八十三話
(君が僕を呼ぶ声が聞こえたんだ)
暗闇の中でルーフィナが呼ぶ声がして、手に温もりを感じた。
目を覚さないといけないーー強くそう思った。
そうして重い瞼を開ければ、自分の手に縋り付き泣いている彼女がいた。
正直、死んだと思った。
元々弱っていた所に、あの高さから落下したのだ。奇跡なんて起きる筈がない。だがどうやらその奇跡は起きたみたいだ。神などそんな不確かなものを信じた事はないが、今回ばかりは感謝するしかないだろう。
これまで惰性で生きている様な人間だったので、死ぬ事に恐怖はなかった。
ルーフィナの命が助かるだけで十分だと思った筈だった……。だがあの時、自分でも驚く程の未練と邪念が情けない事に浮かんだ。
ルーフィナと一緒に生きたいーー
まだ彼女の事を何も知らない。
もっと彼女の事を知りたい、もっと自分の事を知って欲しい。
飽きるまで話しをして、飽きるくらい笑い合って、飽きる程名前を呼び合いたい。
一緒に暮らして、毎日おはようと言われたい、お休みと言いたい。ただいまと言って、お帰りと言って欲しい、言われたい。
休日は、街へデートに行きたい、手を繋いで散歩もしたい、たまにはショコラとも遊んでやってもいい。
盛大に結婚式を挙げて、彼女のドレス姿を見たい。その後は遠方に新婚旅行に行くのもいい。
暫くは二人の時間を過ごしたいが、何れ彼女との子供が欲しい。
彼女に触れたい、一度だけじゃなく何度も口付けをして、全身で彼女を感じたい。
一緒に歳を重ねて、生きていきたいーー
他人や実の父親にすら興味などなかった自分が、まさかこんな風になるなど滑稽で情けなく思う一方で存外悪くないと思う。
唯一少しだけ信頼出来たマリウスが、今の自分を見たら「やっぱ、お前もただの男だったんだな!」そう言って嬉しそうに笑うだろうか。
「クラウス様、おはようございます」
クラウスが目を覚ましてから一ヶ月余りが過ぎた。
一足先に完治したルーフィナが朝食を持って部屋へと入ってきた。
「おはよう、ルーフィナ」
彼女はテーブルにトレーを置くと、ミルク粥の入った器を手にベッドの横の椅子に座る。
「ルーフィナ、そういった雑用は使用人にさせるから君がする必要はないんだよ」
「確かにそうかも知れませんが、私がやりたいんです。はい、クラウス様、あ〜んして下さい」
「い、いや、だから」
「あ〜ん」
三十路手前の男が食べさせて貰うなど恥ずかしくて出来るか! と思いながらクラウスは口を開けた。
「最近、ルーフィナが僕の世話を焼きたがるから困ってるんだ」
食事の世話のみならず着替えを手伝おうとしたり、身体を拭こうとしたり、仕舞いには下の世話まで申し出た時は冷や汗を掻き目眩がした。
「その割には、口元が緩んでいますよ」
昼間、ラウレンツが屋敷を訪ねて来た。
彼と会うのはかなり久々だ。カトリーヌとアルベールの一件以来疎遠になっていた。だが今回、クラウスとルーフィナが危篤となりジョスが近しい人間達に知らせを出した。
その所為で、まさかの国王まで見舞いにきた。まあほぼルーフィナの為であり、クラウスはオマケに過ぎないのだが。
話を聞けば、半日程ルーフィナの部屋に滞在した後、帰り際の数分クラウスの部屋に立ち寄ったそうだ。雲泥の差だが、可愛い姪とその姪を危険に晒した夫ではそれも仕方がないだろう。
「それにしても、思っていた以上にお元気そうで良かったです。本当に心配したんですよ」
「すまない」
「そういえば、コレットから夫人にこちらを預かってきたんです」
「花束か……」
ルーフィナが療養中、手紙のやり取りをしていたと言っていた。毎日の様に花束が届けられ、部屋は花で埋め尽くされていると苦笑していた事を思い出す。それに加え国王からも毎日花やら見舞いの品が届けられ、更にローラント達も毎日花束を持ってきていたという。
「ありがとう、後で渡しておく。夫人には礼を言っておいてくれるかい。でも、ルーフィナは床離れしたから、もう気を回して貰わなくて結構だよ」
「ああ、確かにそうですね。コレットに伝えておきますね」
一瞬、有り難迷惑とはこういう事をいうのだと思ったが、ふと以前自分もルーフィナに毎日の様に薔薇の花束を送っていた事があったと思い出し反省をした。
「ただいま戻りました」
「お帰り」
夕方になりルーフィナが学院から帰宅した。
クラウスが全治するまでは、本邸で過ごしたいと言ってくれた為だ。
「ルーフィナ、息が切れているね。もしかして体調が良くないんじゃ……」
「えっと実は、クラウス様に早く会いたくて、早歩きしてきたんです」
頬を赤く染めながらはにかむ姿は誰が何と言おうと天使にしか見えない。いや妖精か、たまに子猫にも見える。兎に角この世のものとは思えないくらいに愛らしい。少し上目遣いなのがまた堪らない……。
身体さえ動けば、今直ぐに抱き締めて口付けの一つくらいしたい。だが、全身骨折した為、全治にはまだまだ時間がかかる。それに完治したらルーフィナは別邸に戻ってしまう。早く治りたい様な治りたくない様な、複雑な心境だ。
いい機会だ、いっそのこと一緒に暮らそうと提案してみるのはどうだろうか。こんなに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて、自分の為に涙まで流してくれたのだ。断られる筈がない。
「クラウス様、どうかなさいましたか?」
「ルーフィナ、一つ提案があるんだ」
「はい」
「僕が完治してもーー」
言い掛けてクラウスは口を噤む。
不意にあの時の記憶が頭を過った。
『ルーフィナ、君を愛している』
思い返して見れば、クラウスの告白にルーフィナは答えてくれていない。以前好きと言ってくれたが、好きと愛しているでは重みもなんなら意味合いすら違ってくる。
先程まで自信満々だったのが、嘘の様にクラウスは一気に自信喪失した。
「クラウス様?」
「あ、いや、僕が完治しても……こうして会いに来てくれるかい?」
「勿論です! 毎日は難しいですが、お休みの日なら大丈夫です」
「それはそうだね、はは……」
乾いた笑いしか出ない。
今の自分にはこれが精一杯だ。身体が弱っているのに、精神的なダメージまで負うのは辛過ぎる。
「ルーフィナ」
名前を呼ぶとルーフィナは小首を傾げた。
「何も聞かないんだね」
「……」
皆まで言わずとも理解した様子の彼女からは笑みが消えた。
クラウスが目を覚ましてから、様々な人間がクラウスの元を訪れている。主に国王からの使者であり、今回の騒動に関して何度もやり取りをしていた。
なにぶん慎重にならなければならない。騒動には王太子の関与が疑われ、首謀者は九年前の王妹夫妻の殺害を自供している。
ルーフィナはこのどちらも知っている筈だが、不自然な程何も聞いてこない。それが何を意味しているのかはクラウスには分からないが、エリアスの事もザームエルの事に関しても彼女にとっては人生を変える程重大な事柄だと言える。気にならない筈がない。
一人で抱え込んで欲しくない。ルーフィナの悲しむ姿は見たくないが、正直繊細な事柄故どこまで干渉していいのか計り兼ねていた。
「僕が回復したら、一緒に登城する様に陛下から言いつかっている。だが僕は君の意思を尊重したい。行きたくなければ、行かなくていい。君に無理をさせたくない。陛下には僕から話をするから心配しなくていいよ。だから、素直な気持ちを聞かせて欲しいんだ」
「……ありがとうございます、クラウス様。でも大丈夫です。私も一緒に連れて行って下さい」
真っ直ぐにクラウスの目を見て堂々と話す姿に、この一年余りで随分と成長したと改めて感じた。




