試験問題作成
最初の職員会議以降も、何度も会議を重ね、少しずつ来年度の授業計画がかたちになっていった。
「グラジオ先生、この試験問題、本当に生徒がちょっと勉強したくらいで、解けるようになるとお思いですか?」
「いや、それは……」
「全員0点のテストでは意味がありません。
生徒がどの程度理解しているのかが分かるように、難易度や出題箇所はばらけさせて下さい。
自分の好きな分野だけ出すのも駄目ですよ」
「ハッハッハッ、いけませんなぁ、そんなことでは!
その点、私の作った歴史学の問題は完璧です!
我が国の起こりから現在までの史実が全て網羅されています!
どうぞご覧ください、アメリア先生」
「……ヒース先生は一体どのくらいの時間、生徒に試験を受けさせるおつもりですか?
こんな量、朝から晩までぶっ通しで解いても終わりませんよ!
作り直しです!
もっとポイントを絞って、ちゃんと授業時間内で解き終わる量にして下さい」
私は、先生方が持ち寄った試験問題にダメ出しをしていく。
学院で生徒に学ばせる指導内容や授業計画といったカリキュラムと併せて、生徒の到達度を確認する試験問題を作成させたのには理由がある。
そもそも、なかば面接試験に近い口述試験以外に試験らしい試験のないこの国には、教師も含めて効率的な学習とか、学習のポイントを絞るとか、そういった発想自体がないのだ。
多分、こういうこと。
例えば、前世で好きだった娯楽小説を渡されて、この小説を学びなさいって言われたら?
この国の教師(学者)は、自分の好きな小説(学問)を、時間をかけて楽しみながら読み進めてきただけなんだよね。
で、友達にその本を勧めるみたいに、読んでいて面白かったところを生徒に話している感じなんだと思う。
“一般教養”っていうなら、それでもいい。
本当に必要な実学は、個々の立場によって家や職場できっちり教育されるから、それ以外は雑学程度で構わないってことなのだと思う。
でも、これからはそうもいかない。
それでは、これからの時代はやっていけない!
セーバの街を見て、この国の上層部はそう判断したそうだ。
そんな訳で、まずは教える側の教師から教育していかないといけないんだけど……。
何を教えるべきで、何を教えるべきではないのか?
まずは、教師自身に、自分の学問のポイントを整理してもらう。
試験問題の作成は、その訓練の一環だったりする。
試験問題を作らせてみれば、その教師がどういうところを大切と考えていて、どのような指導をするつもりなのか、その見当をつけやすいからね。
前世の私は、自分が勉強するときにも、生徒に勉強を教える時にも、所謂“トップダウン”の勉強法を採用していた。
まずは、分かっても分からなくても、過去問や問題集に目を通す。
そして、どのようなことが聞かれるのか?、どういった内容を理解すればいいのか?の、全体像を掴む。
あとは、その問題を解くために必要な知識を確認していくだけだ。
いきなり過去問の解説で理解できないなら、もう少し内容を噛み砕いた基本問題集や参考書をチェックし、それでもよく分からないところは、その部分だけを教科書で確認する。
ゴールから逆算して、必要なものを補充していくやり方だ。
それに対して、生徒がよくやっていた方法が、“ボトムアップ”の勉強法。
まず、教科書で大切な箇所(と、生徒は思っている)に線を引いたり、ノートに抜き出したりする。
そして、ある程度理解できたと思ったところで、問題集に取り掛かる。
でも、大抵は解けない。
自分が一生懸命覚えたところが問題集には出てなくて、自分が大して大切ではないと思って切り捨てたところが出題されていたりするから……。
例えば、クラスで一番点数の悪い子が、ここ次のテストで絶対出る!とか言ってたとして……それ、信用する?
ちょっと考えれば当たり前で、どこが大切なのかが分かるのは、その内容を既に理解している人だけだ。
これからその内容を学ぼうとする生徒に、重要か重要でないかの判断など、できるわけがない。
なら、どうするの?って話なんだけど、ここで登場するのが過去問や問題集、参考書。
これらは、内容を完全に理解している人間が、この辺りの質問に答えられるなら、大体内容を理解していると判断していいだろうと、知恵を絞って要点をまとめたものだ。
つまり、過去問や問題集でよく聞かれる内容をしっかりと勉強しておけば、それだけでかなりの部分は理解できるということだね。
パレート先生も、大切な2割を押さえれば、全体の8割は理解できるって言ってるしね。
特に、この学院で生徒に身に付けさせようとしている知識は“広く浅く”だ。
専門的な知識が知りたければ、後から時間をかけて勉強するなり、専門職に聞けばいい。
でも、様々な専門職を使う立場の人間に全く知識が無いと、使っている人間に簡単に騙されてしまうし、適切な指示も出せない。
大体、無知な貴族に見当外れな命令を出されて苦労するのは、いつも現場の平民なのだ。
正しい判断をするためには、最低限の知識は必要不可欠だ。
それに、もっと言ってしまうと、この国の“魔力至上主義”も、魔法に関する“無知”が原因だ。
驚いたことに、この学院で教える魔法学、いわゆる魔法に関する座学は、“一般教養”に含まれるらしい。
そして、魔法実技の授業では、魔法に関する講義のような座学は、一切無いんだって。
なら、魔法実技の授業では何を教えているの?って聞いたら、ひたすら実践あるのみ、だそうだ……。
私も、こっそり見学に行ったんだよ、魔法実技の授業。
『もっと的に集中しろ!』とか、『もっと気合を入れろ!』とか、『イメージだ! もっと強い炎をイメージしろ!』とか……。
効率的な魔力運用とか、魔力が魔法に変わるプロセスとか、もう一切無視だ。
あれでは、単純に持って生まれた魔力量の違いが魔法の結果に表れるだけで、技術やセンスによる違いなど生まれるはずもない。
個々が魔法を使う練習にはなっているけど、それだけだ。
生まれつき魔力量の多い者は強力な魔法が使えて、魔力量がそれなりの者はそれなりの魔法しか使えない。
他者と自分の魔法を見比べて、やはり魔力量が全てだという思想を刷り込まれていくだけだ。
さて、どうしたものか……。
王妃様に依頼されたのは、魔法と社交のみで勉強しようとしない学院生の、学力の底上げだったけど……。
この国の“魔力至上主義”を変えるという私の目的を考えると、やっぱり魔法実技の方の改革も必要だと思うんだよねぇ……。




