七十六話
「ーー傷は思いの外浅いですが、問題は毒の方です」
上気した頬、額には汗が滲み、薄い唇は酸素を求め開いたままだ。
刺された直後は青白い顔をしていたが、ヴァノ家本邸に運び込まれベッドに横になる頃には高熱を出して苦しみだし呼吸が乱れ始めていた。
幸い傷口は致命傷には至っていなかったが、どうやら刃物には毒が塗られていたらしい。
「一般的な解毒剤を処方致しましたので、少し様子を見たいと思います」
使用人達が忙しなく部屋に出入りする様子をルーフィナは、部屋の隅で呆然と眺めるしか出来ない。何かしたいのに、何も出来ない自分がただ情けなく感じた。
「奥様、もう側に寄って頂いても問題ございません」
「は、はい」
医師から許可が降りたので、ベッドの横に座りクラウスの手を恐る恐る握った。
「クラウス様……」
(私のせいで、こんな事に……。ごめんなさい、クラウス様……)
あの時、外套の男は確かにルーフィナを狙っていた。それを身を挺して彼が庇ってくれた。
背中を刺され、血を流すクラウスの姿を思い出し背筋が凍った。心臓が煩いくらいに脈打ち、呼吸が乱れ息苦しくなる。
(どう、しよう……どうしよう、クラウス様が死んでしまったら……いや、そんなのダメっ‼︎ クラウス様が死ぬなんて、考えたく無い……。私、まだ聞けてない。お父様やお母様の所為で、貴方の大切な友人を喪った事をどう思っているのか。私の事を本当は、恨んでいるんじゃないかって……。クラウス様が私に好きだと言ってくれた事、とても嬉しかった。まるで夢を見ている様で、でもふとした瞬間本当は違うんじゃないかって思って悲しくなるの。夫婦としての義務や八年間への償いなのかも知れないって……)
クラウスからあの時貰ったブローチや言葉が嬉しくて、何度もベアトリス達にその話しをした。だがそれは今思えば不安の現れだった様に思える。
不安を払拭したかった……。
心の奥でクラウスが無理をしているんじゃないかと疑っていた。義務感からルーフィナを好きになろうとしているのかも知れないと思っていた。だから余計に浮気をしているんじゃないかと疑心暗鬼に陥った。
でも今はそんな事どうだっていい。彼が無事に目を覚ましてくれるなら、どんな現実も受け入れる。例え自分が望まない結果だとしても。だからーー
(死なないで下さい、クラウス様っ)
「フィナ」
「っ! エリアス様……」
不意に肩に手を置かれ驚いて反射的に顔を上げる。見上げればエリアスが眉根を寄せ微笑していた。その様子から彼もまたクラウスを心配してくれている事が伝わってくる。
「時期に薬が効いてくる筈だよ」
「はい……」
「大丈夫、何があろうとフィナには私がいるからね」
「エリアス様……」
静かに手を握られた。
少し言い回しは引っかかるが、彼なりの励ましだと思う。
ルーフィルは弱気になっていた気持ちを引き締める。役に立たなくても、立たないなりに何か出来る事がある筈だ。
「クラウス様、負けないで下さい」
(私も負けませんから)
そう心の中で強く誓う。不安に負けて弱気になっている場合ではない。
エリアスのお陰で、少し冷静さを取り戻せた。
ルーフィナは、声を掛けクラウスの手を両手で握り締める。
「エリアス様?」
「……」
すると急に黙り込んだエリアスは、そのまま部屋から出て行ってしまった。
「う、ん……」
ルーフィナは目を開けると、ベッドに伏せていた身体を慌てて起こした。
どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。時計に目を向ければ、夜中の一時を回っていた。
ジョスに無理を言って自ら付き添いを申し出たのに、これでは意味がない。
「あ、クラウス様は……」
ランプの頼りない薄灯りの中、クラウスの姿を確認をすると、先程に比べて少し呼吸が落ち着いてはいるものの苦しそうだ。
額のタオルを桶の水で濡らし直し絞ると、それを再び戻した。
その後ルーフィナは、桶の水を新しい物に変えるついでに喉を潤そうと席を立つ。扉を開け使用人に声を掛け様とするが誰もいなかった。
「クラウス様、少しだけ離れますね」
仕方がないとルーフィナは部屋を出る。
厨房へと向かうべく薄暗い廊下を歩いて行くと、進行方向ではない右手に灯の洩れている部屋を見つけた。ジョスか他の使用人だろう。安堵し水を頼もうと部屋の前まで行くが、聞き慣れた声に足を止めた。
(エリアス様とリアさん?)
てっきり二人共帰ったとばかり思っていた。
エリアスは部屋を出て行ったきり戻って来なかったし、リアに至ってはクラウスを屋敷に運び込んだ時から姿を見ていない。
(やっぱり、クラウス様が心配だよね)
昼間クラウスとリアが一緒にいる姿や、クラウスが刺された瞬間駆け寄って来た様子を思い出す。
クラウスの事を凄く心配していた。自らの上着を脱いで必死になって傷口を塞いでくれた。
リアがクラウスを好きな事は分かっている。
自分みたいな未熟な娘より、美人で頼り甲斐のある大人の彼女の方が彼には相応しいのかも知れない。そう思うと胸が締め付けられた。
「ーー解毒剤はザームエルが持ってるんですよね?」
「全く、彼も勝手な事をしてくれたね。よりにもよってあんな人目のある場所で。でも結果的に良かったと褒めるべきかな」
「殿下、このままではクラウスはーー」
「死ぬだろうね」
途切れ途切れに声が聞こえる。
一体二人は何を話しているのだろうか。
状況が上手く飲み込めない。
切羽詰まった様子のリアとは対照的に、エリアスは淡々としている。いや、それどころか楽しげにすら見えた。
先程まではエリアスもクラウスを心配してくれていた筈なのに、あんなに簡単に死ぬなど口にするなんて信じられなかった。
「ーー」
ルーフィナは気付いたらクラウスの部屋へと戻って来ていた。
頭が混乱して、どうやって戻って来たのか記憶があやふやだ。
フラつきながらベッドの横に蹲み込む。どれくらいそうしていたかは分からないが、不意に声を掛けられた。
「ルーフィナ様?」
「っ‼︎」
瞬間驚き身体をびくつかせる。
「ジョス……?」
「驚かせてしまい申し訳ありません。ですが、その様な所では風邪を召されます。僭越ながら私が交代させて頂きますので、少しお休み下さい」
どうやら寝ていたと勘違いをしたみたいだ。
実際少し前まで眠ってしまっていた。ただ今は眠気など何処かに吹き飛んでしまった。
「ありがとう、でも大丈夫。それより桶のお水を替えてきて欲しいの。後、飲み水もお願い」
その言葉にジョスは丁寧に頭を下げると部屋から出て行った。
ルーフィナはクラウスの顔や首筋を流れる汗を拭いながら、先程の出来事を思い出す。
正直、未だに信じられない。エリアスがあんな言動をするなど。
昔から人の話を聞かず思い込みが激しく自分本位な所はあったが、その一方で明るくて優しく頼り甲斐のある人だった。両親を亡くしてから八年もの間、寂しくない様にと頻繁に会いに来てくれた。幾らルーフィナの屋敷が城下にあるといえど、王太子である彼が訪れるのは容易な事で無いと知っている。それでも彼は些末な事の様に振る舞っていた。その優しさが嬉しかった。
ずっと兄の様に思っていたのにーー
『死ぬだろうね』
(エリアス様、笑ってた……)
僅かに開いた扉の隙間から見えた笑みが、怖かった。
まるでクラウスが死ぬ事を望んでいるとさえ思えた。
あの人は誰? ーー
知らない人に見えた。
そう言えば犯人はどうなったのだろうか。エリアスが斬り捨てた外套の男……。
逃さない為に咄嗟に斬ったと分かっている。だが本当にそれだけなのだろうか。本当はーー
「……私は、どうしたらいいですか」
クラウスに話し掛けるが当然返事などある筈がない。
未だ意識が戻らず苦しそうに、時折り呻き声を上げている。
処方した解毒剤が効いているのか不安になる。医師からは何の毒か判別出来ない以上適切な処置は難しいと言われた。もしも、一般的な毒じゃなかった場合、クラウスは……。
『ーー解毒剤はザームエルが持ってるんですよね?』
リアの言葉が頭を過ぎる。
ザームエル……何処かで聞いたような気がする。
(そうだ、ベアトリス様!)
随分前になるが、彼女が一時期一緒に夜会に参加していて、最終的に失恋した年上の男性だ。確か男性の名前はザームエルだった筈。
リアが話していた人と同一人物の可能性は低いが、少しでも可能性があるなら確かめるべきだ。いや確かめなくてはいけない、そんな気がした。
「クラウス様、もう少し頑張って下さいね」
負担を掛けない様に、そっと彼を抱き締めた。
翌日の早朝、ルーフィナは手配した馬車の前にいた。その側には困惑した二人が立ち尽くしている。
「エリアス様、リア様。申し訳ありませんが、お引き取り頂いても宜しいでしょうか」
「フィナ、こんな朝早くからどうしたんだい? 今クラウスはあんな状態だし、私が側にいた方が安心じゃないかな。私の事なら気にしないでいいんだよ? 城には既に使いをやっているし、緊急時だから仕事も少しくらい遅れても問題ないから」
エリアスは微妙に論点をずらして説得しようとしてくる。これまでならただ単に人の話を聞いていない仕方のない人で済ませていたが、昨夜の彼を思えば意図してやっているのだと分かる。
ルーフィナは、改めて姿勢を正すと二人を見据えた。
「侯爵である夫の不在時は、妻である私がヴァノ家の権限を有します。夫が回復するまでは、誰であろうと、屋敷内への立ち入りを一切禁止致します」
「ああ、フィナ、可哀想に……。きっと事件の所為で頭が混乱してしまっているんだね」
芝居がかった台詞に内心呆れていると、エリアスの手がルーフィナの頬へと触れようと伸ばされる。だがそれをやんわりと躱す。
「王太子殿下並びにリア様。どうかお引き取り下さいませ。侯爵夫人としてこれ以上、夫の醜態を他所様に晒す事は致し兼ねます。回復しましたら改めてご報告とお礼にお伺い致します。また今回の件は、決して口外なされない様にお願い申し上げます」
その後も不満げなエリアスから散々ごねられたが、最終的に強引に二人を馬車に乗せ、見えなくなるまで見送った。
「友人知人、例え王族だろうと絶対に誰も屋敷には入れない様に。もしそれで悶着が起きる様なら、私から陛下にお話すると伝えて下さい」
国王の名を使うのは本意ではないが、ルーフィナ自身にエリアスを退かせる力はないのが実情だ。先程は強引に追い出したが、彼が本気ならクラウスが伏せている今、防ぐ手立ては他にはない。
ただ母が亡くなってからはずっと疎遠であるので、正直国王がルーフィナの力になってくれるかは分からないが……。
ルーフィナは不安を悟られない様に毅然とした態度でジョスに伝えると、自邸に向かうべく馬車に乗り込もうとするが足を止め振り返る。
真っ直ぐにジョスを見据えた。
「ジョス、クラウス様をお願いします」
すると彼は「承知致しました、奥様」と言い深々と頭を下げた。
今度こそルーフィナは馬車に乗り込み、馬車は少し揺れて動き出した。
今自分がすべき事は嘆き俯く事じゃない。
(クラウス様を死なせたりしない)




