四十二話
数十分前ーー。
テオフィルが勝ち誇った様に部屋から出て行ったのを確認したクラウスは身体を起こしソファーから立ち上がった。
この部屋に入った瞬間、嗅いだ事のある甘い香りにピンときた。
(睡眠剤か……)
そもそも態々こんな場所に連れて来たのには何か意図があるのだろうとは思っていたが、分かり易くて笑えた。
だがまあ、あの二人の発想ならこの程度だろう。
カトリーヌは正直余り賢くはないし、テオフィルは世間知らずのお坊ちゃんに過ぎない。
「僕も、随分と舐められたものだね」
本気でこんな策略に嵌るとでも思っていたのだろうか。
彼等の意図は分かったが、さてどうしたものかと悩む。このまま何事もなかった様に広間に戻ってもが構わないが、それでは何の解決にもならない。今後の事を考えれば、どうせなら今夜蹴りをつけておきたい。
だがルーフィナの事が気掛かりだ。
テオフィルはルーフィナの元に向かったに違いない。やはり今日の所は断念をして戻った方がいいだろう。
そう思い部屋から出ようとしたが扉の外に気配を感じ足を止めた。
クラウスは気配を消し扉の横に身を潜める。これなら人が入って来ても扉は内開き故、相手からクラウスは死角になる。
(カトリーヌか……?)
テオフィルの口振りから考えればこの部屋にやって来るのは確実だ。
「誰もいないじゃん」
警戒していないのか扉を勢いよく開けた人物は部屋に入るなり大きな独り言を言う。
聞き覚えのある声にクラウスは眉根を寄せた。
懐から護身用のナイフを取り出すと、鞘からは抜かずにそのまま構える。扉を力一杯押しやり逃げ場を奪った後、素早く人物の背後を取った。
「こんな所で一体何をしているんだい、アルベール」
彼の背中にナイフを押し当てると、両手を高く上げヒラヒラとさせる。降参の意味だ。
呆気ない彼の態度に脱力した。
「成る程。眠った僕をベッドに運ぶ役目が君だったという事か。そこにカトリーヌがやってきて情事後に見せかけ、その現場をルーフィナに見せると。でも随分と紛らわしい事を考えるね。君を使わなくても、そのまま彼にやらせたら良かったんじゃない?」
窓を開け部屋の空気を入れ替え、向かい合わせにソファーに腰を下ろす。
その後、アルベールから事の顛末を聞き出した。大方予想はついていたが裏付けは必要だ。
「あのお坊ちゃんに、自分と同じくらいの体格の男を持ち運ぶ事は無理だろう。まあ兄貴の方なら問題はないだろうがな」
アルベールは淡々とカトリーヌから協力を求められたと自白した。
協力していた割に、テオフィルの事を馬鹿にした様な発言をする。
「まあそんな事はどうだって良いけど。それより君には失望したよ。こんな下らない策略に加担するなんて」
「しょうがないだろう。カトリーヌに泣きつかれたんだ。どうしてもお前と一緒になりたいってさ。そもそもお前にだって非はあるだろう? カトリーヌはずっとお前が好きだった。そんでもってお前も同じ気持ちだと思い込んでいた。お前がそう思わせていたんだ」
「……」
「誰だって勘違いすると思うぞ。お前みたいな色男と毎回パートナーとして夜会やらに参加してきたんだ。周りだって皆そういう目で見てた筈だ。だからこそ奥方と離縁するという言葉をカトリーヌは鵜呑みにした。だが、お前は結局カトリーヌを捨てて奥方を選んだ」
アルベールの言っている事を全て否定するつもりはない。今思えば配慮が足らなかったと思う。だが捨てたとは聞き捨てならない。
「心外だね。捨てるも何も始めからカトリーヌと僕はそういった関係にはない。彼女は旧友の一人であり親友の妻だった、それだけだ。まさかカトリーヌが僕に好意を寄せているとは知らなかったよ」
普段いい加減でへらへらと締まりのない顔をしているアルベールの表情は珍しく険しい。鋭く刺す様な視線を向けてくる。
「本当に気付いていなかったのか」
「無論、夢にも思わなかったよ」
嘘じゃない。正直クラウスだって驚いている。あの日、屋敷に来た彼女からあんな風に言われるまでは気付かなかった。
『でも次からは私を優先してね』
カトリーヌは今でもずっと亡き夫を愛し続けているとクラウスは思っていた。
そもそも夜会のパートナーになって欲しいと言ってきたのはカトリーヌの方からだった。
今から八年以上前、その日は突然訪れた。
マリウスが殉職したとの知らせが届いたのだ。
クラウス達は悲しみに暮れた。
始めは信じられなかった。
彼は正義感も強くとても優秀な騎士であり将来有望と言われ周囲からは期待をされていた。そんな彼が任務中に亡くなったという。死因は事故だったと聞かされた。
その時マリウスは王妹夫妻の護衛の為に遠方へと赴いており、時同じくしてその王妹夫妻も事故で亡くなったと聞いた。
王妹夫妻の死を受けた貴族等は、夫妻の一人娘の引き取り先で大いに揉めていた。
その裏側でマリウスの存在は忘れられ、クラウス達は彼の死をひっそりと偲んだ。
身重のカトリーヌは暫くショックの余り寝込み、その直後出産した。
アルベール達に連れられ何度か見舞いに行ったが、カトリーヌは産後の疲労と夫を亡くした事に酷く憔悴していた。
それから半年程経ったある日、カトリーヌが屋敷を訪ねて来た。暫く会っていなかったが、久々に会った彼女は血色も良く以前の様な元気な姿を取り戻していた。
この時クラウスはまだマリウスの死を引きずっており、しかも幼妻を迎えた直後父が急死……家督を継ぎ侯爵となり仕事などの引き継ぎは全くなかった故手探りでただ只管に寝る間も惜しみ仕事をこなしていた。
『何時までも塞ぎ込んでいる訳にはいかないし、久々に夜会に出席しようと思って。でもやっぱり一人だと心細くて……。クラウスに付き添って貰えたら嬉しいのだけど、ダメかしら? 貴方も少しは息抜きした方がいいわよ』
『そうだね、僕もそろそろ顔を出そうかなとは考えていたんだ。でも聞いてるとは思うけど、僕は妻を迎えたんだ。だからパートナーなら他を当たって貰えるかい?』
『勿論知ってるわ。でも奥様って言っても、まだ八歳なのでしょう? なら夜会には参加出来ないじゃない』
『まあ、そうだけど』
『クラウス、私ね。これからはレオンの為だけに生きるって決めたの。だから再婚するつもりはなくて……。貴方は奥様が幼いし、社交界に出るまでまだまだ時間も掛かるでしょう? それまでずっと一人で参加してたらきっと妻がいようが関係なく図々しい女性達が寄ってくるわよ? 愛人でもいいから〜とか言ってね。そういうのって面倒じゃない。私も似た様なもので、早速実家からは縁談が〜とか言われているし。お互い形だけでもパートナーが必要って事で、どうかしら? 奥様が大きくなるまでの間で構わないから』
実際、妻がいようがカトリーヌがいようが寄って来る女性はいたが格段に少なくはなった。それに以前と違いクラウスも侯爵の肩書きを持ち、一人で参加していると周囲の大人達からも舐められるのが実情だったので丁度良かった。
それからお互い利害関係が一致したとして、夜会などの時にはパートナーとして参加する様になった。
「今思えば僕も安易だった。自業自得なのも分かってるよ。でもだからと言って今回の事を許す事は出来ない。百歩譲って僕に薬を盛った事はいい。だがルーフィナを巻き込もうとした事は許せない」
テオフィルのあの様子なら、今頃ルーフィナに有る事無い事吹き込んでいるのは想像に容易い。
そうじゃなくてもカトリーヌとの関係を誤解されているのに、カトリーヌの息子が実はクラウスとの子供だと言われれば純粋な彼女は信じてしまうだろう。その直後、情事後の様子を目撃などすれば離縁したいと思うかも知れない。
正直、ルーフィナが自分の事をどう思っているかは分からない。だが少なくても心労を掛けてしまう事は確実だ。もしかしたら、傷付けてしまう可能性もある……。
「クラウス、お前変わったな」
「変わった?」
「昔からずっと感じてた、お前が周りとの間に壁を作っているって。まるで一人だけ別の世界で生きてる様なそんな感じでさ、他人には全く関心がないし、何をしていても冷めていて楽しそうじゃなかった。マリウスは必死にその壁を壊そうとしてたんだ」
アルベールの言葉にクラウスは目を見張る。
まさかそんな風に思われていたとは意外だった。
「そんな中、多少なりとも壊す事が出来ていたんじゃないかって思ってたけど…… 違った。今のお前をマリウスが見たら驚くだろうな。きっと凄い悔しがってさ、凄く喜ぶんだろうなぁ……」
憂を帯びた顔で笑うアルベールに、今は亡き友人の姿を思い出した。そして改めて思う。
「アルベール」
クラウスは居住まいを正し彼を見据える。
「今回の事、僕にはマリウスを侮辱しているとしか思えない。カトリーヌの息子はマリウスが生きていた証で忘れ形見だ。彼にとっては何にも代え難い宝物であり、会う事が出来ないまま亡くなった事は無念だったと思う。それを否定する事は彼自身を否定する事と同義だ」
ハッとした顔をしたアルベールは、項垂れた。
「ーーだよな、悪かった。そんなつもりはなかったんだ。ただ俺はカトリーヌに幸せになって欲しかった、それだけなんだ……。カトリーヌは昔から我が強くて我儘な所があるけどさ、それでも俺はあいつが好きだった。まあカトリーヌにはマリウスっていう立派な婚約者がいたし、どうこうなりたいとは思ってなかったけどさ、マリウスが死んで一瞬俺が……なんてつまらない事を考えたこともあった。でもカトリーヌがクラウスが好きなんだって気付いてからは、力になってやりたいと思ったんだ。やっぱりさ、好きな女には幸せになって貰いたいものだろう」
その後、反省をしたのかアルベールはクラウスの指示に従うと言ってきた。なので彼をベッドに寝かせ、カトリーヌがやって来るのを待つ事にした。




