第7話 「クサンティッペ」
「おかえりソクラテス! 魚は!? 夕飯のための魚は、ちゃんと買ってきてくれたんだろうね!?」
「……おう。すまない。すっかり忘れていた」
「おおおい!? 魚を買いにいって、魚を忘れてどうすんのさ!? 出かけてるあいだ何してたんだよ、まったくもう! まさかまた、ボーッと通りで突っ立ってたんじゃないだろうね!?」
「いや、ちょっと正義について考えていたものでね」
「正義もいいけど今は魚だよ、魚! 魚がないと今晩の――おや?」
「こんにちはでーす!」
「お邪魔するっす~!」
赤ん坊を抱きかかえて部屋の中をいそがしく行き来していた金髪の女性は、ソクラテスの後ろからひょっこりと顔を出したファルマキアとアラクネを見て、目を丸くした。
「え!? そろそろ来るかもしれないって言ってた二人のお客さんって、まさか、このお嬢ちゃんたちのことなのかい!?」
「そうなんだよ、クサンティッペ。アポロン神のお導きか、ペイライエウス港へ向かうとちゅうの道で、ばったり出会うことができたんだ。それもあって、魚のことはすっかり忘れてしまってね」
「なるほど、そういうことね。それならまあ……いや、良くないよ! 港だって!? あたしは広場の市場へ行ってくれって頼んだのに!」
「おう、そういえば」
「そういえばじゃないよ! しかも、お客さんが来たんじゃ、ますます食材が足りないじゃないか。今すぐ出直して、今度こそ魚を買ってきておくれ。新鮮なやつをだよ!」
「ふたりとも、聞いたかい? 僕のクサンティッペは、こんなふうに僕を毎日酷使するんだ。忍耐力の鍛錬のためには、ちょうどいいんだがね。やれやれ」
「やれやれじゃないよ! あたしはこの子らの世話で体を酷使し、あんたは買い出しで体を酷使する。おあいこじゃないか。ほら、大事なお客さんたちがお腹を空かせてもいいのかい!? ごちゃごちゃ言ってないで行った、行った! 間違えないで、行き先は広場だからね!」
「ひどい話だ……」
ぶつぶつ言いながらソクラテスが戸口を出ていくと、
「さあ、入って入って!」
両腕で赤ん坊を抱いているために、あいている顎をしゃくってふたりを招き入れながら、金髪の女性――クサンティッペが言った。
「若い女だけの二人旅なんて、あたしの知る限り、聞いたことないよ。道中、危ない目にあわなかったかい?」
「危ない目には全然あってないので、大丈夫でーす!」
「確かに、なんも危なくはなかったっすね~」
ファルマキアとアラクネは、にこにこと言った。
危険に遭遇したのは、彼女たちに手を出した連中のほうである。
「へえ! それはよかったよ。ヘルメス神が、道中の安全を守ってくださったんだね」
クサンティッペはそう言いながら、赤ん坊をできるかぎりゆっくりと籠のなかにおろし、火がついたように泣きだした子供をおいて甕から葡萄酒をくみ、家の表のかどに立っているヘルメス像――「ヘルマ柱」と呼ばれるもので、四角い石の柱の上におじさんの顔、柱の半ばからは男性のアレがにょっきりと上向きに突き出ている、道ばたによくある守り神的な存在――に供えた。
「これでよしと。さあ、こっちに来て座りな。疲れただろ。どこから来たんだって?」
「あー……」
ソクラテスは、クサンティッペに、何をどこまで話しているのだろうか?
ファルマキアたちが笑顔でうなり、受け答えの時間をかせごうとしたわずかの間に、クサンティッペは左手の三本の指で三度胸を叩いてから、胸の前で拳をかためて下ろすしぐさを見せた。
Εの合図だ。
「あ、クサンティッペさんも、関係者なんですか!?」
「そうさ。あの人といっしょにね。……あんたたちが、あの坊ちゃんをアレしに来たΕの『掃除人』なのかい? 全然、そうは見えないね。もっとこう、いかつい無口な戦士みたいなやつが来るのかと思ってた」
「いかつい無口な戦士じゃなくて、ファルマキアちゃんでした! よろしくでーす!」
「ウチは、アラクネっす。これからアテナイ滞在中、お世話になるっす~!」
「大したもてなしはできないけど、この家にいるあいだはゆっくりしてっておくれ。……まあ、ソクラテスが帰ってきたら、なかなかゆっくりはできないだろうけどさ」
「あ、さっそく『仕事』にかかるってことですか!?」
「いや、そうじゃなくて……ほら、あの人、哲学してるだろ?」
「哲学?」
「ああ。それであの人、何でもかんでも、とことん考え抜かないと気が済まないわけ。一人で考えこんでるだけのときは、まだ静かでいいんだけど、そばに知った顔があろうもんなら、誰彼かまわず問答をふっかけて、一緒に考えたがる癖があるんだよねえ」
「おおう」
「あの癖が一度始まると、ほんとに長いんだ! 結論が出るか、それとも、今の時点じゃ結論の出しようがないと分かるまでは終わらないんだから。それが、今まさに子供らを寝かしつけようとしてるときなんかに始まると、もう最悪よ」
口から火でも吐きそうに泣きわめいている赤ん坊を再び抱きかかえて揺すりながら、クサンティッペ。
「それは大変っすね~……よく、一緒に暮らしてられるっすね!?」
「いやもうマジで、こっちの毎日が忍耐力の鍛錬なわけよ! まあ、あたしはこのとおりの性格だから、我慢の限界になったら、バババババーッとまくし立てて、あっちを家から追い出してやるんだけどさ。おかげであたしは、ご近所で『悪妻』だの『恐妻』だの噂をたてられるし、あの人はあの人で、誰彼かまわず問答をふっかけて回るもんだから、一部じゃ『虻』なんて呼ばれて嫌われてるらしいし……まあ、逆に、あの人に心酔してるお弟子さんも多いんだけどね。あ、これオリーブの実と山羊のチーズだけど食べる?」
「わーい! オリーブの実の塩水漬けはファルマキアちゃんの大好物なのでした! いただきまーす! うまうま!」
「山羊のチーズもうまいっす! 筋肉が喜んでるっす!」
「『筋肉が喜んでる』って何なんだい? ていうか、あんた、アラクネちゃんだっけ? 髪の毛多ッ」
「そうなんっす! ばんばん生えてくるんで、しょっちゅう透かないと、頭が重くて大変なんす。逆に、生えてこなくて困ってる人に分けてあげたいっす」
「なんだか、羊の毛刈りみたいだねえ。後であたしが編み込んであげようか?」
「それはありがたいっす! ……ところで、クサンティッペさん」
もぐもぐとチーズをほおばりながら、アラクネがたずねる。
すべての会話の背後からオギャー! フンギャアアァァァ! という赤ん坊の泣き声がかぶさってくるが、もう全員が気にしないことにしていた。
「ウチらがアレしに来た『あの坊ちゃん』――アルキビアデスのこと、知ってるんすか?」
「知ってるも何も、アテナイで、あいつのことを知らない人間なんて一人もいないよ。クレイニアスの息子で、とんでもない美男子で大金持ちで、将軍の一人さ。去年のオリュンピア大祭では、ひとりで七台の戦車を――」
「いや、そういう『知ってる』というよりは……さっきの『あの坊ちゃん』ていう言い方が、何ていうか、もうちょっと『個人的に知ってる』ような感じだな~と思ったもんっすから」
「へえ、鋭いじゃないか」
ヴェアアアァァン!!! と泣く赤ん坊を両手でぽんぽんと優しく叩いてあやしながら、クサンティッペ。
「あの坊ちゃん……アルキビアデスはね。ソクラテスに、ぞっこん惚れてるんだよ」




