八十話
九年前、両親が外交の為に他国へ赴いていた時ーー
山道を通る前夜、馬車の前輪に外れやすい様に細工を施した。
そして翌日、ろくに整備がされていない凹凸のある山道を暫く走っていた時、馬車の前輪が外れ傾いた馬車は急斜面を滑り落下した。
ザームエルは淡々とそう語った。
「私のセレスティーヌは穢されてしまった。彼女を救うには、ああするしかなかったんだ。そんな顔をして可哀想に、君の気持ちは痛い程分かる。彼女を喪った時、私も身が裂かれる程に苦しみ、悲しみと絶望に打ちひしがれた」
この人は一体何を言っているのだろう。分からない。悲しい? 絶望した? 貴方が、殺したのに? ーー
「でも私のセレスティーヌは、こうして戻って来てくれた。やはり私達は結ばれる運命だったんだ」
恍惚とした表情と欲望に満ちた瞳がルーフィナを捉えてる。
だが先程まで感じていた恐怖は不思議ともうない。
スッと心が冷えていく感覚だけを感じた。
「セレスティーヌ、全ては君の為だったんだ。慈悲深い君なら分かってくれるだろう? でもこれでようやく君と……ゔっ‼︎」
「っ‼︎」
再びザームエルの手がルーフィナの頬に触れた瞬間、彼は瞳孔を開き呻き声を上げた。肩からはポタポタと血が流れ落ちていく。
「私も大概だが、君には敵わないな。頭のおかしい奴だと思っていたけど、本当に狂っていたんだね」
ゆっくりと視線を上へと向けると、そこにはエリアスが佇んでいた。彼は平然とした顔でザームエルの肩から剣を引き抜くと、心配そうにこちらを見るフリをする。
肩を負傷したザームエルは、ルーフィナの上から飛び退き壁に立て掛けられた剣に手を伸ばすが、その手をエリアスが斬り付けた。彼からは小さな悲鳴が上がる。
「怖かったね。でも、もう大丈夫だよ」
「エリアス、様……」
ゆっくりと近付いてくるエリアスにルーフィナはベッドの上から飛び降りる。そしてそのまま距離を取る為に窓際へと逃げた。
「どうして逃げるの? 酷いな〜私は助けに来たのに。……はぁ、君、少し静かにしていてくれないかな。今私は、フィナと話をしているんだ」
血を流し蹌踉めきながらもザームエルはエリアスに掴みかかろうとするが、エリアスは不機嫌そうに彼を足蹴りし突き飛ばした。
「セレスティーヌっ……私の、天使……私の全て……ゔっ、ぁ"」
エリアスは床に転がるザームエルを見下ろし勢いよく何度か踏み付けた。すると彼は動かなくなる。
「彼を心配しているのかい? 本当にフィナは優しい子だね。でも大丈夫だよ。彼にはまだ役目があるから殺したりはしない。ああでも、戯言をほざく舌は切り落としておかないとね」
「‼︎」
ニッコリと笑むと、ザームエルの顔を鷲掴みにし口を強引に開く。そして短剣を取り出しーー
「や、やめて下さいっ‼︎」
気付けば叫んでいた。
「……何故? フィナがザームエルを庇う謂れはないだろう?」
「それは……」
「彼から真実を聞いたんじゃないのかい? 恨みこそしても助け様とするなんて理解出来ないな」
助けたい訳ではない。ただ目の前で傷付けられるのが怖かっただけだ。それにエリアスはザームエルを殺さないと言うが、話す事が出来なければ罪を認めさせる事も出来ない。何より彼にはまだ聞かなくてはならない事がある。
「薬を、その人は薬を持っているんです! 何処にあるのか教えて貰わないと、クラウス様が……」
死でしまうーー口にするのが怖くなり、その言葉を呑み込んだ。
縋る思いでエリアスを見ると、彼はザームエルから手を離した。
「分からないな。そんなにクラウスが大事なの? ずっと君を蔑ろにしてきた彼が? 私の方が君をずっと大切にしてきたのに」
エリアスの顔からは感情が抜け落ち、何を考えているかを読み取る事は出来ない。
「フィナ……私には君が必要なんだ。
フィナが私の妃になれば、何もかも上手くいく筈なんだ」
思わぬ言葉にルーフィナは困惑が隠せずにいる。
「ねぇフィナ、君が欲しがっている薬は私が持っている」
そう言いながら上着のポケットから小さな小瓶を取り出し見せた。
その瞬間、やはり彼も事件に関わりがあったのだと確信を得た。分かってはいたが、目の当たりにするとショックだった。
「実はクラウスが受けた毒は珍しい物で、解毒剤はそうは手に入らない代物でね。私の言いたい事、分かるかな?」
いつの間にか至近距離まで迫ったエリアスは、小首を傾げルーフィナを覗き込む様にして上目遣いで見てくる。
「……何がお望みですか」
「やっぱり、フィナは素直で良い子だね」
頭に触れられて、ゆっくりと撫で回された。
「そんなに警戒しなくていい。先程も言ったけど、私には君が必要なんだ。何、簡単な話だよ。君はクラウスと離縁して」
「っ⁉︎」
「私と結婚して妃になって貰いたいだけだから。ああ、勿論後継者は必需だから、子作りもしないといけないんだけど……まあそれはまた今度じっくりと話そうか。それとも先に子作りしちゃうかい? 私は全然構わないよ。ただ君はまだ彼の妻だから、今身籠ると少し面倒な事になるな」
何となしにそう話す様子に恐怖を感じる。
余りにも唐突過ぎて理解が追いつかない。
「どうして、私何ですか……」
かろうじて出た言葉は少し震えていた。
髪や頬に触れている彼の手が気持ち悪くて仕方がない。
「フィナを妃にしたら、母上がどんな顔をするか楽しみなんだ。ずっと私をいないものとして扱ってきたあの人が」
「王妃様?」
「そうだよ。それに父上はどうだろう。大事に思っている姪が私の妻になれば見直してくれる筈だ。父上が私を評価してくれれば、周りの者達も私を認めてくれる。王になるのはヨハネスじゃない、私だ」
要はエリアスは両陛下に認めて貰いたいという事なのだろうか? だが何故第二王子の名が出てくるのかが分からない。
今も昔も王太子はエリアスであり、このままなら何れ国王になるのは彼の筈だ。
追い詰められた様子のエリアスに、逆にルーフィナは少し冷静さを取り戻した。
「フィナ、クラウスを助けたいんだろう? なら私に従うと誓えるね」
先程の説明だけではエリアスの思惑は見えない。だが彼の目的がなんであれ、今大切な事は解毒剤を手に入れてクラウスを助ける事だ。それなら迷う必要などない。
もう二度と大切な人を失いたくないーー
ルーフィナは左胸のブローチに触れ握り締めた。あれからずっと肌身離さず身に付けている。
「分かりました。エリアス様に従います」
「フィナならそう言ってくれると思っていたよ」
エリアスはいつもと同じ様に爽やかに笑うと、ようやくルーフィナを解放した。そして懐から取り出した二枚の紙をテーブルに並べると、署名する様に促してくる。
一枚は離縁書、もう一枚は婚姻書だ。
「エリアス様」
「何かな」
ルーフィナはペンを握り締めたまま二枚の書面を凝視する。
九年前、クラウスと結婚する為に書いた事を思い出す。あの時は訳も分からないまま言われるがままに署名をした。だからその重みを知らなかった。
(でも今は、こんなにも重い……)
「確認したい事があります」
「……言ってごらん」
「解毒剤は本物なんですよね?」
彼は一瞬呆気に取られるが、直ぐに「勿論だよ」と頷いた。
「証明、出来ますか?」
往生際が悪いと思うかも知れないが、クラウスの命が掛かっているのだ。後から偽物だったなど洒落にならない。
「はは、嬉しいよ、フィナ。成長したね」
「エリアス様、茶化さないで答えて下さい」
「茶化してなんてない。ただ少々驚いてしまってね。そうだね、ならこれを君に預けようか」
そう言いながらエリアスは指輪を指から外すと、ルーフィナに手渡す。思わず受け取る手が震えた。
純金で作られたそれは、単純に指輪その物の価値よりも存在価値が大きい。何故ならその指輪は代々王太子に受け継がれる証だからだ。
「流石にこれは……」
「これでは不服かな」
「い、いえ、でも……」
「クラウスが回復した暁には、その指輪と共に君が私の元に戻ってくるのだから問題ないよ。さあ、フィナ。早く署名をして」
ルーフィナはゆっくりと深く呼吸をすると、二枚の書類に署名を済ませた。
「交渉成立だ」
彼は満足そうに笑い、解毒剤の入った小瓶を渡してくれた。そして書類を感慨深そうに眺める。
「本当はこんな強引に事を進めるつもりではなかったんだけど、色々と計画が狂ってしまったんだ……上手くいかないものだね。ああ、そうだ。フィナの事は大切にするから安心していいよ。私は彼と違って君に寂しい思いはさせない。やはり可哀想な君の事を理解してあげられるのは、私だけだからね」
まただ。エリアスはルーフィナを「可哀想」だと言う。哀れむ気持ちが悪いとは言わない。だが無性に腹立たしく感じるのは何故だろう。
「エリアス様。ザームエル様が、私の両親を殺した事は事実なんですよね」
不意に、未だ床に転がっているザームエルの姿が目に入る。解毒剤を手に入れた事で少し余裕が出来たらからかも知れない。
「ああ、そうだよ」
「では、エリアス様は関与していますか」
「いいや」
一呼吸置いた後、エリアスは顔色を変える事なく否定をした。
「でしたら、クラウス様の件はどうですか?」
「いいや」
「……」
「フィナ、良い事を教えてあげよう。私は傍観者に過ぎないんだよ」
意味深長な言葉に困惑するが、今は問いただしている暇などない。
「エリアス様、私は帰ります」
「帰る、ね」
くすりと笑われた。
エリアスの言葉に既視感を覚える。
もう直ぐ離縁するのに、そもそも一緒に暮らしてすらないのにーーそんな風に言われている気がする。
でもそんな事はどうでもいい。
「はい、私はまだクラウス・ヴァノの妻、ルーフィナ・ヴァノですから」
ルーフィナは胸を張り笑って見せた。




