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ひとさらい~ある侍女の独白~


 奥さまは以前よりもお綺麗になられたと、しみじみ思います。



 奥さま、とお呼びすると、あまりいい顔をされないので、普段は名前でお呼びしているのですが、気を抜けばうっかり奥さまと呼んでしまいそうになります。こうして考え事をしている時は、言わずもがな。


 奥さま、の呼びかけが実態を伴っていた時間は、実のところとても短かったのですが。


 私の視線に気付いてか、奥さまは縫物の手を止めて、首を傾げました。

「いいえ、何でもありません。ところで、そろそろ帰ってこられる時間ではございませんか」

 窓の外を見た奥さまは、そうねと呟いて縫物を籠に片づけました。

 そこへ今年五歳になる奥さまの子どもが、元気に走り込んできました。


 ただいま、と声をあげ、奥さまの腰にしがみつきます。

 外で遊んで泥が跳ねた顔を奥さまは呆れたように、愛おしそうに撫でました。


 お帰りなさい、ほら泥がついているわ。手と顔を洗ってきなさい。綺麗にしてきたら、おやつにしましょう。


 はあいと頷き、子どもは素直に部屋を出て行きかけ……再び戻って来ました。


 どうしたのと首を傾げた奥さまに、子どもは手にしていたものを差し出しました。


 これ!綺麗でしょ、摘んできたの!おかあさんにあげる!


 まあ、綺麗ね。ありがとう。目を細め奥さまはちいさな手から素朴な……野の花ばかりの花束を受け取り、嬉しそうに微笑まれました。


 母親の笑顔に、子どもも嬉しそうに笑うと、言いつけを守るために今度こそ部屋を出ていったのです。



「それではお茶の準備をしてまいりますね。その可愛らしい花束は、どうなさいますか」

 奥さまは手にした花束を見つめ、ふと気付いたように笑います。

「そういえば、男性に花を贈られたのは初めてね。これはグラスにでもいけてくるわ」


 奥さまも部屋を出て行きました。

 きっと奥さまはお気づきではないでしょう。

 先ほどの言葉に、私がこみ上げる怒りを押し殺した事など。


 お茶とお菓子の用意をして、部屋に戻ります。

 そこには言いつけどおり手や顔を綺麗にあらった子どもが居ました。


 おかあさんはと尋ねてきましたので、花を生けていますよと答えました。 

 そこに、奥さまが戻ってこられました。


 透明なグラスに、野の花が活けられています。

 それをお茶の用意が整ったテーブルの中央に置きました。誰からでもよく見えるように。

 それを見た子どもは嬉しそうな顔で奥さまの腰にしがみつきました。


 ほらほら、せっかくいれてくれたお茶が冷めるわ。いただきましょう。


 はあい、と元気よく返事をして、こどもはおやつの焼き菓子に手を伸ばします。


 奥さまの細い指が、絡まった子どもの銀の髪を梳きます。

 こどもの目は藍色がかった青い色。



 とても優しい光景でした。

 心やすらぐ、どこにでもある、日常の光景でした。


 あの頃も奥さまは、凛としたうつくしさをお持ちでしたが、常にどこか張りつめたような痛々しさが見え隠れしていました。今ではそのような危うさは消え、かわりに穏やかな笑みをたたえていらっしゃいます。


 それらに安堵するとともに、いまだふとした拍子に怒りがこみあげてくるのです。

 かつての雇い主にして、乳兄弟の姿が脳裏に浮かびます。




 旦那さま……あなたが間違えなければ、この光景は今、あなたのそばにあったかもしれませんのに、と。





 旦那さまは王族の姫を母に持ち、代々高位神官を輩出してきた家系に生まれた父を持っていました。 

 この国で非常に高い身分を持つ彼は、傍目には何でも意のままに、自由になると思われていたでしょう。

 けれど、事実は少し違いました。

 彼の両親は幼い彼に、“欲しがらない事”を教えました。

 彼らの地位は高い。そのため、彼らが何かを欲しいと言えば、取り入ろうとする者はそれを手に、もしくは他者から奪ってでも手に入れて彼らに差し出そうとしてきました。


 旦那さまのご両親は度々そのような事を体験してこられた結果、ご子息に言い聞かせたのです。


 “欲しいと言ってはいけませんよ。もし口にしてしまったら、よくない事が起きるのですから”



 しかし、これは幼い子どもには酷な事でした。

 珍しい玩具、美味しそうなお菓子など、目を引くものを並べられて、欲しがらない筈がありません。


 旦那さまはそれでも、ご両親の言いつけを守って、自分から欲しいと言う事はありませんでした。

 何を並べられても、興味がなさそうにふいと顔を背けてしまいます。

 こんな事を繰り返しているうちに、幼い旦那さまに取り入ろうとするものは、居なくなりました。


 けれど、並べられた中に、確かに旦那さまが欲しがるものは、あったのです。


 私の母は、旦那さまの乳母を勤めていました。

 乳母の役目が終わった後も、旦那さまのお世話係としてお屋敷に勤めていたのです。

 私は旦那さまとは乳兄弟の関係でした。


 旦那さまは元々、思ったことを口にするのが苦手な方でした。

 上手く言いたい事が言えない時、怒ったような顔をしている様子を見たことも、何度となくあります。 そういう方だったのに、ご両親様からの言いつけがさらに状況を悪くしてしまったのです。


 母は、そんな旦那さまを注意深く見守っていました。

 旦那さまが欲しいと思ったものに気がつくと、さりげなく聞きだし、用意できるものは用意して差し出していました。

 欲しいと言えない旦那さまのためには、あの頃はそうするしかなかったとわかっています。

 しかし、今になって思えば……それが間違いの始まりだったのかも、しれません。





 旦那さまが奥さまを迎えられた時……旦那さまがご自分で望まれたと聞いた時、私は幾分か安心しました。

 何故なら、旦那さまは成長され、家を継がれた後も、未だご自分の望むものを上手く言えないままだったからです。

 必要かそうでないか、その選択をする旦那さまには、迷う所はありません。

 価値や用途、また手に入れるに見合うかを検討する旦那さまに、間違いはありません。


 けれど必要ではないけれど、旦那さま自身が“欲しい”と思ったもの……これを手にしようとする時、旦那さまはいつも戸惑っているようでした。


 欲しいと言っていいのか、そう……迷っているような。

 おそらくご両親も、ご自分たちの言いつけが今になっても旦那さまを縛っているとは、思いもしなかったでしょう。けれどそれが事実でした。


 旦那さまの周りに仕えている者は、それをよく知っています。

 ですから……かつて母がそうしたように、旦那さまが欲するものを汲み取り、差し出し続けたのです。

 それを知っていた私は、ようやく旦那さまはご両親の言いつけの呪縛から逃れられたのだと嬉しく思っていました。


 旦那さまの振る舞いに感じた不安を、胸の中で押し殺して。





 旦那さまの奥さまになられた方は、旦那さまがこちらへと呼び寄せた方でした。

 こちらの事を何も知らない奥さまのために、旦那さまは私を奥さまの侍女としました。

 初めてお会いした奥さまは、体調を崩されていたせいもあり、とても細く儚げに見えました。


 奥さまには不自由をさせないようにと旦那さまは私に言いつけました。

 奥さまがお屋敷に来られた時、奥さまはその身に受けた毒のために、昏々と眠っておいででした。

 屋敷の中でも、一番いい部屋を準備させた旦那さまです。

 その事だけでも、旦那さまが奥さまをとても大事にされている事が伝わってきました。  


 どれほど、奥さまが目を開けるまで、傍についていたいと思われていても、旦那さまの立場がそれを許しません。

 目を開けない奥さまの顔を見つめ、後ろ髪をひかれるようにして、出かけていかれた姿を、ありありと思い描く事が出来ます。


 ようやく奥さまの身体が回復し、起きあがれるようになった頃。

 こちらに慣れない奥さまのために、少しでも気晴らしになればと軽い読み物を用意し、また他愛ない話をしておりました。


 奥さまはとても物静かな方で、大きな声をあげたり声を出して笑ったりはしない方でしたが、毎朝私が準備した摘みたての花に目を留めては、いつもありがとうと微かに微笑んで礼を言われました。

 穏やかな……しかしどこか硬く張りつめた横顔を見るたびに、私は思っていたものです。

 旦那さまとどうかお幸せになって欲しいと。


 奥さまがどれほど、お辛い気持ちを押し殺し、留まっていたのかも知らずに。





 こちらでの役割を終えられた奥さまは、旦那さまとご結婚されました。

 それ自体は喜ばしい事でしたが、私は常に懸念がありました。


 私は奥さまの侍女として、各地の神殿へ同行しました。旦那さまが奥さまに不自由をさせまいと、出来るだけ揺れない馬車を用意させ屈強な警護の者を揃え……様々に気を配ったのを知っています。 

 けれど、奥さまを前にすると旦那さまはいつも、驚くほど酷い事しか言わないのです。

 私や旦那さまのお屋敷に勤める者は、旦那さまがどれほど奥さまのために心を砕いているか知っています。

 旦那さまがうまく気持ちを言えない方であることも。

 けれど、奥さまは知らないのです。

 そのような言葉や態度を続ける限り、奥さまの心が旦那さまに向くはずはないのにと、傍で気を揉んでおりました。何度も旦那さまにご注意申し上げても、改まりませんでした。


 巡回の旅を終え、都に帰還するまで旦那さまの言動は酷いものでした。

 何とかとりなそうしてみても、奥さまは硬い声音で、いいんですと言うばかりでした。

 そこへ知らされた、ご結婚という慶事です。喜ばしいと思う反面、同じくらい不安になる私が居りました。


 奥さまは、本当にこのご結婚を望まれたのでしょうか……と。





 私は引き続き、奥さまの侍女としてお傍にある事になりました。

 奥向きの事を知っていただく前に、奥さまにはこちらの事を覚えていただかなくてはなりません。

 私がお教え出来る事はお伝えし、また家庭教師も呼んでおりました。

 奥さまは学ばれる事を好まれるようで、とても熱心に話を聞いておられました。


 また花もお好きで、屋敷の庭園はそれは見事なのですが、毎日散策しては庭師に花の事を尋ねておいででした。ご自分で料理をされるのも好まれ、奥さま用に準備された調理場で、時折拵えておられました。 何度かご相伴もさせていただきました。

 焼き菓子などもお好きで、作られるたびに屋敷の皆に配られておいででした。


 奥さまの作られるものは皆に好評で、料理人も奥さまの故郷に伝わる料理を、興味深げに聞いていました。

 表に立つことはない奥さまでしたが、屋敷の人間は皆、よい方を迎えられたと思っていたのです。

 けれど、当の旦那さまと奥さまの間は、ご結婚の当初から大きな溝を埋められぬままだったのでしょう。



 旦那様から衣装や装飾品を贈られても、奥さまは少しも嬉しそうではありませんでした。

 旦那さまと一緒に夕食をとる時などに身につけるだけで、普段は仕舞いこまれたままでした。


 思えば初めから……奥さまは、こと“結婚する事”について、嬉しそうではありませんでした。


 旦那さまは旦那さまで、お仕事が忙しいのか屋敷に帰って来る日は少なかったのですが、帰宅した日は夜更けまで奥さまを放しませんでした。


 翌日、起きあがれないほど疲れ果てた様子の奥さまを、何度目にした事でしょう。

 そのたびに自重して下さるようお願いしても、少しも改まりませんでした。

 どうしたらいいのか思案している時でした。執事がためらいがちに問いかけてきたのです。


 陛下主催の舞踏会が開かれるが、これには奥さまもご出席されるのか、と。


 国王陛下主催の舞踏会……そういえばその時期でした。


 大家の奥方は、社交の場に夫とともに出るのが当たり前ですが、奥さまは一度もそういう場に出たことがありません。こちらに慣れていないからというのが、表向きの理由でしかないと、私は思っています。旦那さまはただ、奥さまを人目に晒したくないだけなのです。

 大事な宝物を、ひっそり一人だけで愛でていたいのです。


 社交の場には、旦那さまはいつも、とある女性をお連れになっていました。

 亡きご友人の奥方で、とても美しい方でした。

 しかし、国王陛下主催の場に、奥方でもない女性を伴うことは出来ません。


 夫婦揃って、が当然ですが、今回は旦那さまだけが出られた方がいいのでは。

 そう思って居た時、またもや事態は動いたのです。


 亡き友人の奥方。口さがない世間は、旦那さまの愛人とみなしている女性が、屋敷を訪れました。

 奥さまのお傍に控える私は、奥方と彼女の会話を聞いていました。


 まるで奥さまを挑発するような物言いをする女性に対し、奥さまは酷く淡々と答えられ……最後には、遠からずあなたの望みは叶うでしょうと、うっすら笑いながら言われたのです。


 女性の目がたじろぐのがわかりました。初めからおかしいとは思っていたのです。女性の挑発するような言動も、全くいつもの彼女らしくありません。おそらくは全て、旦那さまが仕組んだことだったのです。


 ご自分では何も伝えられないくせに、奥さまの気持ちが全く自分に向けられてないと焦ったのでしょう。嫉妬でもして欲しいと思ったのかもしれません。けれどそれは。少しでも気持ちが相手にある場合に生まれるもの。


 奥さまの気持ちは、旦那さまにはありませんでした。

 旦那さまのしたことは、逆効果にしかならなかったのです。




 そうして。奥さまはお屋敷を去られました。


 その時にはお子様がお腹に居られましたが、お出かけになった足で、そのまま二度と屋敷に戻っては来られませんでした。

 旦那さまの叔父上からの使いがそれを知らせ、その知らせを受け取った執事は仰天して奥さまの部屋に走ってゆきました。私もあわててその後を追いかけました。


 綺麗に整頓された部屋。私が毎日整えている部屋です。

 けれど、それ以上に主のいない部屋は冷え冷えとして見えました。


 机の上に何通もの書状があるのが目に入りました。

 執事がそのうちの一通を取り上げ、顔をしかめています。

 見えた宛名は、執事へのものでした。


 唸るようにして書状を睨み、執事は一通を抜き出して私に寄こします。

 宛名は、私、となっていました。


 慌てて封をきり、中を読みました。そこにはこれまでの事に対する感謝が綴られていました。私がする色んな地方の話が楽しかったとありました。


 出てゆく理由は書かれておりません。

 ただここで暮らせなくなったとだけ書かれていました。体から力が抜けてしまいそうでした。


 ……何通もある手紙は、庭師や料理人などに宛てたもので、旦那さまに宛てたものは見当たりません。


 私はふと思い立って、衣裳棚や宝石箱を開けてみました。

 予想通り、旦那さまから贈られた品々は、そっくりそのまま残っていたのです。

 私はそれを見て、とてもやるせない気持ちになりました。


 旦那さまの気持ちは、少しも奥さまに届かなかった……旦那さまはなりふり構わず、奥さまに縋るべきだったのです。


 届かなくても、すこしでも近づけるよう何度も何度も言葉にするべきだったのです。

 奥さまは贈られた全てを屋敷に残していかれました。

 旦那さまから贈られたものは何一つ要らないとでもいうように。


 奥さまは私も要らなかったのでしょうか。

 旦那さまに関わる、切り捨ててしまいたい一部だったのでしょうか。


 そう思うと涙が零れてしまいそうでした。


 執事は言います。奥さまは旦那さまの叔父上の家で過ごされたのち、叔父上の領地に行かれるらしい。


 はっと顔をあげて執事を見ました。


 彼は冷静さを取り戻した顔で使いが寄こした書状を読んでいます。


 陛下のご命令で、旦那さまがたの婚姻関係は破棄される。奥さまに至っては、お亡くなりになったことにされるらしい。奥さまの望まれたこと、だそうだ。


 嘘、と言いたいのに、声は出ませんでした。奥さまはいつも、どこか居場所を探すような目をしていました。間違いで迷い込んできた獣のような、不安で心細そうな目を。


 とうとう最後まで、ここをご自分の居る場所とは、思っていただけなかったのでしょう。


 それはとても寂しい事でした。








「そうそう、お手紙が来ておりました」


 奥さまに手紙を渡します。どなたかしらと奥さまは封筒をひっくり返し、目を細めました。

 旦那さまの叔父上からでした。


 奥さまは叔父上の領地の屋敷で、お子様を産み、しばらくそこで過ごされました。叔父上の奥方は、すこし身体が弱い他は、とても朗らかな方で、時折不安定になる奥さまを元気づけて下さいました。生まれたお子様のことも、たいそう可愛がってくれました。


 何故私がそれを知っているかといいますと、その場に居たからでございます。


 奥さまが屋敷を去った後。私は思ったのです。


 私は奥さまの口から、私が不要だと聞いたわけでは、ないのです。それなら、少しでも奥さまが安心できるよう、安らげるようお手伝いがしたい。その一心で、旦那様の叔父上の屋敷に押しかけました。


 運悪く既に奥さまは発たれた後でしたので、馬車を拾って追いかけました。


 領地の館に現れた私を見て、奥さまはとても驚かれました。困ったように叔父上を見ました。その眼は、旦那さまに繋がるものは、傍に置きたくないと言っているようで、やはり……と重く気分が落ち込んでいきました。


 けれど、それは私の早とちりでした。


 奥さまは、あなたが傍に居てくれると、心強いのだけど……でも貴女は、あちらでのお仕事があるでしょう?あの方との関わりも知っています。気持ちは嬉しいです。でもわたしの事情に貴女を巻き込みたくはありません、と。


 それを聞いて、私は一気に気分が高揚しました。

 思わず奥さまの両手を握りしめ、必死に言い募ったのです。


 あちらのお屋敷は辞めてきました。兄弟は別のところで働いておりますし、両親はもう居りません。私の心配なら不要です。


 実際、私が辞めることをまず執事に言ったところ、彼はくれぐれも奥さまをよろしくと言ったのです。そもそも、奥さまの行き先を知らせたのも彼でした。私がどういう行動に出るか、お見通しだったのでしょう。


 でも、と奥さまは眉をひそめています。そこへ、叔父上が穏やかな声で割り込みました。


 貴女の事をよく知っている人に居て貰ったほうが、何かといいんじゃないですか。それに、あちらの屋敷は辞めたんでしょう?それなら、私が正式にこの館の使用人として雇いますよ。


 私は即座に、よろしくお願いしますと旦那様の叔父上に頭を下げました。

 奥さまは唇を引き結んでおられましたが、やがてゆるゆると微笑まれました。


 ありがとう、これからもよろしくね。


 その泣きそうな笑顔を、私は今でもはっきりと覚えています。





 それから数年が経ち。奥さまは館を出られ、お子様との暮らしを始められました。叔父上の館よりは幾分か街に近い場所に、小さな家を借りました。


 叔父上の奥方様は、何度も引きとめましたが奥さまの決意はかたいものでした。長々とお世話になる資格はないと言われるのです。十分よくしていただきました、これ以上は申し訳ないと言う奥さまに、叔父上はそれじゃあこうしようかと提案しました。


 時々顔を見せに来なさい。手紙も書く事。奥さまもこれには頷き、そして奥方様は少し不満そうでしたが、しぶしぶ納得しました。


 そうして。

 小さな家で、奥さまとお子様、そして私の、三人の生活が始まったのです。

もちろん、奥さまから、館から出るつもりですとお聞きしたときに、お尋ねしました。


 どのようにして暮らしていくおつもりでしょうかと。


 奥さまは当然のように答えました。わたしが働くつもりです。こちらでお世話になっている間に色々見聞きして、何がわたしに向いているか考えていました。あの子が小さいうちは家で出来る仕事にして、少し大きくなったら外に働きにいこうと思っています、と。


 そうです、奥さまは儚げに見えて、とても芯のつよい人だったのです。

 そしてなかなか誰かに頼ろうとしません。

 奥さまは続けて言われました。


 だから、貴女とはもうすぐお別れになりますね。あの子が生まれて毎日忙しくて……でも、とても楽しい毎日でした。貴女が居てくれて本当によかった。奥方さまにお聞きしたら、貴女はこのままこの館で働けるそうですし、もし望むなら……あちらの方に話を通す事も出来ると言われていました。


 どうしますか。貴女の望むようにしましょう。


 私は咄嗟に何も言えませんでした。奥さまが屋敷を出られた時とは、状況が違います。数年が経ち、奥さまはこちらにも慣れました。ご自分で言われるとおり、家で出来る仕事……たとえば、仕立てなどは、とても上手に仕上げられます。私がお教えしました。奥さまは庇護されるのではなく、ご自分の足で外に出てゆこうとされているのです。


 私はそれを止めることは出来ませんでした。奥さまの望まれることを、私は止められません。


 私に出来るのは、ただ去る奥さまを見送る事だけなのでしょうか。


 奥さまは、私の望むようにと言われました。私の望み。ここに残るのでもなく、元の屋敷に戻るのではなく。


 私はその願いを口にしました。






「お手紙には何と?」


 カップにお茶をつぎ、奥さまの前に差し出します。

 奥さまはありがとうと礼をいい、カップを受け取りました。

「またそろそろ、こちらに来てはどうかというお誘いでした。あちらの方は皆さまお元気でお変わりないそうです」


 その手紙を私にも見せてくれます。

 近いうちにあちらに行きましょうか、お土産は何がいいかしらと、奥さまはあちらの方々の顔を思い浮かべているのでしょう。


 そうですね、何がよろしいでしょうかと返事をしながら、私は手紙を受け取り、文字に目を落とします。


 流れるような美しい文字と、文面から伝わる穏やかな気遣いと。

 奥さまは、これをずっと叔父上が書かれているものだと思われていますが、本当の所は違いました。

 私は叔父上の筆跡を知っています。この手紙は……実は旦那さまの手によるものでした。




 こちらの家に奥さまが移って来られたのち、時折届く手紙は全て、旦那さまが書かれたものです。

 叔父上は言われました。


 二度と会いたくないと言った彼女の気持ちは勿論尊重します。ですが、自業自得とはいえ、あれは償う事も謝罪する事も、その機会すら与えられない。少しの繋がりぐらいは持たせてやりたいのですよ、と。


 あれとはわからないよう、私を装うように指示しました。

 手紙は私が預かり、内容もすべて把握します。


 どう思いますかと尋ねられ、私は首を横に振りました。


 私としては、奥さまを煩わせたくはありません。けれど、私に判断出来る事ではありません。お館さまがよいと判断されたのなら……私はそれに従うだけでございます、と。


 そう、と頷いた叔父上……お館様に、私は尋ねました。旦那さまはお元気ですか、と。


 奥さまに対する振る舞いや言動に、怒りを覚えていた事は事実です。

 けれど長年お仕えした方であり、また乳兄弟でもある方の事、奥さまに去られてからどのような生活をされておられるのか、気になる所ではありました。


 お館様は困ったように笑いながら、肩を竦めていました。

 おそらく旦那さまは、周りが止めるのも聞かず仕事に没頭しているのでしょう。

 その光景が目に浮かぶようです。




 わかりました、では私は、旦那さまの筆跡で、お館様からお手紙をいただいても、何も気付かないことに致します。





 定期的に手紙は届きます。


 他愛ない日常の暮らしを尋ねたり、体調の変化を尋ねたりするものです。 

 奥さまも同じように、館の皆に変わりがないか尋ねたり、お子様の成長を記したり、日々の他愛ない話をしたためたりしています。


 本当に他愛のないお手紙です。時にお子様も奥さまの手紙の端に、ぎこちない文字を書いたりします。 


 お二人で作られた押し花の栞を同封されたこともありました。


 それらはお館様の手を介し、旦那さまの手に渡ります。


 旦那さまはどう思われているのでしょう。


 手紙でどんなに遣り取りをしても、けして“旦那さま”と言う事は明かせません。それゆえに、どれほどご自分の心の内を伝えたくとも、伝える事は出来ないのですから。





 私は手紙を元通りに仕舞いました。そして文箱へと納めます。


 また遊びに行くの、楽しみだなあとお子さまはお菓子を頬張りながらにこにこ笑っています。


 そうね、楽しみねと奥さまも穏やかに笑っていました。


 お手紙のお返事を書きましょうねと奥さまが言うと、お子さまは大きく首を縦に振っていました。











 私の望みは、奥さまとお子さまについていくことです。


 そう答えると奥さまは困ったような嬉しいような、複雑な表情をしました。


 それじゃあ、一緒に来てくれる、って言うしかないじゃない。お館様の言う通りになったわね。


 首を傾げて聞きますと、奥さまは言いました。


 貴女が、もしわたしと行きたいと望んだら、その通りにさせてあげなさいと言われたの。ねえ、本当にいいの?あまり……というか、殆どお給料も出せないし色々お世話をかけると思うわ。


 なお言い募ろうとした奥さまを遮って、私は答えたのでした。





 はい、それが私の望みですから。








                              END


















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[一言] この世界、さっさと滅んでしまえばいいんじゃないかな。 結局のところ、医者の叔父も付いてきた侍女も、国王と同様に自分等の身内を優先し続ける罪人から変わる気配無し。 手紙の件、その内バレますよ…
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