九話
自邸に戻ったクラウスは仕事机に突っ伏す。
「あれの何処が警戒心がないっていうんだ……」
彼女は終始不審そうな表情を浮かべ、見るからに警戒心丸出しだった。
それに八年振りに対面し、初めてまともに言葉を交わした彼女は想像よりもずっと淡白だった。決して何かを期待していた訳ではないが、流石に認識すらされていないと知った時は愕然としてしまった。どうやら舞踏会で目が合った事などすっかり忘れられている様だ……。
「……別に気になどしていない」
そもそもアルベールが悪い。別に会いに行くつもりなどなかったのに、彼が下らない話をするからだ。
舞踏会の直後からルーフィナの噂が社交界を駆け巡った。ある事ない事吹聴するのは社交界では良くある事であり一々気になどしていたらキリがない。そんな事は重々理解している。
『お前の奥方が王太子を婚約者から寝とったらしいぞ! その所為で、今王太子と婚約者は本気で破局寸前らしくてさ』
鼻息荒くしながら下らない噂を語るアルベールは、余程楽しいらしくずっとニタニタと下品な笑みを浮かべている。
話によれば舞踏会の日、クラウスが帰った後も暫くエリアスとリリアナは人目も憚らず言い争いもとい痴話喧嘩を続けていたそうだ。二人共にルーフィナ、ルーフィナと喚き散らし手が付けられず最終的には国王に叱責されたらしい。実に阿呆らしい話だ。
結局未だに話し合いは難航しており、それが更に噂に拍車を掛けているようだ。
『ふ〜ん』
『しかも既に王太子には飽きて、今は騎士団長の次男に乗り換えたんだってよ』
『あぁ、そう』
『おい、クラウス。お前人の話聞いてるのか』
『……聞いてるよ』
頗る面倒臭い。こっちは仕事中だというのに、いきなりやって来かと思えば我が物顔でソファーに座り出されたお茶や茶請けを飲み食いしながら聞いてもいない面白味の欠片もない噂話を延々と話し続ける。それに無神経にも程があるだろう。曲がりなりにも自分はルーフィナの夫だ。噂話とはいえ何故妻の不貞話を聞かなくてはならないのか。
『魔性の女』
『……は?』
『そう呼ばれているらしいぞ。ここだけの話、他にも何人もの男と関係があって夜の方はかなり巧みらしくてな……一度寝たら最後、他の女じゃ満足出来ない身体にされてしまうらしいぞ』
恐ろしいよな……と言いながら、羨ましい……と呟くアルベールに苛っとする。
何が魔性の女だ、聞いて呆れる……。夜の方は巧み? その道の専門じゃあるまいに、あり得ないだろう。脚色するにも程がある。彼女はまだ十六歳を迎えたばかりだ、幾ら何でも流石に生娘だろう…………多分。
大体、王太子やらその婚約者、騎士団長の息子から始まり寝取ったやら魔性の女などの怪しげな言葉も並ぶ中、そこに夫であるクラウスの名は一ミリも出てこない。アルベールがいうように自業自得なのだろうが、腹が立つ。
『だけどさ噂の真相は兎も角として、莫迦な男共が鵜呑みにでもしたら厄介だよな。ちょっかいを出すだけならまだマシだが、きっとそれだけじゃ済まないだろうなぁ。彼女には盾があるのに機能していから余計にタチが悪いし。周りも容易に庇えやしない』
盾とは言わずとも夫であるクラウスの事だろう、全く嫌味たらしい言い方をする。
『そもそも警戒心ないんじゃないのか、お前の奥方。今回の件、王太子が元凶にしても仲良しこよしだった事に違いはないんだろう? まあこれだってお前がたまに顔を出すくらいの事をしていたら違ってたかもな』
『……分かってるよ』
『いいや、まるで分かってないね。ついでにお前も警戒心が足らない。お前は自分が淡白だからって他の奴等も同じだと思うなよ。男なんてな、隙あらば良い女を抱きたいと狙ってる獣ばっかりなんだ。あっという間に喰われるぞ。まあお前はもう離縁するらしいから、彼女が何処ぞの男共に弄ばれ様と関係ないだろうがな』
気乗りはしなかったが、取り敢えず釘は刺して来た。きっと彼女も気を付ける筈だ。後どうするかは本人の責任だ。これ以上此方から何かをするつもりはない。アルベールの言う通り離縁をするつもりの自分には関係もなければ興味もないのだ。もし仮に噂話を鵜呑みにした莫迦な男達に勘違いされて手籠にされ様とも……。
「はぁ……」
興味や関心などない筈なのに、気付けばそんな余計な事ばかりを考えていた。クラウスは邪念を振り払い、気持ちを切り替えるとペンを取り机に向かった。




