19. 空を飛ぶ願い
つややかな翼を広げて、大きな鳥が森を渡っていく。
鋭い目と爪を持ち、鳥の王者にふさわしい風格を持ったその鳥は、友人のために大事な仕事を遂行中であった。
空腹とのどの渇きを覚えるほどに長い距離を飛んでいたが、その翼を休めるつもりはなかった。
友は、「大至急」と自分に頼んだのだから。
あと少し。
最後の力を振り絞り、高い山脈を飛び越えれば目的地が見えてくる。
深い森の切れ目に見える黒い屋根を、鳥の目はしっかりと捉えた。
そこには、もう一人の大切な友人と自分の兄弟が待っているはずだ。
一直線に下降した鳥は、声高らかに兄弟を呼んだ。
森に響き渡ったその声に、答える声が響き、家の中から人影が飛び出してくる。
差し出された腕に向かい、巨鳥はふわりと舞い降りた。
「お帰り。今度はどんな問題を持ってきたんだ、お前」
優しく首のあたりを掻いてくれる指を、目を細めて受け入れながらも鳥は、不本意だとばかりに小さく鳴いた。
自分は・・・・自分たちは、友に頼まれて手紙を運ぶだけ。
そこに何が書かれていようと、知った事では無いのだ。
「分かってるさ。言ってみただけだよ。いつだって厄介ごとを持ち込むのは人間さ」
鳥の不満を間違いなく読み取った男はくすくすと笑いながら、そのたくましい足にくくりつけられた書簡筒から手紙を取り出す。
そうして、驚いたように目を見開いた。
「これはびっくり。だいぶ前に別れたきりのぼくたちの妹からの知らせだ。しかも、ババ様に!」
慌てて踵を返す男に振り落とされそうになって、鳥は慌てて腕から肩へと移動した。
「ババ様!レイラから手紙がきたよ!!」
家の中に駆け込む男の肩で鳥は、一人の少女の顔を思い出した。
いつでも元気いっぱいに森の中を駆け回っていたかわいい女の子。
まだ子供だった鳥と、よく一緒に遊んでくれてたし、撫でるのもとっても上手だった。
ずいぶん前に嫌な感じのする男たちに連れられて森を出て行ってしまって、それっきりだったけど。
そうか、自分はあの子の手紙を運んでいたのか。
なんだか懐かしい想いと誇らしい思いが沸き上がってくる。
帰りの手紙も運んだら、今度はあの子に会えるだろうか?
男の肩のうえで疲れた羽を毛づくろいしながら、鳥はぼんやりとそんなことを考えていた。
定位置にある窓辺の揺り椅子でまどろんでいた老婆は、騒々しく駆け込んできた孫息子に渡された手紙を見て目を細めた。
深い緑のインクからは独特の香りがした。
それは一族中で、特別な手紙だけに使われる調合のインクだ。
「おやまあ、意地っ張りのあの子が”お願い”をしてくるなんて。一生お目にかかる事は無いと思ってたんだけどね」
老婆はクツクツと喉の奥で笑いながら、インクの香りを胸いっぱいに吸い込む。
深くしわの刻まれた顔をほころばせながら慎重に封を開ける老婆の瞳は、まるでプレゼントを開ける子供のように無邪気に輝いていた。
「いつだってこの香りは、面倒ごとと楽しみを運んでくる。さてさて、今回はどんな”お願い”かねぇ」
「ババ様は、一族の記憶をすべて引き継ぐ、偉大な薬師なの。それから一族を束ねる頭領でもあるんだって」
宣言通り昼過ぎに戻ってきたレイラは、大鍋一杯に沸いた湯の中に、籠に詰め込んだ薬草をバサバサと放りこみながらそう言った。
いつも薬草を丁寧に扱うレイラを見てきたユリアは、らしくないその適当さに目を丸くする。
「ああ、これは良いのよ。とりあえず煮詰めて緑の色素を取り出したいだけだから。このまま湯がなくなるまで煮詰めてくれる?」
そうしてユリアに杓子を手渡すと、懐の中から大切そうに懐紙に包まれた何かを取り出した。
「大切なのはこっち。必要な手順を間違うとすぐに台無しになる厄介者よ」
そっと机の上の黒い箱の中にしまい込むと、さらに引き出しへと入れてしまった。
「それから・・・・そうそう、ババ様のことよね。前にも言ったことがあると思うけど、ババ様はとても物知りでね。森の奥に住んでいるのだけれど、よく人が訪ねてきてたの。いろんな国に弟子がいて、その人たちの相談に乗ったり、とかね?」
人は生きていくうえで怪我もするし、病にもかかる。
出産を手伝う産婆や死んだ後に世話になる墓堀と同じくらい、薬師は生活の中に息づいているといっても過言ではないだろう。
高額な医療費がかかる医師の代わりに、薬師に相談するのは庶民にとっては普通のことだった。
「薬師の中で、ババ様のことを知らない人はいないのではないかってくらい有名なんだって。訪ねてきた人たちはよく言ってたわ。言われたババ様は笑ってたけど」
当時を思い出したのかレイラはくすくすと笑いながら、薬草をしまっていた薬棚を開けたり閉めたりして必要な材料を取り出していく。
「薬師のいない国はないでしょう?きっとババ様に声をかけてもらえば、みんな協力してくれると思うの」
「それは・・・・そうなのですか?ですが、そのような高名な方が、協力して下さるでしょうか?」
言われた通りなべ底を焦がさないようにぐるぐるとかき回しながら、ユリアは首を傾げた。
幼いころから共に暮らした情はあるだろうし、薬師の知識を授けてくれる師匠と弟子という関係性もあるとはいえ、レイラがやろうとしていることはどう考えても一筋縄ではいかない厄介ごとだ。
「それなんだけどね。とっておきのお願い方法を使おうと思って」
「・・・・・とっておき、ですか?」
不思議そうなユリアに、レイラは神妙な顔で頷いた。
父親の使いを名乗る男たちが来る前の日。
まるでそのことを知っていたかのように話してくれたババ様の顔を思い出す。
いつもの窓辺の揺り椅子の上で、ゆっくりと編み棒を動かしながらそっと秘密を教えてくれたあの時間。
家の中に染み付いた薬草の香りと共に、レイラは不思議といまだにはっきりと思い浮かべる事ができた。
「そう。あのね、ババ様の一族に伝わる伝統なの・・・・・」
ババの産まれた一族はね、代々薬師の家系だったのさ。
ババのババ様・・・・、それよりうんと昔から、薬草と共に生きてきた。
お前に教えた薬の知恵も、そうした先祖が積み上げてきた知識なんだよ。
親から子へ、子から孫へ・・・・そうして知識と血をゆっくりと国中に広げ、さらには国境を越えて生きてきたのさ。
お前ももしも困ったことがあったら、その街の薬師の店先を覗いてごらん。そこに秘密のしるしを見つけたら、その薬師は一族の流れを汲んでるから、きっとお前の助けになってくれるだろう。
代わりにお前も困った仲間がいたら、労を惜しまず助けてあげるんだよ?
それが、数少ない一族の掟の一つさ。
それとは別に、特に濃い血のつながる者たちの間に昔からある伝統がある。
それはね、通称”最後の願い”。
独り立ちをする子供に親が贈る最後の贈り物さ。
その願いを託されたら、どれほど大変な事でも親はかなえてやる義務がある。
もちろん、死人を生き返らせろ、なんて無茶はできないけどね。
それでも、自分のできる精一杯で努力しなけりゃいけない。
それは、この世に我が子を産みだした親の最後の責任なのさ。
お前を生んだ母親は、直接じゃないけれど私の血筋でね。
正確にはババの叔母の孫娘に当たるのさ。
幼いころに親を亡くして、叔母に預けられて私の元で育ったんだ。
……お前と同じだね。
残念ながら薬師としての才能は無かったけれど、器量よしで歌が上手かったから、年頃になると歌で生きていくとここを出ていって、あんたの親父さんと出会ったのさ。
お前はね。あの子の”最後の願い”で私の元に来たんだ。
私が産んだ子ではなくても育てた子だから、ここを出ていくときに、今みたいに話をしたんだよ。
産中からいろいろ問題があったから、お前を生んで無事ではいられないと分かっていたんだろう。
一人残すお前をとても心配していたけれど、どうしてもお前をこの世に生み出してやりたかったと言っていたそうだよ。
自分は十分幸せだったから、この子にも同じくらいの幸せをあげたいとね。
泣くんじゃないよ。全て覚悟のうえでお前を生んだんだ。誇っておやり。
そうして、もしも自分が死んだ後、旦那がこの子を受け入れられないようなら、私の所へ連れて行ってほしいと出入りの薬師に頼んでいたんだ。
それが自分の”最後の願い”だとね。
馬鹿な子だよ。
これはそんなふうに遺言みたいに使うものじゃないってのにね。
そんな事に使うくらいなら、直接ババに森から出て来いって言えばよかったんだよ・・・・。
ああ、話がそれたねぇ。
年を取ると愚痴っぽくなっていけない。
とにかく。そういうものが一族の伝統にあるって話だよ。
お前と私の血は遠いけれど、お前の母もお前も私の元で育った私の娘さ。
だからね。
本当に何か困ったことがあったらババをお呼び。
ババのできる全てで、お前の望みをかなえてやろう。
だけどね。一つだけ約束しておくれ。
お前の母親のような使い方はいけない。
この”お願い”はね、親が子供に与える最後の甘やかしでもあるんだ。
親より、ましてやこんな年寄りより先に黄泉の国にわたるなんて絶対にしちゃいけないよ?
分かったかい?そう。いい子だね。
愛しているよ、可愛いレイラ。
お読みくださり、ありがとうございました。
ちょこちょこ出てきた噂のババ様。
腰も曲がって、一見ヨボヨボだけど、イタズラする孫たちを杖でぶん殴って躾けるパワフル婆ちゃんです。




