四十三話
まだ胸の奥がモヤモヤとしている。
初めてクラウスと夫婦として参加した夜会に緊張しながらも浮かれていた気持ちは何処かへと消え去り今は沈んでいた。
あの後、興奮がおさまらないカトリーヌをアルベールが宥めていると、姿の見えない友人等を探しにラウレンツがやって来た。クラウスが簡潔に状況を説明すると酷く驚き困惑しながらも暫くカトリーヌとアルベールの身柄はドーファン家で預かると申し出てくれた。
テオフィルの方はモンタニエ家へと使いを出し迎えを寄越して貰った。すると彼の兄であるバルドルがやって来た。
『愚弟がご迷惑をお掛け致しました』
処罰が下るまで屋敷で謹慎させると言い、深々と頭を下げると蒼白な顔をしたテオフィルを引っ張って行った。
その際彼は、ルーフィナに一瞥もくれる事はなかった。
「今日はもう遅いから、また明日話をしよう」
屋敷に戻りロビーまでルーフィナを送り届けたクラウスは「おやすみ」と言い踵を返す。
「ルーフィナ?」
「あ……申し訳ありませんっ」
完全に無意識だったが、気付いたらルーフィナはクラウスの袖を掴んでいた。彼は振り返ると目を丸くする。当然だ、ルーフィナだって自分で驚いている。
「あの、おやすみなさい……」
慌てて袖から手を放して誤魔化す様に笑った。すると彼はじっとルーフィナの顔を凝視する。
「?」
暫し見つめ合った後、クラウスは優しく笑んだ。
「ジルベール、部屋を用意してくれ」
「⁉︎」
「今夜は泊まらせて貰うよ」
彼は側に控えていたジルベールに声を掛けるとルーフィナへと手を差し出した。
「でも寝る前に、少しお茶でもしようか」
応接間で向かい合って座るとジルベールが二人分のカモミールティーを淹れてくれた。フワリと香るカモミールに癒される。
ジルベールは何も言わずとも静かに下がって行った。流石素晴らしい洞察力だ。
「うん、良い香りだ」
何時もと変わらず優雅にお茶を啜るクラウスの頭には包帯が巻かれおり実に痛々しい。
ドーファン家の屋敷で医師に診て貰い、軽症と診断を受けた。その時には既に出血はなかったが念の為にと包帯を巻いた。なので心配はいらないそうだが、自分の所為で彼が怪我をしたと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ルーフィナ」
「……」
「ルーフィナ?」
「え……」
どうやらカップを手にしたまま暫しぼうっとしていたらしい。
我に返ったルーフィナは慌ててカップに口を付けた。
ちらりとクラウスを盗み見る。
これまで幾度となく彼が屋敷を訪れる事はあったが泊まる事はなかった。
その所為か妙に緊張してしまう。
それにあんな事が起きた後なので、お互いぎこちなさを感じる。
「ルーフィナ」
暫し沈黙が流れた後、クラウスが深刻な面持ちで口を開いた。
「折角の夜会だったのに、僕の所為で君には要らぬ心配を掛けてしまったね」
「そんな、クラウス様の所為では……」
「いや、今回の事は僕に責任がある」
クラウスはルーフィナの目を見てハッキリとそう言い切った。
「ルーフィナ聞いて欲しい」
「……」
「僕は君と離縁はしない。勝手な事を言っている自覚はある。それでも君を手放したくないんだ」
美しい翠色の瞳がルーフィナを捉えて離さず目が逸らせない。
「すまなかった」
眉根を寄せ拳を握り締め頭を下げる姿に目を見張った。
「こんな事に君を巻き込みたくなかった。今回の事は確かにカトリーヌ達が加害者ではある。だがその要因は僕にあるんだ。元を辿れば八年もの間、僕が君を放置してきたからだ。周囲からは白い結婚だと噂され、君には見合い話まできていた。それでも僕は何もして来なかった……。これでは他者に付け入る隙を自ら進んで与えていたも同然だ」
項垂れながら視線を落とす彼は、他の誰でもなく自分自身に憤りを感じている様に見えた。
「それに本来ならもっと早く謝罪するべきだった。今更後悔しても遅いとは分かっている。でも思わずにはいられない……。どうしてあの時、僕は君を突き放したのだろう……僕は愚か者だ」
「クラウス様……」
「でも君はそんな僕に小言一つ言う事もせずにこうして側にいる事を許してくれている。十歳以上も年下の君に甘えているなんて本当情けないね……。ルーフィナ、君の正直な気持ちを知りたい。遠慮や気遣いはいらない、何を言われても覚悟は出来ているから」
クラウスの言葉にルーフィナは唇をキツく結んだ。
先程のカトリーヌとの遣り取りで二人が愛人関係にはない事が判明した。無論彼女の息子はクラウスの子供ではなかった。
これまで気にも留めていなかった筈なのに、胸を撫で下ろす自分がいる事に気付いた。
その一方で彼女の亡き夫はクラウスの親友だったのは事実で、その彼はルーフィナの両親の所為で亡くなったとカトリーヌは話していた。
クラウスはあの時も離縁はしないと言ってくれたが、もしそれが事実なら……自分に彼の妻でいる資格はあるのだろうかーー。
「この八年に関して、クラウス様に対して恨み言を言うつもりはありません。もしあの時、クラウス様が手を差し伸べてくれていたら……確かに違う未来があったとは思います。でも、ただそれだけ事です。感謝こそしても恨みに思う事はないです」
ルーフィナの言葉にクラウスは目を見張り少しだけ口が半開きになっていた。何時も冷静な彼が珍しい……。
だがそれ程驚いたのだろう。
「今日まで何不自由のない生活を送れてきたのはクラウス様のお陰です。それに私の好きな様にさせて貰ってきました。十分過ぎます」
「いやそれは君の当然の権利で……」
「そうかも知れません。でも権利だろうと当たり前ではない筈です」
大きな屋敷に広い庭、毎日の食事、沢山のドレスや豪華な調度品、優しい使用人達。
彼の言う通りどれも当たり前だと思っていたが、学院に通う様になり友人も出来てそれ等は当たり前ではない事を知った。
それにもしも八年前のあの時、あの沢山の強欲に塗れた笑顔の大人達の誰かに引き取られていたなら、きっと今こうして笑えていなかったと思う。
「それにこの八年の間、クラウス様が私に関心がなかった様に私もクラウス様に全く持って関心が無かったのも事実ですから」
そう言ってくすりと笑って見せると、クラウスの顔が引き攣るのが分かった。
「だからおあいこです」
互いに関心がなかったのだからお互い様だ。彼だけが悪い筈がない。ルーフィナからだって歩み寄る事は出来た筈だと今なら思う。
「クラウス様。私は今、クラウス様の妻で良かったと思います。それが全てです」
「ルーフィナ……」
「ただ……」
「ただ?」
一瞬にして緊張が走り、彼が息を呑むのが分かった。
「……いえ、やっぱり何でもないです」
口を開く直前で真実を聞くのが怖くなり、笑って誤魔化してしまった。
「話したくないなら無理強いはしないよ。ただもし君が話してもいいと思える日が来たら聞かせて欲しい」
「っ……」
クラウスは立ち上がるとルーフィナの側までやって来て優しく頭を撫でてくれた。
「さあ、もう寝ようか。大分遅くなってしまったね」
時計を見れば疾うに日付は変わりいい時間だ。
その瞬間、急に眠気に襲われる。
気が抜けたのか一気に身体も重く感じた。
はしたないが我慢出来ずに欠伸をしてしまい慌てて口元を隠す。だが彼にはバッチリと見られていたらしく笑われた。そしてーー。
「きゃっ……クラウス様⁉︎」
「寝惚けて階段を踏み外したら大変だからね」
「だ、大丈夫です! 下ろしてくださいっ」
次の瞬間、ルーフィナはクラウスに横抱きにされていた。
恥ずかしさから始めは細やかな抵抗をしたが彼の温もりに心地良くなり次第に瞼は重くなっていき……ゆっくりと目を閉じた。




