五十六話
ルーフィナが立ち去った後、クラウスは放心状態で暫し立ち尽くしていた。
あのルーフィナが自ら男性の腕に触れた。
同級生なのだから仲良く会話する程度なら構わない。いや本当は頗る嫌だが、そこはもうどうしようもない。だがスキンシップとなると話は別だ。見過ごせない。
ま、まさか普段からそういう間柄なのだろうか……。
クラウスの脳裏にイチャイチャするルーフィナとローラントの姿が浮かんだ。
『教科書、お忘れですか?』
机をくっ付けて身体まで密着して……。
『ローラント様、はい、あ〜んして下さい』
お弁当を食べさせたり……。
『ふふ、口元にトマトソースが付いてますよ』
ハンカチで拭ったり……。
『ローラント様、寝心地は如何ですか?』
仕舞いには膝枕までしたり……いやそんな事は断じてあり得ない! ある筈がない!
下らない。
動揺し過ぎてつい変な想像をしてしまった。
彼女に限ってそんなふしだらな事をする筈がない! そうに決まっている……多分。
それにしてもルーフィナが怒っていた様に見えたのは何故だろうか。
もしかしてリアを愛人だと勘違いしたのか……?
だがそうだとしても怒る理由が分からない。カトリーヌの時もそうだが、まるで関心がなかった。だが万が一という事もある。ならルーフィナはリアに嫉妬したという事か?
勘違いされるのは困るが、それはそれで嬉しい……。
いや、彼女が嫉妬するなど現実的ではない。
そこまで考えて急に冷静になった。
ならば何故……。
クラウスは他に思い当たる節を探す。
最近会いに行けていないから寂しいとか……
やはり現実的ではない気がする。
ならば何故なんだ。分からない……。
そこでクラウスはハッする。
仕事にかまけて失念していたが、数ヶ月前ルーフィナの屋敷を訪問した時、別れ際感極まっていきなり抱き締めてしまった。
やはりあの時、怒っていたのかも知れない……。調子に乗って髪の匂いまで嗅いだのが益々良くない……。
嫌われたくない思いから、頭の中から抹消していた自分が憎い。その場で謝罪するべきだった……。
だが今更だ。兎に角今は早急に手を打たなければならない。
クラウスは、相変わらず山積みの書類を見てため息を吐いた。
あの後クラウス達は暫く教会で視察をしていたが、結局ルーフィナと顔を合わせる事もなく城へと戻って来た。そして休む暇なく仕事を始めた。
どれくらい経過したか分からないが、クラウスはふと顔を上げ息を吐くと手にしていた書類をテーブルに置いた。
何時も以上に集中し、時計を見ればもう19時を過ぎている。
定時の18時で帰るつもりが一時間も過ぎてしまった。
「エリアス殿下、申し訳ありませんが今日はもう……」
取り敢えず、終わらせなくてはならない仕事は片付けたので文句はないだろうとエリアスに帰宅する意思を伝えようとしたが、タイミング悪く侍従が書類を抱えて執務室に入ってきた。……嫌な予感しかしない。
「クラウス、すまないがそれを追加で今日中に頼むよ」
「……」
さも当然の様に言って笑うエリアスに殺意が湧く。
残業どころか屋敷に帰れるかも怪しくなった。
暗闇の中、極力物音を立てない様にと扉を開けた。
するとまだ起きていたのか、ジルベールが出迎えた。
「お疲れ様でございます。ルーフィナ様でしたらもうお休みになられております」
流石だ。彼はこんな時間にクラウスが訊ねて来たにも関わらず、一切驚いた素振りもなくそう言った。
(仕方ないか……)
城を出る前に時計を確認したが、その時点でゆうに日を跨いでいた。それ故分かってはいたが寄らずにはいられなかった。
「そうか、出直すよ」
クラウスは諦めて早々に踵を返すが、直ぐに思い直し足を止めた。
「坊っちゃま?」
訝し気にこちらを見るジルベールに「気が変わった」と告げるとルーフィナの部屋に向かった。
ひっそりと部屋に入ると、微かな寝息が聞こえてきた。
彼女を起こさない様にランプをテーブルの上に静かに置く。
その瞬間「ワフ……」と声が聞こえ目を見張る。
ベッドの横のショコラが目を覚ましたのかと思ったが、どうやら寝言みたいだ。
全く犬の癖に寝言を言うなんて、寝ていても本当に生意気な奴だ。
クラウスは胸を撫で下ろすと、ゆっくりとベッドに近寄った。
(ルーフィナ……)
本当はあのまま帰るつもりだったが、どうしても一目でいいから彼女に会いたかった。
ベッドで眠る彼女は何時もより幼く見え、思わず頬が緩むのを感じる。だが直ぐに日中のルーフィナの様子を思い出し眉根を寄せた。
まだ怒っているだろうか……。
こんな事ならあの時、誠心誠意謝っておけばよかった。
まだ抱き合うには早かった……。
自分自身の軽率さを後悔する。
嫌われたくないーー。
まさか自分がこんな風に思う日が来るなんて想像もしなかった。
これまでは仕事を円滑にする上で人間関係を重んじてきたが所詮そこには利害しかなく、正直誰にどう思われ様とも興味も関心も無かった。
それなのに今は、ただただ彼女に嫌われるのが怖い。
今更都合が良いとは分かっているが、何なら自分の事を好きになって貰いたいとすら思っている。でもどうしたら良いのか分からない。
(ルーフィナ……どうしたら君は、僕を好きになってくれる?)
ぼんやりとそんな事を考えていた時だった。ルーフィナが寝返りを打ち、髪が顔に掛かった。クラウスは無意識に手を伸ばし髪を優しく避ける。
頭ではダメだと理解しながらも、そのまま調子に乗って頭や頬を撫でていると彼女が身動いだ。更にルーフィナのぷっくりとした唇が薄く開き声が洩れる。
「ん……」
「‼︎」
クラウスは慌てて手を引っ込めると、逃げる様に部屋を後にした。
「坊っちゃま、如何なさいましたか」
ロビーで待機していたジルベールに話しかけられるが、動揺している事がバレない様に顔を逸らす。
「何でもない。それより今夜僕が来た事は彼女には伝える必要はないから」
それだけ言うとジルベールの返答も待たずに足早に馬車に乗り込んだ。
心臓が五月蝿いくらいに脈打つのが分かる。
クラウスは手で口元を覆う。
頬を撫でていた時、彼女が身動いだ為唇に触れてしまった。
決して意図的ではない! あれは事故だ! 意味はないが自分に言い訳をしてみる。
それにしてもーー。
(柔らかかった…)
一瞬だったが、まだ指に感触が残っている様だ……。
何時かあの唇に自分のそれを重ねる事が出来たら……思わずそんな事を妄想してしまう。
「‼︎」
不意にクラウスはハッとして顔から手を離すと自らの手を凝視した。
これは謂わゆる間接キスになるのでは⁉︎
(今夜は眠れないかも知れない……)
その夜、クラウスはベッドに入っても中々寝付く事が出来ず、翌日やはり寝不足になった。




