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クロッキー帳に描かれた想い出

 


 染谷くんに一年生で親しい子がいるか聞いて探しに行こうかと思っていたけれど、予想外の展開に予定が狂ってしまった。


 放課後の職員室は部活動で席を外している先生も多いみたいで人があまりいない。

 滅多に入ることのできない職員室という空間は私の背筋を少し伸ばさせる。


 教室と同じ床に同じ壁や天井。同じ時計。

 けれど、ここは大人だけが許された空間で、高校生の私たちには居心地の悪い場所だ。きっと職員室に呼び出されるということ自体があまりいい印象を与えるものではないからかもしれない。



 担任の豊丘先生に呼び出されたときには、宇野ちゃんと花音にはなにをやらかしたんだと哀れみの目を向けられたし、私も心当たりといえば昨日博田先生に向かってやめてと叫んでしまったことくらいだ。

 もやもやとした感情を抱えながら叱られる覚悟でこの部屋に足を踏み入れた。けれど、豊丘先生から言われたのは予想外の一言だった。



「ねえ、先生。それって私も行っていいものなの?」

「お前がどうしても嫌なら俺一人で行くけど」


 キャスター付きの灰色の椅子に座った豊丘先生は珍しくくたびれたジャージではなくスーツ姿だった。おそらくは放課後のためだろう。

 ある事情を抱えた私には一人で決断はしかねるので、私にだけ視えている近くに立っている彼に視線を向けてこっそりと確認をしてみる。


 彼は「俺は構わないよ」と微笑んでくれた。それならばと、先生の方へと向き直り「行きます」と返事をする。


「わかった。あと十分くらいでここでるからな」

「はーい。じゃあ、私廊下で待っていていい? ここ落ち着かなくって」

「なんだそりゃ。ま、いいけど。準備終わったらすぐ行く」


 職員室の空気は私にとっては鉛のように重たい。息苦しくてたまらない。廊下に出るとようやく妙な緊張で強張っていた肩の力が抜けていく。


 変な感じだ。豊丘先生と一緒に学校を出て、染谷くんの家に行くなんて。

 呼び出した豊丘先生から言われたのは、「今日染谷の家に会いに行こうと思っているんだけど、お前も一緒に行かないか」という誘いだった。


 私を誘ってきたことには少し驚いたけれど、もしかしたらこれも染谷くんの九月の記憶を取り戻すきっかけの一つになるかもしれない。



「あら、中村さん」


 声がした方に振り返ると、博田先生が立っていた。会うのは昨日やめてと叫んでから初めてだったので、少しだけ気まずい。

 立ち止まって私のことを見据えている博田先生はなにか言いたげに唇を動かしたので、身構える。言われるとしたら、昨日のことしか思い浮かばない。



「昨日はごめんなさいね」

「へ?」


 まさか謝られるなんて思っていなかったから、力の抜けた間抜けな声が漏れてしまった。


「嫌な思いをさせてしまったわね」


 膨らんだ風船が萎んでいくような脱力感を覚え、ただ呆然と立ち尽くす。


「昔、私が受け持っていたクラスでは入院した子がいたらみんなで千羽鶴を折っていたのよ。だから、そうするのがいいって決めつけていたわ。事務的な業務と違ってマニュアルなんてないのにね。押し付けて、クラスの空気を悪くしてしまってごめんなさい」

「でも……先生は染谷くんのことを想って提案してくれたことだったんですよね」


 私は博田先生のことを面倒な先生だと思っていた。スイッチが入ると熱くなって青春ドラマみたいで、どこか冷めた目で一歩下がって見ている自分がいたんだ。


 その熱を恥ずかしいと思って、混ざる勇気もなくて、それでも眺めてしまっていた。



「確かに強引だったと思います。でも、先生。私たちは染谷くんのことどうでもいいなんて思っていません」


 博田先生に悪気があったわけではない。けれど、私たちにとっては博田先生の提案は違っていた。

 大人になったら嫌でも「はい」って言わなくちゃいけないことが増えるだろうし、理不尽も受け入れないといけないんだってお母さんがパート先の愚痴をこぼしながら言っていたのを覚えている。


 それなら、今の内だけ許される嫌なものは嫌って素直に言える我儘をしてしまおう。


「千羽鶴はやっぱり私たちにとっては違うと思いますけど、私は私にできることをしようって思っています」

「そう。それなら私は中村さんのすることを応援するわ。私にできることがあれば言ってね」


 昨夜窓辺に飾ったノートの切れ端で作った鶴を染谷くんは嬉しそうに眺めていた。

 一羽だけで十分だって言っていた。だからもう、鶴は増やさない。



「博田先生、ありがとうございます」


 博田先生が微笑んで頷いた直後、職員室のドアが開かれて豊丘先生が出てきた。

 染谷くんの家に行くことを知っているようで博田先生は「いってらっしゃい」と私たちを見送ってくれた。


 私の横を歩いている染谷くんが他の人に声は聞こえないのにこっそりと耳打ちしてくる。



「博田先生っていい先生だよね。ちょっとやり方は無茶苦茶なときあるけどさ」


 先を歩く豊丘先生にばれないように無言で頷く。

 熱くなる頬を手の甲で冷やしながら、眩しそうに窓の外の青空を眺めている染谷くんを横目で見やる。


 言動一つひとつにどれほど私の心を揺さぶる力があるのかを染谷くんは知らないんだ。



「ねえ、豊丘先生」


 緩慢な動きで豊丘先生が振り返る。藍色のスーツ姿は見慣れてなくて、別人みたい。

 真っ白なワイシャツもきちんとしめられたネクタイも、普段の豊丘先生を知っていると似合わなくって笑ってしまいそうになる。



「どうして私を連れて行ってくれるの」

「クラスの代表なら、お前が適任だろ」


 代表なんて柄じゃないのにな。少し照れくさくて苦笑して誤魔化すと、豊丘先生は前を向いて再び歩き出す。


「それにさ、お前染谷のこと探ってるだろ」

「え、探ってる?」


 そんなことをしていた覚えはないので戸惑いながらも、豊丘先生の隣に駆け寄ると細められた目が私を捕らえる。


「昨日、三年の板橋が美術部顧問の日代先生に染谷の絵のことや嫌がらせをしていたことを正直に話したらしい。で、担任の俺に報告が来た。日代先生がなんで急に話す気になったのか板橋に聞いたら、染谷のクラスメイトの女子に全て知られて叱られて、このまま黙っているのはダメだと思って話に来たらしい」


 そっか。あの後、板橋先輩は本当のことを先生に話に行ったんだ。

 それで許されるわけでも、なかったことにできるわけでもないけれど、これからは染谷くんにとって居心地の悪い環境が消えるといいな。



「その女子ってお前だろ」

「なんでそんなことわかるの」

「そんくらいわかる」


 勝ち誇ったように片方の口角をつり上げて話す豊丘先生。

 やっぱり変な人だ。あまり先生らしくはなくて生徒のこと見ていなさそうだけど、実はちゃんと見てくれていて、心配だってしてくれている。


「豊丘先生って先生なんだね」

「お前なぁ。俺のこと馬鹿にしてんだろ」

「してないよ。そんけーしてる」

「薄っぺらいこと言われても嬉しくねぇよ」


 呆れる豊丘先生の隣を笑いながら私が歩く。

 他の人にはそう見えているだろうけれど、私にはもう一人楽しげに微笑んでいる彼が視えている。


「案外優しい先生なんだよね。豊丘先生って。口は悪いけど」


 同感。と私は染谷くんの言葉に頷く。

 気だるげでやる気のない先生に見えるけど、優しくて面倒見のいい先生。だから、豊丘先生は生徒から好かれている。


 悩み事を話せば、きちんと最後まで聞いてくれる。

 きっと染谷くんの幽霊の件を話したら、聞いてくれるんだろうな。信じてくれるかはわからないけれど。



 それでも私は話せなかった。多分、話したくなかった。これだけは私と彼だけの秘密。誰にも分かち合うことをしない夢みたいな現実。




 昇降口で一旦別れて、靴を履き替える。

 校門のところで再び落ち合うと、日差しをたっぷりと浴びている豊丘先生は青白くて不健康そうな外見には太陽の下は不釣り合いだった。いつもはもっさりとした髪も今日はきちんと整えられている。



「ねえねえ」


 下校中の生徒が大分減った通学路を三人で並んで歩く。

 今日の日差しは少し強くて、肌をじりじりと刺激する。念入りに日焼け止めを塗っておいてよかった。


 上空の青から視線を外し、足元を眺めると灰色のアスファルトに揺らめく影はふたつ。何度数えても変わることはない。


「豊丘先生にも青春ってあった?」

「そりゃあるだろ」

「うそ、意外。想像できない!」


 先生という大人の子どもの頃の青春はどんなものだったんだろう。眩しかったかな。水面に光が注がれたみたいにキラキラとしていたのかな。

 思い出せば笑顔になってしまうくらい楽しくて賑やかな日々だったのかな。


「想像しなくていいんだよ。んな、恥ずかしいこと」

「えー、なんで恥ずかしいの」

「青春なんて恥ずかしいもんだっつーの」

「先生、モテた?」


 豊丘先生って正装していたらかっこいいし、人気出そうだから学生の頃はモテていそうだ。そんなことを考えていると、苦々しい表情でため息を吐かれる。


「お前なぁ、んなこと聞いたって楽しくないだろ」

「いいじゃん。普段聞く機会ないし」


 諦めたのか、豊丘先生が頭をがしがしと掻いて「俺は男子校だったからなー」と話しながら眉を寄せる。


「恋愛がらみで浮ついたのはあんまなかった」

「そういうもんなんだ」

「まあ、でも男子校だからこそ楽しいこともあったけどな。毎日のように馬鹿やって笑ってた」


 その頃のことを思い出しているのか、顔をくしゃっとさせて笑う豊丘先生は子どものように無邪気に見える。


「いつかお前も思い出すときがくる。学生のとき楽しかったとか、いろいろとな。だから、今を大事にしろよ」

「先生っぽい」

「先生だからな」


 冷たい秋風が吹き抜ける。日差しで火照った身体を冷ましてくれるように、風はゆっくりと私の身体を通過していった。


「形はどうあれ、誰かにとっては馬鹿ばかしいことに一生懸命になるのが青春だろ」

「私もそうなれるかな」


 馬鹿ばかしくても、恥ずかしくても一生懸命になれること見つかるかな。


「俺からしてみれば、お前もクラスの奴らも青春真っ只中だけどな」

「そうなの?」

「そういうのは過ぎてからじゃないと、気づかないもんなのかもな」


 何年後か、それとももっと大人になってからこの頃を思い返して、青春だったって私は思うのかな。

 少女漫画とかを読んでいると青春って甘酸っぱいってイメージだけど、私の青春は味に例えたらどんな味だろう。


 甘い。苦い。からい。しょっぱい。できるなら、ラムネみたいに甘くてしゅわしゅわしていたらいいなぁ。


 夢を見つけて夢中になれる青春にも憧れるけれど、恋をして心がぱちぱちと跳ねて、甘さが広がるようなそんな青春にも憧れる。


 隣を見れば、透明人間になってしまった好きな人がいる。

 彼の姿を見ると、炭酸みたいに心がぱちぱちと刺激されていく。でも、触れることは叶わなくて、この状態では想いを伝えることもできなくて、甘さからは遠い。


 好きって言ったら、彼はどんな顔をするのかな。驚くかな。困るかな。優しいから、ありがとうって言ってくれるかな。


 多分私は振られちゃう。あの夏の日に始まった一方的な片想いは、まだスタートラインで右往左往しているのだから、上手くいく見込みなんてなくて当然だ。



 彼が元の身体に戻れたら、私は勇気を出してあの席に声をかけに行く。

 どれだけ頑張っても、振られてしまう可能性の方が高いかもしれないけれど、芽生えたこの恋心を私はなにもせずに消してしまいたくなんてない。


 ふと染谷くんと視線が交わる。



 好き。

 好きです。

 好きだよ、染谷くん。


 心の中で何度も言いながら、向けられる優しげな眼差しに溺れていく。

 君は私の想いに気づかない。今はそれでいいはずなのに、もどかしくて伸ばしかける手を咄嗟に引っ込める。


 しゅわしゅわ、ぶくぶく。

 心が弾けて、暴れているみたいだった。


 知らなかった。

 恋って、ときどき苦しいんだね。



 染谷くんの家は学校から歩いて二十分くらいの場所にあった。閑静な高級住宅街の中の一軒。白を基調としたシンプルでスタイリッシュな佇まいの家は目を見張るものだった。

 同世代の男の子と比べてみると大人びている雰囲気があるけれど、育ちの良さから滲み出ていた落ち着きだったのだろうか。


 この家に染谷くんのご両親がいると思うと緊張して、目の前のインターフォンをなかなか押すことができない。

 すると隣にいた豊丘先生が躊躇なくボタンを押して、訪問を報せる電子音が鳴った。

 私一人だったら緊張してなかなか押せなかっただろうな。こういうとき豊丘先生がいてくれてよかったと思う。



「はい」


 少ししてインターフォンから女性の声が聞こえた。

 豊丘先生は事前に連絡していたようで、「壮吾さんの担任の豊丘です」と告げるとすぐに家の中から人が出てきた。


 真っ黒な髪をサイドで束ねていて、少しやつれているように見える女性は私たちに軽く頭を下げて挨拶をしてくれた。どうやらこの人が染谷くんのお母さんのようだ。


 家の中へと案内されて、促されるまま高そうな黒革のソファに腰を下ろした。失礼だけれど、家の中はアットホームな雰囲気はなく、あまり生活感のない無機質なリビングに思えた。



 人が集まるはずのリビングに最低限の物しか置かれていなくて、私の家のごちゃごちゃとした雰囲気とは全く違うからかもしれない。


 ガラステーブルにお茶が置かれて、お礼を言うと染谷くんのお母さんに「貴方は壮吾の彼女よね?」と控えめに聞かれて、あまりの驚きに目を剥いた。異性がこうして訪ねてきたからそう思われたのかな。



「ち、違います。クラスメイトです」

「えっ。そうなの? ……てっきり」


 言葉尻をぼかしながらなにかを考えている様子の染谷くんのお母さんに、近くにいた染谷くんは頭を抱えていた。

 私と付き合っていると思われたことがそんなに嫌だったのかと、結構ショックを受けてしまい言葉が出てこない。


 やっぱりこの恋の結末は苦いものかもしれない。

 空気を切り替えるように豊丘先生が咳払いをしたあと、一枚の紙を鞄から取り出した。



「今日お邪魔したのは、この件です」


 ガラステーブルに置かれたその用紙には退部届と書かれており、染谷くんの名前が記載されている。けれど、その字は達筆であまり子どもらしくない筆跡だった。


「誰がこれを……」


 染谷くんのお母さんはきょとんとした表情で小首を傾げた後、退部届に書かれている名前を見て表情を変えた。


「一年の相内から渡されました。壮吾くんのお父様から頼まれたと言っていたそうです」

「……そうですか」


 どうしてこんなものが提出されているんだろう。染谷くんを見ると彼も驚いている様子だったので、彼の意思ではなく勝手にしたということだ。

 そんなのってあんまりだ。どうして部活動にお父さんが口を出すのだろう。


「この状況で退部届を受理できません」

「……ですが、主人は美術部はやめさせるべきだと判断して提出したのだと思いますので」

「そこに彼の意思はありません」


 豊丘先生はいつになく厳しい物言いだった。

 染谷くんの意識がないのに勝手に退部届を出すなんてしていいことではない。どうして本人ではなく、別の人が決めるんだ。部活は自分で選んでするものなのに。



「息子は……壮吾は絵なんてやめるべきなんです。兄も弟もちゃんと医者を目指しているのにあの子だけ、絵を描き続けて無駄な時間を費やしているだけなんです」

「彼が絵を描くことが無駄だと言うんですか」

「だって、そうじゃないですか。将来のためにならないことなのに、続けていてなんの意味があるんですか。医者を目指して勉強している時間の方が大事です」



 まただ。お腹の辺りがじわじわと熱くなってきた。苛立ちや怒りが渦を巻いて、私の手のひらを震わせている。


 どうして否定するの。どうして無駄なんて言うの。

 彼は家でこんな風に言われていたの? 大事な絵のことを無駄だと、意味がないと言われ続けていたの?


 今更になって思い出してしまった。彼が家にはあまり帰りたくなさそうで、だから私のところにいるんだ。



 無神経に考えなしに一緒に連れてきちゃってごめんね、染谷くん。

 彼の表情に影が落ちていくのを感じながら、歯を食いしばって前を向いた。


 お節介でも、部外者でも、ありがた迷惑でも、私はこのままになんてしたくない。



「染谷くんを産んでくれたのはお母さんです。染谷くんを育ててくれたのはご両親や傍にいた人たちです。けど、染谷くんの将来は染谷くん自身のものです。他の誰かが決めて良いものではないと思います」


 顔を上げた染谷くんのお母さんの目をまっすぐに見つめる。

 目の下には隈ができていて、疲れているのが見て取れる。絵を否定していたけれど、心配していることには変わりないはず。


 どうか彼の想いをわかってほしい。彼の大事なものを頭ごなしに意味がないなんて言わないであげてほしい。



「好きなものを否定したり、意味がないなんて言わないでください。だって、染谷くんあんなに夢中になれるものを見つけているのに。それはすごいことで、誰にでも夢中になれることを見つけられるわけじゃないです。彼の絵は人に影響を与えるくらいの力があるんです。無駄な時間なんかじゃありません」


 少なくても私は彼の絵に心を動かされて、気づいたら彼の絵を好きになっていた。

 ピアノを辞めて空虚になっていた私の心を癒してくれたのは、染谷くんが描く絵の世界だった。人に感動を与える絵を描けるのはすごいことなのに、それを無駄だなんて言わないで。


『黒く汚れない。色褪せない。好きなものを閉じ込めたラムネ瓶の中で幸せに浸れる』


 美術室での染谷くんの言葉が頭に過る。

 ラムネ瓶の中の世界は、染谷くんにとって現実逃避だったのかもしれない。


 教室でも部活でも家でも窮屈な想いをしている彼にとって、好きなことに夢中になれている時間が幸せを感じられたのかもしれない。



「私が……もしも私が自分の親にそんな風に言われたら、悲しいです。すっごくショックで、好きなものを堂々と好きって言えなくなっちゃいます」


 私は一方的な片想いで、彼の抱えている問題をなにも知らなかった。部活で嫌がらせを受けていたこと。絵を破かれてしまったこと。コンテストで結果がでなくて苦しんでいたこと。


 家でのことも。そして――――怪我の理由も。



 知らないことばかりだった。

 それでも私には、何故か私にだけは染谷くんの幽霊が視えている。



 どうして私だったんだろう。それでも、もしかしたら染谷くんにとっては嬉しくないことかもしれないけど、私にとっては視えているのが自分でよかったと思う。


 無力で無知で無関係だった私だけど、もうなにも知らなかった私じゃない。力にならせて。傍にいさせて。彼の大事なものを守らせて。


 私は染谷くんの大事なものを一つだけ知っている。



「彼から絵を奪わないでください」


 鼻の奥がつんと痛くて、視界が歪む。

 染谷くんはこんな私を見て困ってしまうかな。視えるだけの部外者がなに熱くなってるんだって思っちゃうかな。怖くて彼の顔を確認できないや。



「生意気なこと言ってすみません」


 鬱陶しいって思われちゃっても、彼の大事なものさえ守れるならいい。


「……いいえ、私もあの子の気持ちを考えずに言ってしまったから」


 染谷くんのお母さんのスカートにシミがぽつぽつとできていく。俯いていて見えないけれど、涙を流しているみたいだった。


 私のお節介は少しでも役に立てたかな。染谷くんの大事なものを守ることできたかな。

 手で涙を拭った染谷くんのお母さんが顔を上げると、退部届を四つ折りにして近くにあったゴミ箱に捨てた。



「退部届の件は、取り下げます。主人にもきちんと私から白紙にしてもらうと伝えておきますので」


 ほっと胸を撫で下ろし、おそるおそる染谷くんが立っている方向に視線だけ向けると彼は今にも泣き出しそうな表情で微笑んでくれた。

 余計なことをするなと怒っているわけでも、困らせてしまったわけでもないようだったのでよかった。


「少しだけ、待っていてもらってもいいかしら」


 染谷くんのお母さんが席を立ってしまい、残された私と先生の間に無言が流れる。

 なにも言わずにポケットティッシュを差し出されて、遠慮なくそれで涙を拭き、鼻をかんだ。豊丘先生がティッシュを持ち歩いているなんて少し意外だ。


 どうやら二階へ行っていたらしく、階段を降りる音が聞こえてティッシュのゴミを慌ててブレザーの中に突っ込んで背筋を伸ばす。



 戻ってきた染谷くんのお母さんが持っていたのは一冊のオレンジ色のクロッキー帳だった。

 ぱらぱらと捲り、差し出されたのはある絵が描かれているページだった。



「これ、貴方よね?」

「え……」


 どくんと心臓が大きく脈打つ。くすぐったくて熱い感情が全身に浸透していき、詳しい理由もわからないのに喜んでしまいそうになる。



「どのクロッキー帳を見ても風景しか描いていないのに、唯一人の絵を描いていたから、てっきり貴方が彼女なんだと思ったの」


 教室で廊下側を背にして立っている女子生徒。鉛筆で描かれたモノクロの世界でその女子生徒は笑っていて、幸せそうだった。


 確かに私にそっくりだけど、どうして染谷くんが私の絵を?

 不思議に思って、横目で彼を確認すると慌てた様子で目を逸らされてしまい「勝手に描いてごめん」と謝られてしまった。やっぱりこの絵は私みたいだ。


 舞い上がりそうになる気持ちを抑えつつ、じっくりと絵を眺めていると下の方に日付が書かれていた。

 その日付に思い当たる出来事があり、また泣きそうになってしまうのを必死に堪える。



 私が染谷くんを好きになった春の日。

 放課後の教室で会った私のことを描いてくれたんだ。


 恋をした私にとって大事な日をこうして偶然にも描いてもらったなんて幸せすぎて、恥ずかしそうにしている彼には悪いけれど知れてよかった。


 さっきは彼女って間違われて困っていたのを見て不安だったけど、こうして描いてくれていたってことは私のこと嫌ではないって思ってもいいのかな。



「主人にはね、壮吾のクロッキー帳も画材も全て捨てろって言われて、勝手に部屋に入って整理していたの。……最低よね。だけど、どんな絵を描いているのか気になって、最初に開いたのがこのクロッキー帳だった。……こんなに素敵な絵を捨てられるわけないわよね」

「捨てないでくれてありがとう」


 染谷くんの言葉はお母さんにも豊丘先生にも届かない。

 私にしか聞こえていないけれど、彼は安堵している様子だった。


 彼にとっての宝物の絵や画材をお母さんは捨てろと言われても守ってくれていたんだ。



「将来のためになんてならないって考えも変わらないけれど、絵を捨ててしまったらあの子の心は本当に閉じてしまう気がして怖かったの」


 染谷くんのお母さんはクロッキー帳を抱きしめながら長い睫毛を濡らし、ぽたりと落ちた大粒の涙が深緑のスカートに染みを残していく。




「先生、あの子は本当に事故でしたか? ……自殺、ではないですか」


 声を震わせ、振り絞るように言ったお母さんの言葉に染谷くんは悲しげに下唇を噛み締めて俯いてしまう。


 今の彼には覚えていない出来事だった。自分が何故非常階段にいたのかも、落ちたときのことも、彼はまだ思い出せていない。

 なにも答えられない。もし覚えていたとしても、今の透明な彼には答える術がないのだ。



「警察は自殺ではないと判断したようですし、状況から見て事故だったのだと思います」


 おそらく豊丘先生と同じ説明を家族である染谷くんのお母さんは既に聞いているはずだ。


 お母さんは家の問題で染谷くんが追い詰められていたのではないかと不安なのだと思う。父親に認められず、画材を捨てろとまで言われているのだ。仲がいいほうではないことは他人の私でもわかる。



「……あの子はいつ目を覚ましてくれるんでしょうか。私……あの子にどうしてあげるべきだったのでしょう」


 豊丘先生が口を開いてなにかを言おうとした直後――――玄関の方から音がした。重なり合う足音が一人ではないことがうかがえる。


「カズくん、待ってってば」

「だから、俺忙しいんだって。家帰れよ」


 聞こえてくる男の子と女の子の声に染谷くんのお母さんは慌てて、涙を拭って泣いた形跡を消した。

 リビングに姿を現したのは学ランを着ている男の子と、私と同じ制服を着た女の子だった。



「おばさん、お邪魔しま…………なんで豊丘先生がいるの」


 女の子からは笑顔が消え、訝しげに私と豊丘先生のことを見つめている。発言からして、彼女はこの家の住人ではないようだった。


 隣の男の子は明らかに不機嫌そうな面持ちでこちらを眺めている。

 染谷くんよりも髪が短いけれど、顔立ちは似ていておそらく兄弟なのだろう。年上には見えないので、弟だろうか。



「……アイツの担任?」

「和人」


 彼の発言を咎めるようにお母さんが名前を呼んだ。

 私の横で染谷くんがこっそりと「一つ下の弟なんだ」と教えてくれる。兄のことを〝アイツ〟と忌々しげに呼んでいることから、関係は良好ではないようだった。


 染谷くんが私と燈架のやり取りを見ていて、『仲が良くていいね』と言っていたことを思い出す。


 世の中の兄弟たちみんなが仲良しなわけではない。それはわかっていたことだ。それでも、この状況を目の当たりにしてしまうと他人の家とはいえ胃のあたりがじくじくと痛む。


 教室では基本的に一人で、部活では先輩から嫌がらせを受け、親には好きなことを認めてもらえない。そして、弟からは嫌悪されていた。

 彼の居場所が見えなくて、幽霊になった彼が家に戻りたがらない理由を改めてわかった気がする。私が彼だったら、同じように戻りたいとは思えない。



「相内が持ってきた退部届の件でお邪魔したんだ」


 染谷くんの弟と一緒に現れた女の子は、相内というらしい。彼女が染谷くんの退部届を提出したということはこの家の人と親しい間柄ということだろう。


 相内さんがちらりと私のことを見て、不満気に眉根を寄せた。この女は誰だとでも言いたげで、向けられた視線に棘を感じる。

 豊丘先生もそれに気づいたらしく、胡散臭い笑顔を貼り付けて私のことを説明してくれた。



「中村は染谷のクラスメイトで親しかったから、心配していたから一緒に来てもらったんだ」


 全てが嘘というわけではないけれど、この中にクラスメイトの人がいたら豊丘先生の嘘をあっさりと見抜くだろう。

 彼には特別親しい人はいなかったし、私と彼はそういう関係でもなかったことをみんな知っている。


 ただ秘めていた想いにはほとんどの人は気づいていないだろうけど。



「……親しい?」


 どうやら相内さんも染谷くんの弟も私が彼と親しいという発言には疑念を抱いたらしい。

 私のような髪の毛も茶色くて、制服も着崩している人とお手本と言えるくらいしっかりと制服を着ていて真面目だった染谷くんが親しいということにはやはり不思議に思うらしい。



「では私たちはそろそろ」


 豊丘先生はこれ以上長居をするつもりはないらしく、鞄を持って立ちあがった。

 それが合図のように私も立ち上がり「お邪魔しました」と頭をさげる。


 痛いくらいの居心地の悪い二つの視線を感じながら、私と豊丘先生、透明な染谷くんは彼のお母さんに見送られて家を後にした。



 ***



 豊丘先生と駅前で別れ、夕焼けに染まる道を歩きながら家を出た直後に豊丘先生に言われたことを思い返す。


『すっげーラブレターだったな』

『……ラブレター?』


 不思議に思って訊くと豊丘先生は意地悪く口角を吊り上げて笑ってみせる。


『あの絵だよ。好きですって書いてあったじゃん』

『か、書いてなかったから!』


 染谷くんがクロッキー帳に描いてくれた私の絵の件だとわかり、咄嗟に否定した。


 豊丘先生は視えていないから知らないだろうけど、すぐそばに染谷くんがいるんだから困らせるような冗談はやめてほしい。困らせてしまっている気がして、彼の方を見ることができなかった。


 そりゃ嬉しかったよ。本当はあれを貰って宝物として飾っておきたいくらい嬉しかった。


 少なくとも嫌われてはいないと思えたし、自惚れそうになった。けれど、染谷くんは勝手に描いてごめんと言ったきり、絵に関しては触れてこなかったので特別な意味はないのだと悟ってしまった。



 ラブレターなんてそんな甘い想いはきっとあの絵には込められていない。そう思うと切なさが胸に広がるけれど、やっぱり嬉しいって感情も存在している。

 アスファルトに落ちる影は一つ。けれど、私は一人ではない。隣には透明な彼がいる。



「ごめんね」


 ぽつりと染谷くんが謝罪の言葉を漏らす。

 それがなに対してなのかわからなくて首を傾げると少し困ったような悲し気な表情で「俺の家のこと。あまりいい気はしないでしょ」と付け足した。



「染谷くんはなにも悪くないよ」


 そう答えたけれど、染谷くんはあの場に行かせてしまったこと、止めなかったことを申し訳なく思っているようだった。



「父は医者でさ、兄も医者を目指していて俺も弟も当然のように医者を目指せって言われてきたんだ」


 初めて聞く染谷くんの家の事情。

 焼けるくらい熱い夕日に私の肌は燃えてしまいそうなくらい琥珀色に染まっている。けれど、そんな熱さを感じない透明な彼は温度なんてないように淡々と自分のことを語りだす。



 小学校の頃に美術の時間で絵を描いてから興味を持って、部屋で絵を描くことが趣味になっていた染谷くんはお父さんからもお兄さんからもそんなものは意味がないからやめろと言われてしまったらしい。


 威圧的に話すお父さんやお兄さんが幼い頃から染谷くんは心のどこかで恐怖心を抱き、まるで台本を用意されているような人生にも嫌気がさしていた。そんな彼の唯一の幸福の時間が絵を描いているときだった。



 中学三年生の頃にこっそりと出したコンテストで賞をとってから染谷くんの中で絵の存在は更に大きくなり、このままお父さんの言う通りの道を歩んでいくことに抵抗が生まれ、指定されていた高校の受験をやめて今の高校を受けたそうだ。



 それを知ったお父さんからは罵倒され、殴られたこともあったらしい。

 相談もなしに勝手に決めたから、怒られて当然だと染谷くんは話しながら痛々しいくらいの微笑みを浮かべていた。


 お兄さんからも弟からも冷たい目を向けられ、顔を合わせれば嫌味を言われるような関係になってしまったのも高校受験をしてかららしい。とはいっても、その前から仲のいい兄弟ではなかったと話す染谷くんは寂し気だった。



 それでもお母さんはなにも言わずにいつもお父さんに従っていたから、画材を捨てずにいてくれたことは嬉しかったそうだ。


 豊丘先生から聞いていた怪我の件を思い出して、今もお父さんから暴力を振られているのかと尋ねると高校入試のときくらいしか殴られていないという。それなら、誰が染谷くんに怪我を負わせたのだろう。



「俺がいなくなって本気で悲しむ人はいないんだ。……まあでも、母さんは泣いてくれていたけど、世間体とかも気にしているんだと思う。俺が父さんに殴られているときも、顔はやめてとしか言ってくれなかったから」


 確かに母親としては少し妙な感じはした。


 退部届の件も、『主人は美術部はやめさせるべきだと判断して提出したのだと思いますので』と発言していたことから、染谷くんの意思よりもお父さんの意思を尊重しているように見えた。



 心配していた気持ちは嘘ではないと思う。それでも染谷くんにとっては過去のお母さんの発言は、彼の心を抉り素直に気持ちを受け取れないくらいの傷はつけてしまっているんだ。



「私は悲しいよ」


 同情なんかじゃない。染谷くんが非常階段から落ちたのを発見して、心臓が凍りつくかと思った。



「今こうして一緒に入られて嬉しいって思っちゃう自分もいて、それでも染谷くんには元に戻ってほしいとも思う」

「……本当?」

「うん。だって、私もっともっと染谷くんと話したい!」


 彼にとっての存在意義は、私がいなくならないでほしいと思っている気持ちくらいでは足りないかもしれない。


 それでも生きていてほしいと思う人が一人でもいることを知ってほしい。


「よしっ! 行こう!」


 意気込んで私は道を変更する。突然のことに困惑した様子で私の後についてくる染谷くんに親指を突き立てて、ニッと歯を見せて笑う。


「ど、どこに!?」

「私のとっておきの場所!」


 心を覆う不安や憂鬱な思いなんて吹き飛ばせばいい。曇りの空がずっと続かないように人の心だって、晴れる日がきっとくるはずだ。


 私は夕焼けに染まる道を駆け出した。急いでいるわけではない。けれど、早く向かいたいと気持ちばかりが先を行ってしまうので追いつくように足を動かす。


 足音は一つだけ。それでも隣にいる染谷くんも私と速度を合わせてくれていた。






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