第54話 りりー、がんばった
「申し訳ありませんが、リリィさん。あなたは父親にはもう会えないでしょう」
「…………え……?」
少女は自らに言い渡された言葉の意味が分からないようでした。
…………分からなくて当り前ですね。少女からすれば、父親はドア一つ隔てただけのすぐ隣の部屋にいるのですから。この部屋が極めて強固な魔術で隔離されている事など知る訳がないのです。
「それに…………もしかしたら、リリィさんの本当の両親もアンヘイムにいるかもしれませんよ?」
言いながら、口の中に苦いものが広がります。
今の言葉は…………流石に酷かったでしょうか。
リリィさんが話してくれた内容によれば、リリィさんにとって家族と呼べる存在はあの人間しかいません。今更本当の両親の存在を提示したところで、リリィさんはそんなものを求めていないし、背負う必要のない悲しみを味わわせるだけなのは分かっています。
けれど────私はラディメリア様のお世話係。
主が地獄へ身を落とすと言うのなら、お供する覚悟はとうに出来ています。エルフの国に居た頃の優しいラディメリア様を知っていれば、今更揺らぐことはありません。
「ほんとーの、りょーしん…………?」
「そうです。リリィさんはハイエルフですよね。アンヘイムには数少ないですが、ハイエルフが生活しています。お父さんやお母さんがいるかもしれませんよ?」
その可能性は低いだろうなと半ば確信しながらも、私は言葉を止めません。今更止まれる訳もない。私たちはもう、何かにぶつかるまで止まれない所まで来ているのです。
「アンヘイムで暮らした方がリリィさんにとってもいいに違いありません。所詮…………人間とエルフは違う種族ですから」
「りりーわかんない…………ぱぱ、ぱぱは…………?」
リリィさんは少しずつ、自らが置かれている状況を理解し始めたのでしょう。綺麗な瞳には涙が滲み始めています。父親を求めてドアに走り出しますが、そのドアは既に役目を放棄していました。手を目いっぱい伸ばして必死にノブを捻っていますが、彼女が父親の元に辿り着くことはありません。
「やだぁ! あけて、あけてよぉ! ぱぱたすけてっ!!」
リリィさんが必死にドアを叩きます。
けれどその音が彼女の父親の耳に届く事はありません。私はリリィさんを止める事すらせず、ただそれを眺めていました。心が痛まない訳ではありませんが、地獄まで着いていくと私は決めたのです。
「諦めて下さい、リリィさん。そのドアは私でも…………恐らくラヴィメリア様でも破れません」
王族であるラヴィメリア様の魔力を幾重にもかけて作られた強固な結界。破れる魔法使いは、果たしてこの世に何人いるのかというレベルでしょう。
それに────
「────お父さんは、もうこの世にはいないかもしれません」
「…………へ…………?」
アンヘイムには人間が殆ど住んでいません。皆無と言っていいレベルです。ラヴィメリア様がアンヘイムで人間と遭遇した事はこれまでありませんでした。
今のラヴィメリア様が、人間を目の前にした時────果たしてどこまでいってしまうのか。私はそれを掴みあぐねていました。
個人的な希望を述べさせて頂けるのなら…………せめて命までは奪ってしまわない事を。
◆
異変は、まず大気に現れました。
「なん、ですか…………これは…………?」
大気に含まれる魔力、それがまるで引っ張られるようにリリィさんに集まっていくのです。
「ぱぱっ…………やだぁ…………」
大気に含まれる魔力というものは目に見えません。極僅かな状況に限り稀に捉える事が出来ますが、基本的には不可能なのです。
けれど…………必死にドアを叩くリリィさんの周りを渦巻いているものは、紛れもなく魔力でした。それも…………物凄い密度。まるで意思を持った生き物のように、どんどん彼女を包みこんでいきます。
「…………っ」
袖口から僅かに覗く肌を見て、私は声をあげてしまいました。
いつの間にか鳥肌が立っているのです。寒気だってします。
彼女が纏っている魔力は既に、生物が扱える量を越えていました。私はそれに圧倒され無意識のうちに恐怖していたのです。
何かが、何かが起きる予感がしました。
「うっ…………ぐずッ…………ぱぱ…………!」
リリィさんがゆっくりとドアから手を放すと────魔法陣が現れました。
リリィさんが出したのかは分かりません。けれど、必死に目元を拭っているリリィさんに魔法陣を出せるとは思えませんでした。リリィさんはまだ子供です。
私はそんな子供から、親を奪おうとしているのです。
「りりー…………いいこにするからッ…………おかしもっ、もういらないから…………」
魔法陣は魔力を吸収して輝きを増していきます。
────それはもう直視出来ないほどでした。
私は手をかざし何とか光の中を確かめようとしましたが、それは叶いません。それどころか、漏れ出る魔力の奔流に押し流されてしまわないように、身を低くして耐えるのに精一杯でした。
光の中から、リリィさんの声だけが私に届きました。
「りりーを…………りりーをおいていかないでッ!!!」
────瞬間。
限りなく膨張し、そしてフッと消え去った魔力の塊に────私は何が起きたのかを悟りました。遅れて聞こえて来た音で、それは確信に変わりました。目が慣れてくれば、そこにはすっかり変容してしまった、部屋『だったもの』がありました。
派手にぶち抜かれた壁からは、隣の部屋、そしてその向こうの外の景色がよく見渡せました。
「…………良かった」
どうしてか、私はそんな言葉を呟いていました。




