壊していた私のメンタルが落ち着きを取り戻している。
悩み事を神楽坂さんに相談するというこの判断はどうやら本当に正しいものだったようだ。
「さて、それでICPOの終着点についての話なんだが、彼らが何故今更このタイミングで佐取の確保をしようと動き出したか、その理由は分かるか?」
「あ、えっと、物的証拠が無い状態では世界的な覇権企業であるUNNを検挙する事が出来ず、広めている異能開花薬品の大元を断てない状態にあるから、その問題解決のためにも“顔の無い巨人”を先に捕まえるという理由だったと思います」
「ああ、なるほど。あくまでICPOという組織全体の目的は世界情勢悪化の原因であるUNNを検挙する為に、必要な協力を確保する為というのが名目な訳だ。なら、これまで動いてこなかったのはどうしてだ?」
「探知系統の異能を持つ者がICPOという組織にいなくて、“顔の無い巨人”を探し出す手段があまりに乏しかったからのようですね。後は……世界に広がる異能犯罪の波が、想像を越えてあまりに大きく、あまりに数が多かったからだと思います」
「……酷い状態だとは聞いていた。悲惨な事件の詳細をいくつか目にすることもあった。だがそれでも、日本に入って来るような海外の異能犯罪の情報なんてほんの一部だと思っていたが、やっぱりそうだったんだな」
考え込むようにして出た神楽坂さんの言葉にちょっとだけ後ろめたさを感じた私は目を逸らす。
情報統制を行い、日本国内における異能犯罪の発生をある程度未然に防いでいる私だからこそ、ある意味それ以外の国については見捨てているような気分になってしまう。
とは言え、世界に手を広げて犯罪を未然に防止しようだなんて意気込みは今の私に存在しないし、家族や神楽坂さんや飛鳥さんといった関係のある人達さえ無事であれば良いという考えに変わりはない。
世界に異能の手を広げた時の弊害を考えれば、おいそれとそんな選択をしようとは性格の悪い私は思えない。
「つまり、なんだ。UNNを倒しさえすれば話は終わると考えるべきか?」
「ううん、どうでしょう。UNNを倒しても、結局ICPOの人達にとって“顔の無い巨人”が敵である事には変わりないでしょうから。一度動き出した今回の作戦の終着点としては弱いような……」
「なら一度手を引かせるタイミングを作るのはどうだ? ICPOのメンバーが集まった段階で世界における異能犯罪の同時多発の誤情報を流して一斉に手を引かせる。彼らが日本から離れた隙にUNNの証拠か何かを彼らに握らせればそちらに集中するんじゃないか?」
「あ、それは手としては悪くないですね。えっと、ちょっとメモしますね」
「あとはそうだな。例えば未だに詳細の分からない“百貌”を上手く壁のようにして利用できれば……」
相談したことにより一人で部屋に引きこもっていた時よりも幾分かメンタルが回復することが出来た私は、神楽坂さんと本腰を入れて対策を練っていく。
“百貌”と呼ばれるあの存在を逆に利用して、日本にやってきているICPOをどうにかするのか、そんな神楽坂さんの提案に私が思考を巡らせていく。
そんな時に私は、本当に一瞬だけ空から異能の出力を感知した。
「……?」
「ん? どうかしたか佐取」
「あ、いえ。一瞬だけ空から異能の出力を感じた気がしたんですけど……でも、今は特に何も感じないですし、私の異能出力を探知できる範囲には何も無いみたいで……勘違いかな……」
「異能の出力探知? それは……異能を持っていない俺には少し理解し辛い感覚の話だが、その探知で俺の危機を何度も救ってもらっている訳だし勘違いで済ますのは怖いな。確か佐取の今の異能出力の探知範囲は三㎞の距離だったか?」
「それは少し違いますね。異能の出力を少し探知するだけなら範囲はもっと広くて、多分数十㎞とかそこら辺はあると思うんですけど、まあ、正確な計測はしたことないので分かりません。この前テロリストに乗っ取られた飛行機を見付けた時も結構近付いてからでしたし、私のこの能力は大したことないかもしれません」
襲い掛かってくるようなものではない。
空に鎮座する私のアレではない。
遠い空高くに感知した、錯覚にも思える一瞬の異能の出力。
不気味に思える一瞬だけ感じた異能の出力が忘れられずに私が空を見上げていれば、神楽坂さんも同じように空を見上げた。
雲一つなく、飛行機やヘリコプターなんかも近くには見当たらない青空。
しばらく二人して車の中で空を見上げていた私達だったが、神楽坂さんは独り言のようにぽつりと呟いた。
「瞬間的なもので今は感じないとなると、単純に考えるなら探知範囲の外へと離れていったと考えるのが無難か……」
私が息を詰まらせながら視線を向けたのも気が付かず、神楽坂さんは「そう考えるなら……」と続ける。
「瞬間的に空を横切ったか、あるいはさらに上空へと打ち上がったか」
神楽坂さんの呟きに、これほど嫌な予感を覚えたのは初めてだった。




