第百七十四話 のどかなひととき
くもっているおかげで、日差しを気にしなくていいのは良かった。
今俺たちがいる位置には日陰がないので、晴天ならきっと汗だくになっていただろう。
もちろん夏なので暑いことは間違いないのだが。
しかしここ数日の間では、一番過ごしやすい日だった。
『にゃー』
猫はひとしきり撫でられて満足したらしい。さっきまでは甘えるように手に体を擦り付けていたが、今は地面に丸まって寝そべっていた。今からお昼寝タイムだと言わんばかりに目を閉じているので、構うのは一旦やめることに。
「ひめ、どうぞ」
それから、ひめに先ほど自動販売機で購入した飲み物を差し出した。
小さい缶のぶどうジュースである。この前俺の家に来た時、黒い炭酸水は苦手と言っていたので、飲みやすそうな種類を選んでみた。
「わたしの分まで、いいのですか? 一応、自分の分はちゃんとありますが」
「うん。もう買っちゃったから、遠慮せず飲んで」
「……相変わらず、素敵なお兄さんですね。ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀してから、ひめは缶ジュースを受け取ってくれた。
この子は他人に対して遠慮するタイプなので、素直に甘えられるとなんだか嬉しい。心を許してくれているんだなと思って、ほっこりする。
「んっ……美味しいです。よく冷えてていいですね」
「夏場は冷たい飲み物に限るよ」
「お姉ちゃんと同じことを言ってます。冷水をたくさん飲みすぎるとおなかを壊しちゃうので、気を付けてください。お姉ちゃんは毎年それで苦しんでますから」
聖さんは模範的な反面教師なのだろう。あの人が大胆だからこそ、ひめは慎重な性格になったのかもしれない。
「陽平くんは何を飲んでいるのですか?」
「俺はスポーツドリンクにしたよ。汗をかいたから、なんだか飲みたくなって」
「水分補給にはうってつけですよね」
「うん。でも、こんなに暑い日はアイスも食べたくなるなぁ」
「アイス……たしかに、美味しそうです」
「近くにコンビニとかあったかな……?」
「どうでしょうか。来た時は見なかったです」
「あてもなく歩くなら、この場で休んでた方がいいか」
「わたしもそう思います……アイスも捨てがたいですが、歩き回るにはちょっと暑いです」
そうなんだよなぁ。コンビニの場所が分かっていればいいのだが、ここがどこなのかもよく分かっていないので、あまり遠くに行く気分にはなれなかった。
ひめの言う通り、ふらふら動き回るくらいならこの場でのんびりしていたい。
タイヤの上に腰を下ろして、ふと空を見上げた。曇天だが、雨雲は見当たらないので天候が崩れることはないだろう。
「あ、にゃんこが寝てます」
「……本当に、警戒心がないね」
「だらんとしていてかわいいです……少し、お姉ちゃんに似ています」
「聖さんに似てるかなぁ」
「だらだらしてるところがそっくりです」
ひめが猫を見ながら笑っている。
姉のことを思い出して表情が柔らかくなるところもまたかわいい。
今日は随所で聖さんのことが話題に出ている。
それだけ、ひめが姉を慕っている証拠だろう。
……今日も、一緒に来ても良かったのに。
俺からは特に何も言ってないのだが、聖さんが一緒に来てもおかしくないなとは思っていた。しかしひめ一人で来ていたので、実は聖さんのことが気になっていたのである。
なので、このタイミングで聞いてみることにした。
「え? お姉ちゃんが来ていない理由ですか? 別に深い意味なないですよ……にゃんこと同じ理由です。暑いから、だらだらしたいそうです」
「うん、予想通りだった」
聖さんのことだから、まったく驚きはなかった。
寸分たがわず予想通りだったので、つい笑ってしまった。
「あと、字に囲まれていると頭痛がしてくるそうなので、図書館に入れないそうです。本を近づけると嫌がって逃げていくくらいですから」
「へー。十字架を嫌う吸血鬼みたいだね」
「まさしく、そんな感じです」
……なんていう、中身があるようでまったくない会話をしばらく続けた。
夏休み。時間を気にせず、公園でのどかな時間を過ごす。
何事も起きない、退屈な一日であることは間違いない。
でも、この時間は穏やかで、とても心地良かった――。




