第4話 「蜘蛛」
宿舎の前にひとり取り残されたファルマキアは、
「えー。大丈夫なのかな? 同居人が、変なオッサンとか意地悪なオバサンとかだったら、めちゃくちゃ嫌なんですけど……うーん。ま、いっか! 話が通じなかったら、ファルマキアちゃんの必殺技が炸裂するってことで……」
ぶつぶつ言いながら、意を決して、扉に手をかけた。
「失礼しまーっす! 初めましてこんにちはー……あ?」
室内は暗く、がらんとしていた。
誰もいない。
床のすみには、いくつかの籠と、そこからはみ出るほど山盛りの羊毛、つむぎ終えた糸が置かれていた。
そして、がらんとした部屋の左手奥に、何だかよくわからない、動物のようなものがうずくまっている。
大型犬くらいの大きさの、明るい黄色の、毛むくじゃら。
だが、それは、ぴくりとも動かなかった。
時間をかけて凝視しても、呼吸にともなう、わずかな動きすらもない。
生き物では、ない――?
「……なにあれ。怖ッ」
思わず、声に出して呟く。
あれは……本当に、何なのだろう。
毛のかたまり? あるいは、糸なのか?
ピュティアが言っていた『蜘蛛』という言葉が、ファルマキアの脳裏に浮かび上がった。
もしも、あれが見たこともない種類の蜘蛛の巣かなにかで、近づいたとたんに、ブワアッ! と中から飛び出してきたりしたら――?
「!」
入口に立ちつくしていたファルマキアの背筋を、不意に、ぴりっとした感覚が走り抜けた。
誰もいない部屋。
では、ない。
何かがいる――
「フシュウウウッ!」
「ウオオオオオォッ!?」
いきなり天井から目の前に落下してきた巨大な何かに、ファルマキアは絶叫した。
瞬時の印象は「大きな黄色い毛のかたまり」だ。
(部屋の奥にいたやつ――ッ!?)
違う。部屋の奥のそれは、同じ場所にわだかまったままだ。
それを目の端に捉えつつ、
「チェエイッ!」
得体のしれない何かに対し、ファルマキアは反射的に蹴りを繰り出した。
とっさの一瞬、凍りつかずに動けるか。それが生と死を分ける。
鋭い毒の爪で、全力で蹴り込んだその一撃は、たとえ巨大な牡牛であろうとよろめかせるほどの威力をもっていたが――
「ヌゥッ!?」
ガシンッ! と、明らかに生身の肉体ではない硬いものに爪先がぶち当たり、ファルマキアは顔をゆがめて飛びすさった。
じんじんと走る爪先の痛みをこらえながら、身構える。
「やるなッ、化け物! だけどォ………おお?」
「初めましてっす!」
巨大な黄色い毛のかたまり――
それが、縦にぱかっと割れて、すきまから、色黒の、人懐っこそうな笑顔がのぞいた。
しかも、しゅたっと片手をあげて挨拶してきた。
「君、新しく来た人っすよね? けっこう強いっすね!」
「に……人間!?」
「え? そりゃそうっすよ、失礼だな~」
「しかも、女の子ッ!? わたしと同い年くらいで、ものすごく長い金髪の、しゃべり方がちょっとクセ強めの女の子です! 手に持っているのは……紡錘!? 羊毛をつむいで糸にするための、紡錘のようです! あれで、わたしの蹴りを受け止めたのでしょうか!?」
「誰に向かって話してるんすかね?」
巨大な黄色い毛のかたまり、もとい、全身をおおうほどに豊かすぎる金髪をかき上げた娘は、茶色い目をぱちぱちさせて、ふしぎそうに首をかしげた。
その動作だけで、さらさらと流れた髪が、顔のなかば以上を隠す。
そんな相手をよそに、ファルマキアの実況は止まらない。
「そしてそして、さらに驚かされるのは、上です! 頭上を見上げれば、なんと! 天井のこっちがわの一角をおおいつくして、網のように張り巡らされた、無数の糸がッ! あの上にひそんで、上から奇襲をかけてきたということなのか!? これは尋常ではない光景だァーッ!」
「あれは、ウチの髪の毛っすよ!」
ファルマキアの実況はもう気にしないことにしたらしく、にこにこと、金髪の娘。
「ウチ、特異体質で。髪が、めちゃめちゃ伸びるんすよ! 定期的に刈ったり、すいたりしないと、もう重くて重くて。で、その髪、もったいないんで、ああやって活用してるんす! 便利っすよ~。めっちゃ丈夫だから、上に乗っかるのも余裕っす!」
「あ、そうなんだ……髪の毛……え? つまり、今、あの上にひそんで、わたしを待ち伏せしてたってことだよね!?」
「そうっすよ~! 今日、新しい人が来るって聞いてたんで、ちょっとしたサプライズで、初対面の緊張を和ませようかな~っと……」
「和むどころか、生死をかけた緊張感があったよね!? ……え!? マジで、全体重を、髪の毛だけで支えてたってこと!?」
「そうっすよ~。正確には、ウチの毛を、この紡錘を使って縒り合わせた、特製の縄っすね! 馬一頭でも、余裕で吊り上げる強度があるっすよ。こう、ヒュッとかけて、グッとやれば、標的はイチコロっすね!」
「もはや暗器じゃん!!」
力いっぱい叫んでおいて、
「あまりにも独特な長髪女子が登場! はたしてファルマキアちゃんは、この人とうまくやっていけるのでしょうか!?」
思わず、明後日の方向に熱く問いかけるファルマキアだった。
「へえ、お名前、ファルマキアちゃんっていうんすね。ウチは、アラクネっす!」
「蜘蛛!?」
ファルマキアは、反射的にその名を繰り返した。
さきほど、必殺の蹴りを紡錘で受けられた右爪先の痛みは、まだ消えていない。
『今日、蜘蛛が原因で、あなたの右脚によくないことが起こるかも』
決して外れぬアポロン神の言葉を語るという巫女の力は、実は、本物だったということなのか?
いや、まさか……
ニカンドロスが今日、ファルマキアをこの宿舎に案内することさえわかっていたならば、ファルマキアが蜘蛛と出会うことは予測できる。
さらに、これまでの試験のようすがピュティアの耳に入っていたとしたら、ファルマキアが蹴り技を得意とすることと、利き足が右であることもわかっていたはずだ。
これらの情報を組み合わせれば『蜘蛛が原因で、あなたの右脚によくないことが起こる』という予言は、そこそこの確率で的中すると判断することができる――
だが、本当に、そうだろうか?
出会い頭にいきなり蹴りが飛ぶような事態は、一般的とはいえない。
そんな事態をぴたりと予言したのだから、本当に……?
いや、待て。
もしも ピュティアと、このアラクネが通じていたとしたら?
アラクネがいきなり頭上から飛び降りてファルマキアをおどかす、という計画があることを前もって知っていたならば、予言が的中する確率は段違いに上がる――
「どうしたっすか?」
「……いーやー、別に、だいじょうぶ。アラクネちゃん、これから、どうぞよろしくでーす!」
「こちらこそ、よろしくっす! いやあ、ウチ、女の子の同僚は初めてっすから、めっちゃうれしいっすよ~。そうだ、お近づきのしるしに、贈り物をするっす! はいこれ、ウチの髪の毛で作った縄」
「あっ……いやあの、それは、だいじょうぶでーす……」




