第16話 「セイレーン」
ソクラテスの、シレノス像にそっくりな風貌が、悲しげにゆがんだ。
それを見て、アルキビアデスは、師よりももっと傷ついたような顔をした。
「ああ、ごめんなさい、ソクラテス。あなたを傷つけるつもりじゃなかった。
ぼくを許してください。幼い子供が、かんしゃくを起こして、親に向かって憎まれ口を叩くことがあるでしょう? 今のは、そういうことなんです。ぼくはまったく、幼子も同然なんですよ、あなたの前では。
このぼくは――ぼく自身は、いつだって、あなたの言葉に心を打たれずにはいられないんだ。それが恐ろしくて、あなたを遠ざけようとした。あなたに会えば、その言葉に耳を傾けずにはいられないと分かっているから――」
「ソクラテスさァ~ん?」
妙な抑揚をつけた声が、師弟のあいだに遠慮なく割り込んだ。
声の主は、むろんファルマキアだ。
「気をつけて。『アルキビアデスは演説の名人だ。そういえばそうだなと人に思わせる空気を、簡単に作り上げてしまう。君自身も、そう言っていただろう』って、ついさっき、わたしに言ってましたよ! ――いや、すごい、すごい」
言葉の後半からは、自分が今まさに毒針を突きつけている相手の男に向けたものだ。
「神話の鳥妖って、ほんとにいるんですね! その声を聴いた者は、否応なしに惹きつけられる。そして、破滅することになる……」
「ぼくの声が、まるでセイレーンのようだっていうのかい? お誉めにあずかり光栄だよ、ファルマキア」
ファルマキアをまっすぐに見返したとき、アルキビアデスの顔に、傷ついた少年のような表情は影も形もなかった。
その美しい顔に、傲慢な微笑みが浮かんでいる。
「これが、神々がぼくに与えたもうた資質、ぼくが磨き続けてきた武器なのさ」
「人がまさに聞きたいと思うような言葉を、まさに聞きたいと思うようなときに囁くってのが?」
「まあね。だが、それは悪いことではない。そうだろう? だって、望んでいるのは向こうだ。ぼくは、それに応えているだけ」
「発言内容が完全無欠に『人のせい』である件についてー」
「人のせいにしているわけじゃない、事実を述べているだけさ。このアテナイは、市民が動かす都市国家だ。ここでは、弁論の力こそが、何にも勝る!
せっかく与えられた能力を生かさないなんて、神々からの贈り物を投げ捨てるようなものだ。そんな傲慢を、神々は決してお許しにならないよ」
「人のせいを超えて『神のせい』来た……新しいッ」
「ぼくは、試したいのさ」
どちらも、会話をしているようでいて、相手の話をまるで受け入れていない。
続けざまに言葉を投げつけ、打ち込み、相手の心の守りに罅を入れようとしている。
「この力で、いったい、どこまで行けるのか。アテナイの人々を動かし、他の都市国家を動かし、ギリシャの外の世界までも動かす。そんなことが、ぼくにできるだろうか? 分からない。だからこそ、どうしようもなく、わくわくするんだ!」
アルキビアデスの美しい顔の中で、その目が輝いている。
本気でそう信じているとしか思えない、熱狂的な視線。
「ねえ、ファルマキア。君だって、他の者にはない特殊な資質をもち、それを磨いてきたんじゃないか? そんな君には、きっと分かってもらえると思うんだ、ぼくの気持ちが。
世間の常識だの、善悪だのなんて、どうでもいいじゃないか? 自分の力が、いったいどこまで通用するのか、やれるところまで、行けるところまで、行ってみたい――」
黄金の指輪と腕輪に飾られた腕が、伸ばされる。
「君も、ぼくと一緒に来ないか、ファルマキア? ぼくたち、いい関係になれると思うよ」
「あー」
ファルマキアは、ゆっくりと頭を振った。
右手の毒針はぴくりとも揺らさずに、左手で自分の太腿をぱちぱちと叩いて拍手を送りながら。
「すごい。最高! 演説がうますぎる、マジで。この状況でそこまで喋れる人、わたしはこれまで見たことない。
でもね、なーんか……嘘っぽいなー! うん、嘘っぽい。あなたの素顔は、多分、わたしが女だから話すことなんかないって言ってた、あの瞬間のイヤーな顔だと思うんだよね! いや、才能は確かにあるよ、うん。誰にでも、どんな時にでも平然と大嘘がつける、天才的な才能がね――」
そのときだ。
「動くな、貴様らァ!」
槍や弓を手にした数人の男たちが、部屋になだれ込んできた。
「言われなくても誰ひとりとして動いてない、てか、動けない件についてー」
アルキビアデスの喉元に針を突きつけたまま、ファルマキアは微動だにしない。
ソクラテスの首筋に刃を当てたスペーケスも動かず、乱入してきた男たちも、つんのめるようにして止まった。
止まりながら、叫んだ。
「アルキビアデス様! ご命令の通りに、そこの哲学者の家族を、人質にとりました!」
「何だって!」
「……だってさ。さあ、どうする?」
ソクラテスが声をあげ、アルキビアデスが悠然と笑みを深めた。




