描かれた臆病な風景
その日の夜、中村さんは電子ピアノを抱えて部屋に戻ってきた。
どうやら物置部屋に仕舞われていたらしいそれを丁寧に箱から取り出すと、少しよれている楽譜を見ながら指先で鍵盤を押して確かめるような音を出していく。
電子ピアノの音が静かな室内に響き、時折感覚を掴むようにメロディが奏でられる。俺にはそれがなんの曲なのかはわからないけれど、中村さんは「よかった、まだ覚えてる」と言って安心した様子だった。
「ピアノ弾けるの羨ましいな」
「……習ってたんだ。もうやめちゃったけど」
楽器は全くできないから少しでも弾ける中村さんは本当にすごい。中村さんには苦手なことってあるのだろうか。不思議に思って聞いてみると、「そりゃたくさんあるよー」と笑われてしまった。
歴史が苦手らしくていつも赤点にならないように必死らしい。あとはボールを使う球技は得意だけど、持久走は苦手で五月の体育で走ったのは辛かったそうだ。同じクラスでも俺は知らないことばかりだ。
朝が少し弱くて、歩くのが速い。結構食べる方で、特にシナモンロールが好き。そして、目を輝かせながら俺の絵を見てくれる。
まだまだたくさん知りたい。けれど、そう思えば思うほどにもやのかかった記憶にノイズが混ざり、不安を煽る。
もしかしたら俺の失った九月の記憶の中に、中村さんも関係している? 思い出せたのは、絵が破られていたことやコンテストに落ちてしまっていたことだけ。
それ以外にも忘れたかった記憶が存在しているはずだ。
「ピアノもね、少し苦手になってたの」
「え、そうなの?」
「……本当はずっと好きだったのに、才能ないって言われてから弾くのが怖くなったんだ」
中村さんの表情が陰る。それは初めて知る彼女の中の暗い部分かもしれない。
中学でバスケ部をしながら続けていた中村さんをピアノの先生は指を怪我したらどうするのだと怒ったそうだ。それでも中村さんはピアノもバスケもやりたくて、どちらも続けていた。そんな彼女を先生はよく思っていなかったらしい。
「欲張りすぎてたんだと思う。だから高校では部活に入らずにピアノに専念するつもりだったんだ」
プロを目指していたわけではないけれど、コンクールに出て賞をとってみたい。結果を残したいと希望を抱いていたそうだ。
「でもね……〝ずっとやる気を感じなかったのよ。もう辞めたほうがいいんじゃない?才能ないわよ〟ってはっきり言われちゃったの」
無理して笑う中村さんに心が押しつぶされそうなくらい苦しくなる。好きなことをしているはずなのに、結果が残せない苦しみは俺にもわかる。それに周りからの言葉を気にして傷ついてしまう気持ちも。
もうピアノを弾きたくない。ピアノから離れれば、こんなに苦しい想いをしなくて済む。そう思って中村さんは去年の年末にピアノを辞めたそうだ。
些細な言葉で彼女を傷つけてしまいそうで、言葉が喉元で詰まってしまう。ピアノが苦手になったと言っていたのに今弾こうと思ってくれたのはどうしてだろう。
「よっし! 行くよ」
ある程度感覚を取り戻したのか、俺に向き合った中村さんが唇で弧を描くように綺麗に微笑みを浮かべる。
鍵盤にそっと触れて、奏でられる音は流れるようにリズムを作り、音が曲へと姿を変えていく。
それは普段音楽を聴かない俺でも馴染みのある曲だった。目を伏せて、楽しげに弾いている中村さんに見惚れながらも懐かしい曲に聴き入る。
優しく包み込むように暖かな旋律にあの日の放課後が頭を過る。
【木漏れ日】。一年生のときの合唱祭の課題曲だ。放課後に俺がこの曲を鼻歌で歌っていたところを中村さんに聞かれてしまった。
そして、その日から俺は彼女のことが気になりだして、気づけば目で追うようになっていた。俺にとっては思い出の曲。
ピアノを弾きながら中村さんが時折口ずさむ。すっと空気に溶け込むような繊細で透明感のある声だった。
ピアノが弾けて、歌も上手い。やっぱり中村さんはすごいや。自分では気づいていないすごい部分をたくさん持っている。
きっと君はまたそんなことないと笑うのだろうけど、誰にだってできることではない。なにかができるというのは、それだけで長所なんだ。
「一年ぶりだと、ちょっと鈍ってるね」
「やっぱりすごいね。上手い」
素直な感想を伝えると中村さんは結構まちがえちゃったよ。なんて言って照れくさそうに笑った。
「染谷くんはこの曲好きなのかなって思ったんだ」
「え?」
「放課後に会ったときに歌ってたでしょ? それで好きなのかなって」
確かにこの曲調が気に入っていた。でも、今はそれだけではない。あの日の出来事があるからこそ、好きな曲になったんだ。
中村さんは覚えていないかと思っていた。鼻歌を聴かれた日のことなんて些細なことで、彼女の日常の中ではすぐに霞んでしまうような出来事だろうと勝手に決め付けていた。
視線は電子ピアノに向けて、ぽつりと呟く。
「好きだよ。中村さんの……ピアノも、この曲も……」
情けないくらい勇気のない俺には告白なんてできなかった。
今がチャンスなのかもしれないなんて淡い考えがよぎったけれど、こんな身体だし、危惧していることがある。
どちらの結果にせよ、俺が考えた通りのことが起きてしまったら中村さんにとってはただの迷惑としか残らないかもしれない。
わかってる。……わかっているけれど、やっぱり彼女を前にすると好きだと何度も自覚する。情けないくらいに何度も好きになって、言えない気持ちを募らせていく。
「よかった」
その一言で、何故中村さんがこの曲を急に弾いてくれたのかわかった気がした。
彼女は彼女なりに俺のことを元気づけようとしてくれているんだ。ラムネも曲も、家に行って俺が傷ついたのではないかと思い出したくないことを思い出してしまったんじゃないかってきっと気にしているんだろう。
「ピアノ苦手になったけど、染谷くんのおかげで今日また好きになれたよ」
「え……」
「染谷くんがいてくれてよかった」
やっぱり俺はどうしようもないくらい彼女が好きだ。
真っ直ぐなところや笑顔にいつも救われている。幽霊になったときは災難だと思ったけれど、よかったこともあった。
こうして中村さんの近くにいることができて、話をたくさんできた。前までの俺は意気地なしで話しかけることもできなかったから、こうして奇妙な関係でも一緒に居られることは嬉しい。
「俺のためにピアノを弾いてくれてありがとう」
今の俺にできることはこのくらいで、唯一彼女に届くのは言葉だけ。それでも中村さんは嬉しそうに頬を紅潮させて笑ってくれた。
中村さんが笑ってくれるだけで、俺の世界が少しだけあのラムネ瓶の中のようにキラキラと光って見える気がした。
***
窓際に飾られたラムネ瓶をふたつ眺めながら、ベランダで夜を過ごす。闇色に染まった液体に月明かりが差し込んで、まるで夜の海のように見える。手を伸ばそうとしても、すり抜けていく。決して触れられない。
この姿のままでは俺は自分以外には触れることができないままだ。
時計がないので今何時かはわからないけれど、カーテンの向こう側には中村さんが眠っている。触れられないとはいえ、勝手に部屋に入るのは良くないと思うから、中村さんが起きるまで部屋の中には入らないことにしている。
あれ、でも入ったことがあったような。……いや、そんなはずはない。彼女が起きてカーテンを開けるまでここで待っている。そうだ。一度だけあった。ここに置いてもらうことになった翌日に中村さんが寝坊しそうで心配だったから、悪いと思いながらも起こしに行ったんだ。
「だめだ。……まただ」
ため息を漏らし、夜空に浮かぶ月を見上げる。
今日は三日月だ。触れたら折れてしまいそうなくらい細くなっていて、不思議の国のアリスのチェシャ猫の口を思い出してしまう。
家では一切読んだことはなかったけれど、小学校の頃に道徳の授業が紙芝居のときがあり、その中の一つの物語だったので覚えている。
あのときは、夢が広がる物語に驚いた。思えば、俺の家には絵本や漫画といった類のものはなかったから、衝撃的だったのかもしれない。
月の位置から考えて、まだ朝は当分先だ。
この身体の俺には睡眠は必要なく、疲れもない。寒さも暑さも感じないので、どこで何時間過ごしていても平気だ。
中村さんと一緒にいるときは基本的に歩いているようにしていることが多いけれど、水中のクラゲのようにふわふわと浮いて宙を漂うこともできる。空だって飛べる。まるで空想上の世界みたいだ。
いつもならここでただじっと朝を待つけれど、少し気になることがあり、俺はベランダを飛び越えてある場所へと向かうことにした。
街灯に照らされた夜道。液晶画面を食い入るように見ながら歩いている仕事帰りの女性や、自転車に乗りながら大きな声で歌っているおじさん。
遠くの空を見つめれば人工的な光を放った街の電飾やら看板が見える。空が夜に着替えても世界から色と光は消えない。
家でひたすら勉強を強いられてきた俺の視野は人よりもずっと狭かった。絵に夢中になった後だって、それ以外のことには目を向けないままで視野は広がっていない。
夜の姿をこうして幽霊になって知っていくなんて妙な感じだ。
少しして目的地へとたどり着いた。中村さんの家とそこまで離れていなくてよかった。見慣れた自分の家のリビングの窓をすり抜けると、中には大人がふたりいた。
窶れたように見える母さんと、遅い晩御飯を食べている父さんだった。父さんの顔を久々に見たような気がするけれど、実際そこまで数日しか経っていない。
銀縁のメガネの奥の切れ長の目はいつみても鋭くて、眉間には皺がくっきりと刻まれている。
自分の父さんを一言で表すのなら、厳格が一番しっくりするだろう。
それに笑いかけられた記憶もない。ひょっとしたら幼いころにはあったのかもしれないけれど、今では思い出せないほどこの人が笑ったところを見たことがないのだ。
「退部届の件だけど、今日担任の先生がいらして一度白紙にしていただいたわ」
母さんが父さんの目の前の席に座り、麦茶らしき液体が入ったグラスを置いた。
「……そうか」
「怒らないの? 退部させたかったのでしょう?」
珍しく返答が弱々しい父さんを不審に思ったのか、母さんが眉根を寄せてテーブルに身体を預けるように身を僅かに乗り出す。
「啓志と亜希菜にすごい剣幕で叱られた。子どもの人生を勝手に決めるなって」
「啓志さんと亜希菜さんに?」
出てきた名前に俺も驚いた。ふたりは父さんの弟と妹で俺にとっては叔父と叔母だ。
住んでいる場所は近いものの最近ではあまり会わなくなってきていたが、さすがに俺の件を耳にして父さんに接触を図ったのかもしれない。
ふたりは父さんの考えとは全く違っていて、俺らを見るたびに子どもには自由に将来を決めさせるべきだと言っている。
「澪が退部届のことを話したみたいだ」
「……そう」
相内澪。叔母の娘であり、俺との関係は従妹だ。澪は昔から叔父に懐いていたから、今回のことも報告したのだろう。
俺のためなのかというと微妙なところだ。
同じ高校だけど、俺よりも歳が一緒の和人の方に懐いていて、今日も和人を追いかけて家まで来ていた。
澪は遊びに誘って和人がダメなら仕方なく「壮ちゃんでいいや」といった感じで普段から和人の代わりとして接してくる。俺も特に用事がなければ付き合う。俺たちはそんな関係だった。
「そんなにアイツを追い詰めていたのか。俺はきちんと道を決めてやるのが一番いいと思っていたんだけどな」
こんなにも弱気の父さんを見るのは初めてで、それは母さんもなのか面食らったような表情で父さんを見つめている。
「今日担任の先生と一緒にクラスメイトの子も来たのよ。そしたらね、壮吾の将来を決めるのは壮吾自身だって。壮吾からから絵を奪わないでくださいって泣きそうになりながら言っていたの」
母さんが言っているのは中村さんのことだ。
幽霊になってからよく話すようになった俺のことをあんなにも必死になって話してくれた彼女の姿に、あのとき少し泣きそうになってしまった。
「……私、それを聞いてからずっと考えていたの。あの子の絵を何度も何度も見返して、あの子がなにを見て、なにを思って描いていたのか」
俺のクロッキー帳をテーブルに広げて、父さんに見せていく。おそらくは初めて見たであろう俺の絵を父さんはただ黙って眺めていた。
その光景が恥ずかしくて、自分の絵を見てダメだと烙印を押されてしまったらと思うと逃げ出してしまいたいくらい怖かったけれど、今の俺が止めようと叫んだところでどちらにも声は届かない。
「気づかない? あの子の絵、風景ばかりで人がいないの」
「……どういうことだ?」
どくりと、幽霊であるはずの俺の心臓が震えた気がした。それは大きな動揺だった。母さんがなにに気づいてしまったのか、描き手の俺にはわかってしまう。
そうだよ、俺はずっと避けていた。
自分自身が作り出す世界は現実に似た理想の世界で、そこには風景しかない。
「描きたくなかったんじゃないかしら」
父さんならこの一言で察したはずだ。
「……そうさせてしまったのはきっと私たちね」
俺は人がいない世界を求めていた。抑圧する人も、傍観する人も、軽蔑してくる人も、嫉妬を向けてくる人もいない。
誰もいない世界。だからこそ風景ばかり描いていた。
「でもね、こんなにあるクロッキー帳の中で一ページだけ違っていたの。ほら、見て」
開かれたのはあの場で彼女に見せたことを恨んだあの絵だった。鉛筆で描かれているのは教室で微笑む女子生徒。眩しかったその一瞬を、どうしても切り取って残しておきたいと思った唯一の存在。
あまりよく知らないクラスメイトのはずなのに、どうしても今描かなければ後悔する。そんな気がして、許可なくこっそりと彼女が教室から去ったあとに描いてしまった。
これを見たとき、きっと中村さんは相当驚いただろう。彼女は優しいから口には出さないだろうけど、引かれてしまったかもしれない。
「この子が今日来てくれたクラスの子なの」
「……壮吾の彼女なのか」
「違うみたい。でも話していて、壮吾のことをきちんと見てくれている子だって思ったの。だから、壮吾も惹かれたのかもしれないわね」
父さんは意味をわかっていないようで眉根を寄せていたけれど、母さんには絵でバレてしまっているみたいだった。
恥ずかしいくらいわかりやすい感情が浮き彫りになっている絵は、豊丘先生の言った通りだ。本人は伝わらなかったようなので、ホッとしたような複雑な気分だけど、今後のことを考えたらバレない方がきっといいはずだ。
「……壮吾を医者にすること、きっとあなたはまだ諦められないでしょうけど、絵を続けていくことくらいは認めてあげて。捨てろなんて言わないで」
ぽたりと温度のない雫が頬を伝って、宙に消えていく。身体と一緒で涙も自分自身以外には触れられないらしい。
言い表せられない熱い感情が胸の中に弾けて、広がってじわりと溶けていく。
「あの子が目を覚ましたら、きちんと話をしましょう」
父さんはなにも言わなかった。けれど、反対もしなかった。つまりは父さんにとってそれは肯定だ。
盗み聞きしたみたいでずるい気もしたけれど、初めて母さんが俺のことと向き合ってくれているのを見ることができた。
頬に残る涙を拭って、窓からすり抜けて外に出る。
夜風が吹いているみたいで葉がゆれているけれど、俺にはそれが感じられない。
九月の記憶は取り戻しつつあるけれど、まだいくつか虫食いのように失ってしまっている記憶が残っている。
それに事件の日の美術室のあとの出来事が思い出せないので、落ちた瞬間のこともわからない。
すべてを取り戻したら、俺はどうなってしまうのだろう。




