三十九話
ルーフィナは元の場所に戻って来たが、クラウスの姿はまだなかった。その事に少し安堵してしまう。
正直今は彼にどんな顔をすればいいのか分からない。
壁に寄り掛かりクラウスの戻りを待っていると、先程のカトリーヌの言葉が頭を過ぎる。
両親の所為でカトリーヌの夫が死んだーー。
その夫はクラウスの大切な友人だったーー。
カトリーヌの息子はクラウスの子供ーー。
彼女の言葉を全て鵜呑みにする訳ではないが、クラウスとカトリーヌの関係を考えれば信憑性が高いかも知れない。
それに流石に自身の夫の死因を偽る様な事はしないだろう。
だが両親の所為とは一体どういう事なのだろう……。ルーフィナの両親は事故死だと聞いている。でももし何らかの理由で両親の所為で彼女の夫が亡くなっていたとしたら……。
クラウスはその事を知っていて……ルーフィナの事を恨んでいる……。
『クラウスと離縁して下さい』
(私は……どうすればいいのかな)
先ずすべき事はクラウス本人に真相を確かめる事だ。分かっている。だが怖い。
どうして今なのだろう。
八年もの時間があったのに……。
(どうして、今なの……)
最近はクラウスとも少しずつだが仲良くなってきたと実感していた。だがそれは全部偽りだったのだろうか……。
本当は知らず知らずのうちに彼を傷付けていたのだろうか……。
カトリーヌにもレオンに対しても申し訳なくなってしまう。
もし彼にカトリーヌから言われた事を全て肯定されたら……ーー。
「ルーフィナ」
どうやら暫く意識を飛ばしていたらしい。
いつの間にかテオフィルが目の前に立っていた。
「テオフィル様……」
「どうかしたのかい? 顔色が良くないね」
心配そうな顔で見てくる彼にルーフィナは首を横に振って見せた。
本当は誰かに相談したい気持ちはあるが、こんな事誰にも言えない。
「初めての夜会だから、少し疲れてしまったのかも知れないね。はい、これでも飲んでリラックスするといいよ」
「え……ありがとうございます?」
差し出されたグラスを受け取ると、木苺のジュースだった。
不思議そうに眺めていると笑われた。
「実は遠目でルーフィナが一人でいるのを見つけたから、もしかしたら喉が渇いているかも知れないと思って持って来たんだ。ルーフィナ、木苺のジュース好きだろう?」
「そうだったんですね。実はまだ何も口にしていなかったので嬉しいです」
ルーフィナはお礼を言って有り難くグラスに口を付ける。甘くて美味しい。
入れ替わり立ち替わり人がやって来ていたのですっかり忘れていたが、そう言えば喉が渇いていた事を思い出した。そして飲み物を取りに行ったまま戻らないクラウスの事も。
「そう言えば、ヴァノ侯爵殿は一緒じゃないのかい?」
「えっと……」
随分前に飲み物を取りに行ってから戻って来ない事を簡潔に話すと、テオフィルは表情を曇らせた。
「ならやはりあれは……ヴァノ侯爵殿だったのかも知れない」
「?」
「実は少し前に、ある場所に向かうヴァノ侯爵殿らしき人影を見かけたんだ。でも後ろ姿だったし、そもそもルーフィナがいるのにあんな場所に行くとは考え辛くてね。人違いかなと思ったんだけど……」
「ある場所ですか……?」
言い辛そうにするテオフィルに、不穏さを感じルーフィナは眉根を寄せる。
「大きな声では言えないけど……」
そう前置きをして「裏部屋だよ」と耳打ちをされた。
(それって……)
「あら、テオフィル様。ルーフィナ様とご一緒だったんですね」
その時だった。
ベアトリスとリュカが戻って来た。
二人とも少し服装が乱れている気がするが何かあったのだろうか……。
また揉めたんじゃないかと心配になる。
「で、裏部屋がどうしたの?」
声量を抑えながらもリュカは興味津々な様子で話に割り込んで来た。
まさか聞こえていたはーー地獄耳だ。
「実は……」
先程のテオフィルから聞いた話をすると、二人共に顔を見合わせ気不味い空気が流れた。
「それでルーフィナ、どうする?」
「え、ちょっと待って、テオフィル。もしかして見に行くつもり⁉︎」
テオフィルの言葉に、ルーフィナではなく驚いた様子でリュカが声を上げる。
「ここで思案していても埒が明かないし、肝心の侯爵殿は戻って来る気配もない。このままでは夜会が終わってしまうよ。見た所、広間に侯爵殿の姿はないし確かめに行くのが手っ取り早いと思わないかい?」
「まあそうかも知れないけど……。ならさ、ルーフィナとベアトリスには残って貰って僕とテオフィルで見に行けば良くない?」
「リュカ様にしては名案ですね! それが良いです! 私とルーフィナ様はこちらでのんびりと待っていますから!」
一言余計なベアトリスをリュカは睨むが彼女はまるで意に介さない。相変わらずだ……。
ベアトリスから腕を組まれ「さぁ、ルーフィナ様、何か飲み物でも!」と提案されるが、手にしているグラスの中にはまだジュースが残っており苦笑した。
「ねぇ、ルーフィナ。君はどうしたい?」
「え……」
リュカやベアトリスの視線が向けられる中、テオフィルは真っ直ぐにルーフィナを見据える。
「君だってもう子供じゃない。ヴァノ侯爵殿の妻として知る権利も、責務もある」
その言葉に息を呑み唇をキツく結んだ。
カトリーヌとの事は話していない筈なのに、まるで何もかも見透かされている様に感じた。
テオフィルの言う通りだと思う。
カトリーヌからは子供だと嘲笑されたが、ルーフィナだって物事の善悪の分別のつく年齢であり自分の意思でどうするか判断だって出来る。無論それには責任が伴う事も理解している。
名ばかりかも知れないがルーフィナはクラウスの妻なのだから、その夫の例え些末な事にしても人任せにするのは違う。
「テオフィル様の仰る通りです。クラウス様の妻として寧ろ私が行くべきです」
そう宣言するとリュカもベアトリスもそれ以上は何も言わなかったが、複雑そうな顔をしていた。ただテオフィルだけはどこか満足そうに見えた。
広間から廊下へと出ると華やいだ空気は一変して薄暗く静まり返っていた。人気もなく、時折り使用人を見かけるくらいだ。
テオフィルに先導されルーフィナ達はその後をついて行く。
屋敷の奥へ奥へと進んで行きながら頭の中ではカトリーヌの言葉が延々と繰り返さる。
不安や緊張から段々と足取りは重くなり、気付いた時には立ち止まっていた。
「ルーフィナ」
心配した様子のテオフィルは振り返るとそっと手を握ってくれる。
「大丈夫、僕がついている」
「テオフィル様……」
「僕は何があってもルーフィナの味方だよ……僕が君を守るから」
不安な気持ちを落ち着かせる様に真っ直ぐにルーフィナを見つめ、優しく笑んでくれた。
そのお陰で少しだけ気持ちが軽くなった気がする。
本当にテオフィルは良い人だ。昔から何時も気遣ってくれて、困っている時には必ず手を差し伸べてくれる。
これからもずっとそんな彼の友人でいたいと改めて思った。
オレンジ色の花が飾られた扉の前でテオフィルが立ち止まり、ルーフィナはリュカやベアトリスと顔を見合わせた。
どうやらこの花は裏部屋の目印らしい。
その先の幾つかの扉にも同じ様に飾られているのが見えた。
(アネモネの花……)
ルーフィナの好きな花の一つだが、今だけは愛でる気分にはなれない。
呆然とそんな事を考えている中、テオフィルが徐に扉を開けた。




