第14話 「甘い誘い」
「ずいぶんと、変わった弟子をお取りになったんですね、ソクラテス?」
「弟子じゃないでーす。居候でーす!」
アルキビアデスは眉をひそめ目を細め、不愉快さをあらわにした表情でファルマキアを振り向いた。
「ぼくはソクラテスと話しているんだ」
「そう? わたしはあなたと話してるんですけど」
「とって何だい? きみが勝手に喋っているだけだ。こっちには、女と話すことなんかないね」
「いやいや、わたしについて話すなら、一回ソクラテスさんを経由するより、わたしと直接話したほうが明らかに最短距離である件について!」
「それもそうだな」
と深くうなずいたのは、やはりと言うか、アルキビアデスではなくソクラテスのほうである。
アルキビアデスは空中に向かって思いきり嫌な顔をしてから、一度、大きく息を吸いこみ、吐き出して、急に人格でも変わったのかと思うような満面の笑み――彼がいつも支持者たちに見せている笑み――を見せた。
「それじゃ、つまり、デルフォイのΕはぼくを始末することに決めたっていうわけなのかな?」
「え、なに? ……Ε?」
「やめたまえ。ぼくは好き嫌いの激しい人間なんだけど、ばかのふりをして、ばかみたいな会話をするのはいちばん嫌いでね。もう分かっていることなんだから、きみの言うとおり、最短距離で話を進めようじゃないか」
アルキビアデスは変わらぬ笑顔のまま、細めた目の奥から針のような視線でファルマキアを見すえた。
「君はΕの人間だ。そうだろう? Εの仲間の誼でもなければ、ソクラテスが、おまえみたいな小娘を家に泊めたりするはずがない」
「――はっはっはー! ばれてしまっては仕方ない! そう、わたしは、Εの掃除人! おまえをアレしに来たのだっ!」
「正直に言ってどうする!?」
さすがに慌てて叫ぶソクラテス。
「いや、ソクラテスさん、これ、もう完全にばれてます。そもそもΕの存在がばれてますし。ソクラテスさんが仲間だってことまでばれてますし。もはや隠す意味ないかなーっと」
「だが……なぜ、物語の悪役調で」
「ふつうに言っても盛り上がらないかなと思って」
「盛り上げる必要がどこに!?」
「呆れたね」
アルキビアデスは嘆かわしげに首を振ったが、それは、ファルマキアとソクラテスの会話の内容に対してではないようだった。
「ぼくは、民会でシケリア遠征を訴えるずっと前から、デルフォイの神託所にたびたび使者を送っていたんだ。デルフォイは――Εは、アテナイに対し、シケリア遠征を支持するという神託を下した」
「……え!? そーなの!?」
「ああ。もちろん、ぼくが莫大な黄金を支払ったからだがね。……まったく、ぼくのやり方を支持するふりをして大金までせしめておいて、裏で殺し屋を送り込んでくるとは。見事な二枚舌外交だ。呆れ返って、もはや腹も立たないね」
「マジか! ていうかソクラテスさん、アテナイ市民なんだから、この神託の情報は知ってましたよね!? 事前に言っといてよ~!」
「いや、当然、知っていると思っていたのだが……」
「おやおや、君、知らなかったのかい? かわいそうに、しょせんは使い捨ての駒なんだ。重要な情報は教えられていなかったんだね」
「マジでー!? ……あれ? いや……? そういえば、歓迎会の後半で、ニカンドロスさんがなんか言ってたかも……!? うーん!? 思い出せない! そういえばあの夜、最後のほう、肉の食べ過ぎで気持ち悪くなって倒れてたから――」
「何してるんだ君は」
「でも、さすがはニカンドロスさん! 相手から金をむしり取るだけ取っておいてからアレしようとは、一周回って清々しいほどのワルさ!」
「感心してどうするんだよ」
「でも、ニカンドロスさんがちゃんとわたしに神託のことを説明してくれてたのかどうか、マジでそこがいちばん気になるなー。説明してくれてたならいいけど、してくれてなかったら、帰ったときにアレしよーっと!」
「迷いなく上司を!?」
思わずといったように叫んでから、アルキビアデスは、感心したようにファルマキアを見つめた。
「君、なかなかおもしろいね。こうなったらざっくばらんに話すけれど、君、Εからいくら貰ってぼくを始末しに来たの? ぼくはその二倍、いや、三倍を払うよ。ぼくの側に付かない?」
「アルキビアデス」
何か言おうとしたソクラテスを、アルキビアデスは片手を突き出して制止した。
「だって、あのニカンドロスが雇うほどの人間なら、その技術が一定の水準を満たしていることは保証付きだもの。安い買い物さ。ねえ、どうだい、ファルマキア?」
「お嬢さん、彼の口車に乗せられてはいけないよ」
じっと見つめ合う二人のあいだに割って入るように、ソクラテスが、今度はファルマキアに向かって言った。
「アルキビアデスは演説の名人だ。『そういえばそうだな』と人に思わせる空気を、簡単に作り上げてしまう。君自身も、そう言っていただろう――」
「ああ、嬉しいな。かの名高きソクラテスから、弁論についてお誉めの言葉をいただくなんて。でも、あなたがそうやってぼくを誉めてくださるときは、たいてい皮肉なんだ。そうでしょう、ソクラテス? ……ねえ、どうだい、ファルマキア? 君の返事を聞かせてよ」
「うーん……三倍かー……」
「悩みどころは、そこかね!?」
思わず叫ぶソクラテス。
「おや、まだ足りない? 強欲だね……それじゃ、好きなだけ肉と酒もつけるよ。あと、男もつけようか? スペーケスなんかどうだい?」
「いやそれは要らないかなー……だって、なんかコワいじゃんあの人。今も、そこの寝椅子の下にずーっと隠れてるし」
「……チッ」
ファルマキアの視線の先で、豪奢な布をかぶせた寝椅子の下から、ひょろりとした男がずるりと這い出してくる。
スペーケスは、憎々しげにファルマキアをにらみつけた。
「くそが……おまえがいつまでたっても座らないから、無駄に狭かっただろうが」
「そんな文句言われてもねー。ていうか、座るわけないじゃん、あんな殺気ダダ洩れの寝椅子!」
「おやおや、スペーケス、君、そんなところにいたのかい? 主人の会話を盗み聞きするなんて良くない習慣だね。さあ、さっさと下がりたまえ」
「いやあんた、どう考えても自分で命令しておきながら、その態度……」
さすがに半眼でつぶやくファルマキアに、
「何の話かな? ぼくはちっとも知らなかったよ」
と、アルキビアデスは涼しい顔をしている。
「おい……下がっていいのか? 俺が下がれば、こいつらは、あんたをすぐにでも始末しようとするかもしれんぜ……」
「大丈夫さ」
うなるスペーケスに、アルキビアデスは朗らかな笑みを崩さない。
「ソクラテスは、決してそんなことはしない。ファルマキアだって、そんなことはしないよ。だって、二人がぼくの屋敷を訪れたことについては、大勢の証人がいるんだからね。ぼくに何かあれば、疑われ、追われるのはこの二人だ」
「そうそう!」
ファルマキアはにこにことうなずいたが、スペーケスはその場を動かない。
「その女のアホ面に騙されるな。その女はたぶん、毒を使うぞ。俺の毒針を見抜いたからには、そいつ自身も使い手のはずだ……ゆっくり効くやつを打ち込まれたら終いだぜ。効果があらわれるのに、丸二日ほどかかるやつをな……」
「あー」
ファルマキアの笑顔が、底知れない薄笑いに変化する。
「あんたが、わたしが寝椅子に座ったとたんに打ち込もうと狙ってたみたいなやつでしょ? ……ざーんねん。ばれたか」




