八十五話
母は冷淡な印象だった。
それが普通だったから特別気にした事はなかった。だが第二王子が生まれ、エリアスの取り巻く世界が変わった。
実兄と似ているヨハネスを母は溺愛した。自分にはあんなに無関心だったのに。
周りも何処となくよそよそしくなり、日々不安に駆られた。
それでも王太子は自分だ。そう自分に言い聞かせ、母に気に入られようと努力した。だが、幾ら頑張った所で意味がなかった。
このままじゃ、この場所もヨハネスに奪われるかも知れないーー
そんな中、転機が訪れた。第三王子が生まれた年、王妹が娘を産んだ。
父は自分の息子より姪が生まれた事に喜んで見えた。それが酷く哀れで滑稽に思えた。ただ母はローラントの事は嫌っていなかった……。
不要なのは、私だけなんだーー
だから父が溺愛している妹の娘を利用してやろうと考えた。
もう自分にはこの方法しかない。
ルーフィナが二歳になった頃、王妹夫妻を訪ねた事があった。
『叔母上、ルーフィナが大きくなったら私に下さい』
思惑がバレないように極力純粋で無邪気に笑ってみせた。だがーー
『ふふ、エリアス王子にそんな風に言って貰えるなんて嬉しいですわ。でも歳も離れてますし、王子にはもっと相応しい方がいらっしゃると思います』
子供の戯言なんだから、素直に頷けば良いのに。だがまあ、少し焦り過ぎたかも知れない。
それから夫妻は警戒しているのか、屋敷にエリアスを招待してくれなくなった。
そしてルーフィナが7歳になった年、エリアスは久々に夫妻と対面した。
時間が経ち、警戒心が薄れたのだろう。良い機会だと改めて婚約の申し出をしたがーー
『お気持ちは嬉しいのですが、私共はあの子を政治の道具にするつもりはありません。どうか諦めて下さい。今日の話は聞かなかった事にしますので』
また断られた。しかもハッキリとした拒絶だった。
予想と違う反応にエリアスは激しく動揺する。
王太子の婚約者、延いては将来の王妃だぞ。普通なら断る筈がない。
やはり彼等も自分の事を軽んじているのだろうか。
国王に告げ口をされるかも知れない。
真っ先にそれが脳裏に過ぎった。
間違えてしまったーー
直ぐに修正しないと。
もし告げ口されなくても、将来的に障壁となる可能性がある。
どうする? どうしたらいい?
それから暫くの間、苦悩し続けた。
そんな中、暁光が訪れた。
エリアスが何をするべくもなく王妹夫妻が事故で亡くなった。
夫妻が亡くなり、真っ先に国王にルーフィナは自分が引き取りたいと申し出た。
『お前とルーフィナは歳が離れている。あの子には然るべき場所を探すから、お前は心配する必要はない』
そんな風に言っていた癖に、自分と同い年であるあの男へと嫁がせた。
父が分からない。
大切な姪を、私などには任せられないという事なのだろうか。
だが、クラウスもまた彼女とは歳が離れている。その内、離縁するだろうと考えた。それに、あのクラウスの事だ。幼い妻に興味など示す筈がない。
ルーフィナが大人になるまでは、まだまだ時間がある。クラウスがルーフィナを見捨てたら、手を差し伸べればいい。
王妹夫妻の葬儀の日。
涙を流す事なくただ佇んでいた彼女の手を取った。
『叔母上達がいなくても寂しくない様に私がいてあげるよ』
そう優しく声を掛けた。
それから私はルーフィナに気に入られる様に足繁く屋敷に通った。
正直、王太子としての仕事が忙しく面倒ではあったが仕事の一環として我慢した。
ザームエルの存在を知ったのは、偶然だった。
事故から三ヶ月程経ったある日、王妹夫妻の護衛をした者達が、話しているのを盗み聞いた。
『ザームエル殿、騎士団に残れるらしいぞ』
『みたいだな! 本当、良かったよ! あの人、良い人だし』
『それにしても災難だな。事故だっていうのに、騎士団を解雇されるどころか爵位まで剥奪される所だったんだろう? 流石に酷いよな』
『ザームエル殿もそうだが、マリウスは残念だった』
『そうだな……でもまさか、立て続けに事故に遭うなんて、それも事故の翌日に』
『でも何で夜中にあんな場所にいたんだ?』
立て続けに事故?
そんな話は聞いていない。
エリアスが聞いたのは、王妹夫妻の事故だけだ。
マリウス……確か、クラウスの友人だったか。
気になり事故の事を詳しく調べる事にした。
城の書庫に行き、完成したばかりの事故記録を手にした。
マリウス・ミシュレ。
マティアス・ブランシェ公爵、セレスティーヌ・ブランシェ公爵夫人死亡事故翌日深夜、山道から転落死亡ーー
マリウスの記録はたったのこれだけだった。
だが、確かに不自然だ。
記録によれば、王妹夫妻が死亡した翌日はまだ護衛達は現地で待機していたとある。転落したのは事故現場付近という事だ。
死亡時刻は深夜、そんな時間に山道に何をしに行った?
もし事故現場だとすると、何かを確認しに行った可能性がある。ならば何を確認しに行ったのか?
護衛隊長の名はザームエル・ファロか……
それから直ぐにザームエル・ファロに接触をした。
事故の話を聞くと彼は淡々と状況説明をした。だがセレスティーヌの名を口にした瞬間、一変し感情的になった。
何かあると思い、鎌をかけると事故に見せかけ王妹夫妻を殺害した事をあっさりと自供した。またマリウスの事も、犯行がばれそうになり山道から突き落とし殺害したという。
エリアスはザームエルの話が終わると「私は君の味方だ」そう告げた。
彼は何れ使える、そう考えた。
そして「その時までは」と、心内で付け加えた。
エリアスは、事故記録のマリウスの箇所の改竄をした。
王妹夫妻が事故死した事は、既に周知されているが、マリウスの死は殆ど知られていない。仮に知った所で一介の騎士の死など誰も興味を持たないだろう。ただ正規の状態の記録を見た者が、エリアスの様に不自然さに気付く可能性も否めない。故に念には念をいれた。
それから八年の月日が過ぎた。
エリアスの思惑通り、クラウスはルーフィナに全く関心も示さず、妻を別邸に放置し会いにも来なかった。
社交界では白い結婚と周知され、ルーフィナは既婚者にもかかわらず、見合い話が後を絶たなかった。身の程知らずも甚だしい。
ルーフィナは私の妃になる娘だーー
そんな中、ルーフィナが社交界デビューを果たしクラウスがルーフィナに興味を持ち始めた。
今更何を足掻いた所でルーフィナは見向きもしないだろう、そんな風に鷹を括った。だがエリアスの思いとは裏腹に、二人は少しずつ距離を縮めていった。
更にその事に焦りを感じたルーフィナに惚れているテオフィルという男が、クラウスの愛人と噂のあるカトリーヌという女と盛大にやらかした。
馬鹿な人間達だ。
テオフィルとカトリーヌ、それぞれ匿名で双方の情報を書簡で与えてやった。
程なくして二人は事を起こしてくれた。
恋は盲目などとよく言うが、まさか本当にそんな人間が存在するとは思わなかった。お陰で簡単に事が運んだ。
そう思ったが、思っていた以上に使えなかった二人は、逆に余計な事をしてくれた。
クラウスからルーフィナを遠ざける所か、更に二人の仲は深まった。
少し焦りを感じ始めたエリアスは、ザームエルを使おうか悩むが、あんな事件が起きたばかりだ。何かの拍子で、エリアスが書簡を送った事が露呈でもしたら困る。
少し時間を開ける事にした。
事件から半年程過ぎ、そろそろ頃合いかとエリアスは動き出した。
クラウスの元へ行き、自分の側近になる様に打診をする。少し難色を見せたが、どうにか説得する事に成功した。
自分の側に置いて監視し、仕事を山の様に与えて彼女との時間を奪った。
婚約破棄の為に女装させたリアに護衛をさせていたが、クラウスにリアの正体が男だとバラした。そうする事で、クラウスはリアを男と認識しその様に接する筈だ。
普段女性に対して紳士的なクラウスが、女装したリアを異性ではなく同性として扱えば特別な存在に見えるだろう。
更にリアには、クラウスにベッタリと張り付く様に命じ、後は二人をルーフィナの元へと連れて行けばいい。
クラウスに不信感を少しでも覚えれば、そこから亀裂が生じやがて希薄な関係など簡単に破綻するだろう。
そんな中で、ザームエルが勝手な行動を取り始めた。
これまで花を贈る事は見逃してやってきたが、意味深長な言葉を綴り送り始めた。
正直腹立たしさを覚えたが、ザームエルを嗜める書簡を送った。
そのやり取りの中で、嗜めながらも着実に準備を進めさせる。
そこで確実に始末出来る様に、異国の珍しい毒を使わせようと考えた。
この頃になると、エリアスの中でクラウスへの嫌悪感が生まれ、邪魔な存在を退けるから殺すに変化していた。
もう直ぐ誕生日を迎えるルーフィナへの贈り物の助言を約束通りクラウスにした。無論、彼女が喜ぶ物ではなく真逆な事を言っておく。童貞の彼なら気付きもしないだろう。
エリアスはルーフィナに似合うだろう煌びやかなドレスや装飾品を贈るつもりだ。きっと喜んでくれる筈だ。
ルーフィナの誕生日のお茶会にクラウス達を引き連れ向かい、リアにはいつも通りクラウスに馴れ馴れしくさせる。
効果は抜群で、彼女は随分と気にしていた。
だがクラウスは図々しくルーフィナの隣を譲る様に要求してきた。仕方なく少し不機嫌そうなローラントを嗜め席を譲らせた。……本当に邪魔な男だ。
暫く屋敷を訪問していなかったが、お茶会を機にまたエリアスは屋敷を訪ねた。
この時、ようやくエリアスは婚約破棄に漕ぎ付けていた。
いいタイミングだとルーフィナに揺さぶりを掛け、不安を煽る。
今、クラウスはザームエルが送り込んだ刺客の所為で余裕がない。
だが気がかりがある。リアの事だ。
どうやらエリアスには内密にクラウスを助けている様だ。思う様に事が運ばないのはその所為でもある。
取り敢えずリアを泳がせた。何を企んでいるのか見極めなくてはならない。
暫くしてクラウスが休暇を申請してきた。その理由はルーフィナとのデートだという。
どうやって妨害するかと思案していたが、自ら断念をしていた。
エリアスはこの機を逃す筈もなく、代わりにルーフィナをデートに連れ出す事にする。
偶然クラウス達と遭遇し後をつけた。
そしてあの日、クラウスはザームエルの雇った刺客に刺され倒れ、剣に塗られていた例の毒により死の淵を彷徨った。
あの時、刺客はクラウスではなく確かにルーフィナを狙っていた。
流石のエリアスも予想外の出来事だ。
考えられる理由は、ルーフィナを狙った様に見せかけて実際はクラウスが庇うのを想定したか。始末するのに手こずっていた様子だった故、あり得なくはない。若しくは本当にルーフィナを狙ったか。彼女を負傷させ、解毒剤を使い命の恩人になろうと考えたのかも知れない。もしそうなら頭がいかれている。
だが窮地に陥ればエリアスも同じ手法を取るだろう。以前から彼とは思考が似ていると思い可笑しくなった。
少々予定が狂いはしたが、これでクリウスが死ねばルーフィナは自分が手に入れる事が出来る。後はザームエルを始末するだけだ。
ただルーフィナに話を聞かれてしまったのが問題だ。彼女の優しい従兄として在り続け上手く手綱を握るつもりだったのに残念でならない。だが従わせる方法など幾らでもある。
エリアスはザームエルの口車に乗ったルーフィナの救出に向かった。
そこまでは順調だと思っていた。それなのにーー
「こんな筈ではなかった……」
ただの駒の一つでしかなかったのに。
燃え盛る炎を背に塔から身を投げた彼女に、血の気が引いた。
ああ私はまた間違えてしまったーー
気付いたら湖に飛び込んでいた。




