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第15話 「卑怯者」

 次の瞬間、さまざまなことが立て続けに起こった。


「シェエエエィッ!」


 奇声とともにスペーケスが床を蹴り、ファルマキアに向かって突進する。その手に、ぬらりと黒光りする短剣の刃が光る。


「シャアアアァッ!」


 ファルマキアもまた同時に床を蹴りつけ、スペーケスに襲いかかった。その手には、鈍い紫色に光る毒針が握られている。


「ファルマキア!」


 もはや偽名のことは忘れてソクラテスが叫び、大きく手を振りながら、ファルマキアを守ろうとするように飛びだし、


「スペーケス!」


 アルキビアデスは、寝椅子の上に横になったまま、非難するような調子で叫んだ。

 スペーケスの黒い刃が幾度も空を切り、ファルマキアの毒針が続けざまに空を突く。

 速度も腕前も、両者、拮抗している。どちらも振るう武器が極めて小型、かつ、毒の使い手であるがゆえに、相手の攻撃を受けることなく躱す戦い方が身にしみついていた。

 はた目には、間近で向き合った二人がものすごい速さで踊っているようにしか見えなかったかもしれない。不用意に近づけばたちまち命を奪われる、死の舞踏だ。


「やめたまえ!」


 そこへ、大声をあげながら、ソクラテスが割って入ろうとする。


「だああああ危ない! 邪魔邪魔邪魔アアァァ!」


 ファルマキアは叫びながら、ソクラテスを避けるように飛び退った。

 毒のことは知っているはずなのに、この人は、本当に恐れというものを知らぬのか、それとも、本当に愚かなのか――


「シッ」


 ファルマキアが離れた一瞬の隙を、スペーケスは見逃さなかった。ひょろりとした腕を、ソクラテスの逞しい首にがっちりと巻きつける。

 驚いた哲学者が背負い投げをかけようとする暇を与えず、その首筋に、黒い刃をぴたりと突きつけた。


「おい、動――」


「チェエエエエェイ!」


 ソクラテスを人質にしたスペーケスの脅しをみなまで聞かず、ファルマキアは二人をよけて猛然とアルキビアデスに飛びかかった。

 スペーケスはしまったという表情を浮かべて動こうとしたが、その腕を、逆にソクラテスががっちりと捕らえて離さない。

 ファルマキアは一挙動でアルキビアデスの寝椅子に飛び乗り、今まさに起き上がろうとする男の喉元に、紫色の毒針を突きつけた。


「動くな! この男を殺すぞ!」


「動くな! この男を殺すぞ!」


 スペーケスとファルマキアの叫びが完璧に重なり、緊張の糸が最高度にはりつめる――

 ファルマキアは、吹き出した。


「やば。丸かぶり! 同時シンクロすぎるんですけど」


「笑っている場合かい?」


 毒針を突きつけられ、喉を反らしながら、アルキビアデスが呆れたように言う。


「スペーケスの刃が、ソクラテスに少しでも触れれば、彼の命はないんだよ。下がりたまえ」


「それ、まったく同じことがこっちにも言える問題。私の針が、ぷすっといったら、あなたは即座に冥府ハデス行きだから」


 ファルマキアは涼しい顔で言い返す。


「それに、あいつは、ソクラテスさんを刺さないでしょ。だって、刺す気なら、今もう刺してるはずだもん。それなのに刺さなかったのは、あなたが止めたからだよね?」


『スペーケス!』という最前のアルキビアデスの非難の叫びを、ファルマキアは思い出していた。

 あれは、ソクラテスを傷つけるようなまねはするな、という意味だったのだ。


「あなたは、ソクラテスさんを殺したくないんでしょ。だから、脅しになってない」


「それは、まったく同じことが、こちらにも言えるね」


 明らかに先ほどのファルマキアの言葉をまねて、アルキビアデスはにっこりと笑った。


「君は、ぼくを殺さない。だって、そうするつもりなら、今もう刺しているはずさ。そうだろう? 君は、今、ぼくを殺していない。つまり、殺す気はないということだ」


「あなたが、ソクラテスさんを殺したくないのは」


 ファルマキアは、アルキビアデスの言葉を完全に無視して続けた。


「ソクラテスさんのことが、今でも好きだから? それとも、ソクラテスさんを殺したなんて噂が流れたら、自分の評判に傷がつくから?」


「その両方さ、もちろんね」


 アルキビアデスは言った。


「そして、君がぼくを殺さないのは、なぜかな? もしかして、ぼくのことが好きだから?」


「いやー、そうじゃなくて」


「つまらないな。少しは色っぽい会話ってものを楽しみたまえよ」


 アルキビアデスがつけている高価な香油が、むせ返るほどに強く香る。それほどの至近距離から、絶世の美男子の顔を見据えながら、ファルマキアは肩をすくめた。


「さっきの民会の様子を見てて、思ったんだよね。どうも、あなたをアレしたところで、Εエイの目的は、達成されなさそうだなーって。今、あなたをアレしても、たぶん、シケリア遠征は止まらない。あのおじさん……えーっと……えー、あのほら、誰だっけ?」


「ニキアスかな?」


 と、首筋に毒の刃を突きつけられたままで、ソクラテスが横から助け舟を出してくる。


「そうそう! あのニキアスさんあたりが、みんなにやいのやいの言われて総司令官になって、結局は出発することになりそうな気がする。みんなが、これは誰それの陰謀だ! とか、アルキビアデスの遺志を継ぐんだ! とか盛り上がりだして、逆に、手が付けられない状況になりそうっていうか――」


 アルキビアデスの微笑が深くなった。


「よく分かっているじゃないか。シケリア遠征は、ぼくの意思じゃない。アテナイ市民たちの意思なんだ。ぼくは、市民たちの望みを――彼らの思いを代弁しているにすぎない。そう、君のいうとおり、ぼくを殺したって遠征は止まらない。だって、アテナイが・・・・・それを望んでいるんだから!」


「アテナイが望んでいるだって?」


 叫んだのは、ソクラテスだ。

 おい黙れ、動くな、死にたいのか、とスペーケスがぶつぶつ言っているが、そんなものは意にも介さない様子で、太い指をアルキビアデスに突きつける。


「それは嘘だ。望んでいない者もいる。現に、ここに、望んでいない者がいる! アテナイの皆が、シケリア遠征に賛成しているわけでは、断じてない!」


「ならば、その考えを、民会で訴えるべきだったのでは?」


 アルキビアデスはゆったりと視線を巡らせ、かつての師の目をまっすぐに見返した。


「ソクラテス、あなたは卑怯ですよ。ぼくを止めたいのならば、あなたは、民会の場で立ち上がり、発言を求め、あの岩の上から、堂々と市民たちに向かって訴えるべきだった。そうでしょう? なぜ、そうしなかったんです? ……ああ、ぼくが言いましょうか。あなたは、こう思っていたのではありませんか? ぼくを相手にしては、勝ち目はない。自分の言葉に、力などないのだと――」

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