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とある夫婦の1日

 


 ――夜明け前の城は、深い静寂に包まれている。


 厚い石壁に守られた寝室は、外界から切り離された別世界のようだ。窓の外では、まだ朝日は姿を見せず、空の縁だけが、ほんのわずかに色を失い始めている。闇が完全に去る前の、息を潜めた時間。私はその気配を肌で感じながら、蝋燭の火を頼りに身支度を整えていた。


 蝋燭の火は頼りなく揺蕩う。壁に淡い影を描き、私の指先や衣の縁を、やさしく撫でるように照らしている。髪をまとめ、外套を羽織ると、冷えた空気が首元に忍び込む。私は浅く息を吸い静かに寝台の縁へ腰を下ろす。


 そこには、我が愛する夫――シェロが眠っていた。


 厚手の布団にくるまり、彼は深く眠っている。無防備な寝顔は、日中の姿とは別人のようで、思わず微笑みが漏れた。こんな顔を知っている者は、そう多くないだろう。そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。私だけが知っている、と言えないことに嫉妬を覚えるが、今更どうしようもあるまい。


 彼はまだ深い眠りについていた。黒髪にはぴょんと跳ねた寝癖、無防備な顔がとても可愛らしい。


「……シェロ」


 彼は私よりも年上なのに、どこか子どもらしさ……というか、悪童らしさが抜けない殿方だ。いつも飄々として、私のアプローチをのらりくらりと躱し続け、あまつさえ他に女を作って……。


 むっ、と眉をひそめる。

 私が彼と結ばれるまで、どれだけ苦労したことか。思い出すだけで、少し頭が痛くなってきた。


 まぁ、だからこそ、こうして同じ寝台で朝を迎えることが、何より幸せだと実感するというものだ。


「シェロ、起きてくれ。もう朝だ」

 

 声のトーンを少し落として呼びかける。


「……んー、アン、嘘つけ、まだ暗いだろ」


 眠たげな返事が届く。


「すぐに明るくなる」


 彼の肩に手を置く。シェロはもぞりと動いただけで、起き上がる気配がない。


「じゃあ、明るく、なってから、起こして、くれ」  


 鐘楼もまだ鐘を鳴らしていないだろう、と彼は途切れ途切れ、気の抜けた口調で呟く。更に布団を深く被り、顔を隠した。


「ふふっ、つれないことを言わないで欲しい。私はシェロと早く朝を過ごしたいのだ」


「俺はゆっくり寝たい」


 子どものように駄々をこねるシェロが可愛らしく、思わず笑ってしまう。

 早朝より騎士団の仕事が始まるため、できるだけ早く起床し、夫婦の時間を過ごしたい。シェロには、私の我が儘に付き合わせてしまい申し訳なく思うが、妻の細やかな願いを聞いて頂きたい。


「シェロ、起きて欲しい」


 布団を少々強引に引っ張りあげる。


「さ、寒っ!? ちょ、やめ、やめろばか。引っ張るな! こら、引っ張るなって! うおお、無駄にちからつよっ!? くそ、このゴリラめっ!」


「こら、抵抗をするな。あと、前々から思っていたのだが、ゴリラとは何だ?」


「そりゃ、お前みたいな…………いや、うん、何でもない。光の速さで忘れてくれ」


 光に速さなどあるのか? と、首をかしげる私を尻目に、そこじゃないだろ、と大きな溜め息を吐くシェロ。

 彼は観念したように体を起こし、むっつりと顔をしかめた。


「旦那に対して、もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないか?」


「十分、優しくしていると思うが?」


「えぇ、マジかよ」


「むしろ、甘やかしすぎだと言われているまである」


「誰に?」


「義父上に」


「あのクソ親父めっ! 今度、じいちゃんを囮にばあちゃんを送り込んでやる」


「……まったく、シェロはおばあ様を何だと思っているのだ?」


「我が家のリーサル・ウェポン。使い方を間違えない限り、最強の伝家の宝刀ってやつ」


「……あのおばあ様が、アンダーソン家の伝家の宝刀なのか?」  


 おばあ様の姿を脳裏に思い浮かべる。


 月の光のように輝く長い銀髪。冷ややかな鮮紅の瞳。そして、この世の者とは思えないほどの美貌。小柄だが豊満な身体は、豊穣の女神のような、と枕詞につけるに相応しい。凍った泉のように凛とした雰囲気を持ち、言動は厳かで淡々としている。

 一方で、おじい様には、常に丁寧な口調で話し、春の日溜まりのような笑みを向けている。愛する人にひたむきな女性、私から見たシェロのおばあ様は、そんなご夫人である。


「おい、ばあちゃんを見た目で判断するのは命取りだ。気に入らない奴が現れたら、即座に矢で射殺してくるどこぞ女神様みたいな存在だぞ」


「シェロは、おばあ様に一度叱られた方が良いと思う」


「殺す気か」


 真顔で返された。

 アンダーソン家の力関係はどうなっているのだろうか。おばあ様は、おじい様のことを常に立てていらっしゃる貞淑な妻の鏡、という印象しかない。もしかして、子や孫にはとても厳しく接する方針をお持ちなのかもしれない。


 ……そう言えば、幼い頃から何度も顔合わせはしているが、会話という会話をした記憶があまりない。結婚のご挨拶に伺った時も、それこそ結婚式の時もほとんどお話をしていない。


 改めて、結婚の許しを乞うた際、おじいさまは「こちらこそ、士朗をよろしく頼む」と笑って、おばあ様は「旦那様の御心のままに」と仰ってくださっていた。

 もしかしなくても、おじい様の意見以外どうでも良いと、そうお考えだったのかもしれない。おじい様が反対するなら反対する。肯定するならそのように、と。

 なるほど、単純明快な思考原理だ。うん、分かりやすくとても好ましい。


「お前、自分は関係ないって顔してるけど、油断するなよ。命が惜しければ、ばあちゃんの前で、じいちゃんと長時間話すな」


「おばあ様にとって、私は孫の嫁だぞ。そのようなことを警戒しなくとも、良いと思うのだが」


「甘いな。ばあちゃんの本質は『的外れ』なんだ。理外の存在だと思った方が良い。一般的な尺度ではかるべきじゃない。ばあちゃんにとって、世界の中心はじいちゃん。それ以外は、塵芥だと思っている。だから、勘違いさせるような行動は、絶対に起こすな。これ、アンダーソン家の家訓な。俺の嫁なら覚えた方が良いぞ」


 やれやれと肩を竦め、シェロは大げさに溜め息を吐いた。その道化じみた動作に私は思わず、くすくすと笑ってしまう。彼の仕草が面白かったということもあるけれど、一番の理由は、シェロが私のことを「俺の嫁」と呼んでくれたことが嬉しかったからだ。我ながら単純だと思う。

 おばあ様もきっとそうなのだろう。愛する人の些細な一言で幸せになるのだ。それが人より深いか浅いかの違いだ。


「委細承知した。十分、気を付けよう」


「そうしてくれ」


「しかし、シェロ。自身のおばあ様のことを的外れと呼ぶのは、いただけないな」

 

「って言っても、それがばあちゃんの名前なんだよ。じいちゃんは、ばあちゃんのことをあだ名で呼んでるけど。……あ、ばあちゃんを勝手にあだ名で呼ばないように。あだ名で呼んで良いのは、じいちゃんだけだぞ。気を付けろ。勝手に呼ぶと、マジギレされるからな。親父がばあちゃんと喧嘩した時にあだ名を呼んじまって、ぶち殺されそうに……うっわ、思い出すだけで肝が冷えそう」


「何ともまぁ……」  


 気難しいお方だ、という言葉を飲み込んだ。


 俺も同意する。私の眼を見詰め、シェロは頷く。どうやら私の考えを眼を見ただけで読み取ったらしい。以心伝心。嬉しくなって、シェロに抱き付く。


「甘えん坊め」


 からかうように言われた。


「うん」


 それ以上の言葉はいらない。私はシェロの腕を引き寄せる。彼は少し困った顔で、視線を逸らした。


「今だけな」


「ずっと甘えさせて欲しい」


 即座に返した私の言葉に、彼は苦笑する。


「調子に乗るな」


「調子になど乗っていない。妻として当然の権利だ」


 言い切る声音は真剣で、冗談の余地など微塵もない。彼は天井を仰ぎ、観念したように呟いた。


「ばあちゃんも大概だが、アンも大概だよなぁ」


 その瞬間、シェロの胸元をきゅっとつねる。


「ふらふら、他所の女に目移りする貴公が悪い」


 半分冗談、半分本音といった口調。私は彼の胸元の衣を掴み、ぐいと引き寄せた。


「へぇへぇ、俺が悪うございました」


 投げやりな返事に、じっと彼の顔を覗き込む。


「まったく、貴公という方はまたそのような返答をして。……本当に反省しているのか?」


 彼はしばらく黙り込み、やがて小さく笑った。


「反省はしている。だが、後悔はしていない」


 その答えに、思わず深いため息をつく。怒りとも呆れともつかない表情のまま、再びシェロの胸に額を預けた。


「はぁ、何故私は貴公のような殿方を愛してしまったのだろう」


「それは俺が一番聞きたい」


 軽口を言う彼の胸を、私は拳でペシペシと軽く叩いた。


「貴公は意地悪だ」


「でも、そんな俺が嫌いじゃないだろう?」


 にかり、と笑ってシェロは私の頬を撫でた。シェロの手の暖かさがじんわり伝わる。頬が熱くなる。惚れた弱みだ。分かっている。ああ、自覚しているとも。


「貴公、本当にそういうところだぞ」


 窓の外の空が、ほんのりと明るさを増す。しかし、城も、世界も、依然として目覚めきってはいない。


 この夜明け前の僅かな間、シェロの全ては私だけのものだ。



 ――これからもずっと。





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